第一章 4-1

 4


 気配を殺してゆっくりと近付き、アルクスは動きを止めた。これ以上距離を詰めると気取られて逃げられてしまう。

 音を立てないよう慎重に矢をつがえ、得物へ目を凝らす。

 狙うのは首から頭にかけて。胴は一発で仕留められなかった場合、出血して肉がいたんでしまう―――ここまでの道中でディゼルトに教わったことだ。

 草を食べていた野兎は、ふと顔を上げて後ろ足で立ち上がった。動きの止まったその瞬間に矢を放つ。

「っ!」

 矢は野兎の首を貫いた。一度、大きく痙攣けいれんし、ぱたりとその場に倒れる。

「……よし」

 呟いてアルクスは野兎に駆け寄った。野兎にはまだ息があり、弱々しく藻掻もがいているのに止めを刺す。

「ごめんよ」

 社交に必要だからと、何度か遊猟に連れて行かれたことがあるが、あまり興味はなかったし、積極的にやりたいとも思わなかった。仕留める過程を楽しむ遊びの狩りと、食べるために―――生きるために殺す狩りは全然違う。生きるための狩りを教えてくれたディゼルトは、獲物を可哀想がるアルクスに、だから無駄に殺してはいけないし、命を粗末にしてはいけないと言った。

(父上も遊猟は好きじゃなかったな……)

 リュングダールを過去形で思い出してしまい、アルクスは唇を引き結んだ。胸元を押さえて、首飾りをたしかめる。これは形見ではない。きっと生きている、あの父がそう簡単に死ぬものかとかぶりを振る。

 今は考えるときではないと切り替えて、狩った野兎の血抜きにかかる。

 抜いたはらわたは始末した方がいいが、このあたりは危険な生物はいないはずだから、置いておいてもすぐに狐などの動物が食べてくれる。リュングダールの方針で、アルドラ領内は軍が定期的に人を害するような危険種を狩っていたので、人里近くに害獣が出ることは滅多にないのだという。ディゼルトの言葉を思い出しながら、アルクスは処理を終えた野兎をさっき狩った鳩の隣に括り付けた。

(ほら、おれ一人でもできるじゃん)

 ディゼルトは道すがら、狩りや森の歩き方を教えてくれた。しかし、アルクスが一人で狩りに出ることはかたくなに許可してくれず、必ずついてきた。

 心配なのはわかる。しかしディゼルトは、一時は溶けてしまうか蒸発してしまうのではないかという高熱を出していたのだし、治ったばかりなのだから休んで欲しい。アルクスが一人で大丈夫だと証明すれば安心してくれるだろうと、今朝早くから抜け出してきたのだ。

 今日の分は獲れた。もう帰ろうと立ち上がりかけたとき、妙な気配を感じてアルクスは身を低くした。じりじりと移動し、茂みに隠れるようにして周囲をうかがう。

 気配の元はすぐにわかった。がさがさと枝葉を掻き分ける音が近付いてくる。その姿を見てアルクスは息を飲んだ。

(帝国兵……!?)

 灰色の軍服をまとった兵士が五人、特に周囲を警戒することもなく歩いている。半ば無意識に弓を構えようとしていることに気づき、アルクスは震える手を下ろして拳を握り締めた。

(駄目だ……駄目だ駄目だ駄目だ)

 一人で五人を相手どるのは無理だ。ここで騒ぎを起こせば村に迷惑がかかる。

 「力」を使えば蹴散らせるだろうが、確実に「アルドラの王子」の居場所が知れる。何より、ディゼルトとフィアルカが見つかってしまうような危険は冒せない―――繰り返し自分に言い聞かせ、気を落ち着かせる。でないと、後先を考えずに飛び出してしまいそうだ。

 衝動と戦っているうちに帝国兵が去って行き、アルクスは詰めていた息を吐き出した。気配が完全に遠ざかってから立ち上がって村への道を急ぐ。血の味を感じて唇を舐めると、知らぬ間に噛みしめてしまったのか、浅く切れていた。

(……痛て)

 強くかぶりを振って激情の欠片を飛ばす。意味もなく叫びたかったが、それも駄目だ。早くこの場を離れてしまおうと、アルクスは村へ戻る足を速めた。

(なんでこんなところに帝国兵が?)

 アルクスたちのいる村は、街道から東に外れ、北東には森が茂っている。この森は光国こうこくアルドラの南東から、炎国えんこくミルザムにかけて広がっている。ミルザムは現在帝国の支配下にあるので、そちらから偵察に来たのかも知れない。

(二人に教えないと)

 森を抜けるとすぐ農地がある。早くに出てきたのでまだ朝食くらいの時間だが、既に畑仕事を始めている人の姿がちらほらとある。

「アルくん!」

 呼ばれてそちらを見れば、フィアルカと同じくらいの年頃の少女が手を振っていた。近くには彼女の祖母もいる。二人とも顔見知りなので、アルクスはそちらへ近付いて挨拶を返した。

「おはよう、ユノアばあちゃん、ライラねえちゃん」

「はい、おはよう」

「おはよう、アルくん」

「ユノアばあちゃん、こないだはカボチャありがとう。凄く美味しかった」

「そうかい、それはよかった。また食べておくれね」

 二人は家が近いので、畑で取れた野菜をよく分けてくれる。ユノアの作っている野菜はどれも美味しい。

「アルくんは狩りに行ってたの? 無事に帰ってきてよかったわ」

 獲物を見たライラの言いようが大袈裟で首をかしげると、ユノアが教えてくれる。

「ゼロさんとフィーアちゃんが血相を変えて捜していたよ。アルくんがいなくなったって」

「え」

 まずい、とアルクスは青くなった。黙って一人で外に出たことを叱られるのは覚悟していたが、捜し回られるとまでは思っていなかった。

「早く帰った方がいいんじゃないかねえ」

「う、うん、すぐ帰るよ。二人とも、もしゼロ兄たちと会ったら」

「アルくんは帰ってるって伝えるね」

「ありがとう!」

 言い置いてアルクルは走り出した。悠長に歩いている場合ではない。

 アルクスたちが借りている家は村の外れにある。集落の外側を回るように走っていると、前方から小走りにフィアルカがやってきた。

「アル!」

 駆け寄ってきたフィアルカは胸に手を当てて息をついた。

「よかった……、いなくなってしまったかと思ったわ」

「ごめん」

 素直に頭を下げると、フィアルカは困り顔になったが怒りはしなかった。

「ゼロさ……兄様も、お捜しに……捜しているから、お知らせしてくるわ」

 フィアルカがディゼルトのことを口にすると、途端にたどたどしくなる。「妹」であるフィアルカが「兄」のディゼルトにかしこまって喋るのは妙に思われると、ディゼルトに再三言われて改めようとしているようだが、長年の習慣はそう簡単には抜けないらしい。

「おれが行くよ。フィーアはこれをお願い」

 フィアルカに狩りの道具と獲物を渡したところで、彼女は何かに気付いたように顔を強張こわばらせた。思わず振り返れば、その先にはディゼルトがいる。反射的に逃げ出したくなったが、余計に怒られそうなのでアルクスは諦めて項垂うなだれた。

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