アニメ化決定!
キングスマン
アニメ化決定!
ある日、アニメ化が決定した。
どうやら私はアニメになるらしい。
いつもの通学路。学校まであと二分の地点にあるコンビニのガラス越しに発売されたばかりの雑誌がいくつか並んでいた。その中の表紙の一つに既視感と違和感を混ぜたような存在感を放つものを見つけ、思わず立ち止まる。
私の名前がインパクトあるフォントで印字され、その横に『アニメ化決定!』と銘打たれていた。
つまり表紙で笑っているアニメ調のイラストの少女は私という認識でよろしいのだろうか。
同姓同名かもしれない。
しかし顔のホクロや、笑顔で開いた口からのぞく八重歯の位置は私と同じだ。
髪型もそっくりだし、着ている制服もお揃いである。
明らかにかわいくアレンジされすぎていることを除けば、ほぼ私だった。
わけもわからず、吸い込まれるようにコンビニに入って、雑誌を手に取り表紙をめくる。
ページをワックスでピカピカに磨いて鏡面仕上げされてるみたいに、そこに私の顔が映っていた。もちろん雑誌にワックスがけされていたわけではなく、私の写真が載っていたのだ。
そして『待望のアニメ化』とある。
この世界のどこかに私が二次元の世界へいくことを待ち望む勢力があるとでもいうのか。
じっくりと読みたかったけれど、あと五分以内に教室の席についていなければ放課後、ボランティア活動という名目で強制労働に参加させられるため、雑誌を棚に戻して小さなペットボトルに入ったお茶を一本買って店を出た。
教室に入ると、クラス全員の視線が私に集中する。
みんな、一体どうしたというのだろう。私の立っている方角が恵方だとニュースでやっていたのだろうか。
「見たよ」とクラスの友人はいう。「アニメになるんだってね」
それを皮切りにクラスメイトたちは私に祝福の言葉を浴びせはじめた。
「おめでとう」
「やったじゃん」
「絶対なると思った」
「次は映画化を目指そう」
「その前にドラマ化でしょう」
周囲の盛り上がりに反比例して、私は一人、台風の目のように静かだった。
なんだろう、これは。
クラスの地味な女子を担ぎ上げて調子にのるまでの様を隠し撮りして動画サイトにアップするつもりだろうか。
まっさきに浮かんだのは、そんな陰謀論だった。
黒板の上に設置されたスピーカーから臨時の全校集会を告げられ、生徒全員、体育館に招集される。
体育館に到着するなり、入り口で待ち構えていた担任の先生に腕を掴まれ、私だけ壇上に連行された。高いところから見える景色はそれなりに圧巻で、家で勉強するときはメガネをかけている私の視力でも一番遠くにいる生徒の表情をしっかりと確認できた。笑顔だった。
「えー、みなさん」いつの間にか隣にいた校長先生がマイクを使って話しはじめる。「既にご存じの方も多いと思いますが、このたび、我が校の生徒がアニメ化されることになりました」
館内が、わっと響き、歓声の波が私の体を震えさせる。血行促進に効果があるかもしれない。
この反応からして、私がアニメ化されることは周知されていたようだ。みなさん、いつからご存じだったのだろう。私はおよそ二十分前からだ。
「それではスタッフの方々に登場していただきましょう」
木が枝を伸ばすように校長先生が左手をひろげると、ステージの袖から数人の女の子が入ってきた。全員、同じ制服を着ている。それはとても有名な中学校のものだ。
お金と実力にものをいわせて生徒の望む可能性をぐいぐい高める英才教育でその名を轟かせている私立の名門。学校の名前は知らない。だけど名門なのは知ってる。視力検査で使うあのアルファベットの『C』みたいな記号を何というのかは知らないけど、あれで視力を検査するのは知ってるくらいの感覚で知っている。
オリンピックメダリストの大半はそこの中学の卒業生だし、ミシュランに星をもらったお店には例外なく調理部出身の人がいるというし、去年のアカデミー賞で作品賞と監督賞に選ばれた作品の監督は卒業生どころか在校生だった。
あらゆる分野での史上最年少記録を更新しつづける人材を幾多も輩出中の、そういう学校だ。
あまりにも規格外の成果と評価はもはや神話の類いであり、アンデルセン童話のほうがよっぽど現実的に見えてしまう。
その天才たちと対峙した私からの第一印象は、その制服かわいい、だった。
こっちと同じ白の半袖スクールシャツだけど、彼女たちのシャツのほうがより白く、清潔感があるしリボンまでついてる。スカートも同じネイビーでも、こっちは無地なのに対してあっちはチェック柄で明らかに素材もいい。
遠くから見れば些細な差かもしれない、この距離だからこそわかる圧倒的経済格差。
彼女たちがフルーツのいっぱいのったショートケーキだとするなら、私はクリームすら塗られていないスポンジケーキ、いや、ケーキですらないただのスポンジかもしれない。
私が勝手に被害妄想を
「はじめまして。今回の作品で監督を務めさせていただきます。この作品に関わることができて心から光栄です」
少女の表情は柔らかで、口は少しだけ開いて、でも瞳には強い意志が宿っていた。
社交辞令なんかじゃない。これから生み出そうとするものに対する、真摯な態度。
「マジかよ……」離れた場所にいる男子のつぶやきが聞こえた。「ルルアニのメンバーじゃん。アニメ化ってルルアニが担当するのかよ」
「るるあに?」監督さんと握手を交わしながら、私はそうこぼした。
「スクールガールアニメーションスタジオ。私たちの居場所の名前です。ファンのみなさんからはルルアニの愛称で呼ばれています」
まだアルバイトだってできないはずなのに、彼女たちはすでに職場を持っていた。
そして監督さんはヒマワリの花が咲くように悠々とした笑顔で、こうつづけた。
「ではスタッフの紹介をします。まずはキャラクターデザインの──」
「おう、ヨロシク!」
監督さんの声をさえぎって、その少女は私に迫ってきた。
金髪の長髪。リボンもなく第二ボタンまではずされたシャツ。もしかして脚に凶器を隠しているからそんなに長いんですかとお訊ねしたくなるほど丈のあるスカート。
二つ前の元号からやってきたような風貌だ。
「アタシのことは気安くキャラデザって呼んでくれよな」とキャラデザさんはいった。
「……あっ、はい」脅されてるみたいに、か細くうなずく。
「アタシさあ、アンタのことマジリスペクトしてっからな」
そういってキャラデザさんはドシドシと私の肩を叩く。ここに植えるつもりだろうか。
監督さんはいう。「キャラデザちゃんはチーム最年少の十二歳なんですよ」
「じゅ──?」驚きのあまり、焼けた鉄板に生肉を押しつけたような声を出してしまう。
つまり私より五歳も年下ということになる。
ほんの数ヶ月前までランドセルを背おっていたということでもある。
確かに顔をよく見れば、化粧ではごまかしきれていない幼さがにじみ出ているし、背は高いけど体つきはまだ子供だ。
「ところでこれはもう見てくれたかい? アタシの会心の一撃を」
キャラデザさんはボタンのはずれたシャツの隙間に腕を入れて中から板のようなものを取り出した。
防弾用に胸にまな板でも仕込んでいるのかと思いきや、そうではなく、それは今朝コンビニで目撃した表紙に私が描かれているとおぼしき雑誌だった。ここまでの流れから察するに、そのキュートな私を描いたのは目の前の金髪の少女ということになる。
「できるだけ大勢に見てもらいたいからあえて流行のテイストにしてみたんだけど、気に入らなかったらいってくれよ。そしたら──」
ロープで縛ってバイクで引きずりまわされたりするのだろうか。
「──気に入られるまで、とことん描いてやるからな!」
どこからともなくスケッチブックと羽のついたペンを取り出して、次々と私を描きはじめる。
写実的なもの、ディフォルメされたもの、海外のアニメでよく目にするタイプのデザイン。
同じ手から生み出されているとは思えない表現の豊かさ。それはまぎれもなくプロの仕事だった。
十二歳の小さな手は、とめどなく私を生産しつづける。
「キャラデザちゃんはこのモードに入るとしばらくとまらないので、次はキャストを紹介させていただきますね」
監督さんの言葉に、私は「キャスト?」と首をかしげる。
「それでは、お入りください」
監督さんの声に招かれて、舞台袖から一人の女の子がやってきた。
途端、体育館が動物園と化す。
失礼な表現かもしれないが、そうとしかいいようがないのでしょうがない。その女の子の姿を確認するや否や、全ての男子と女子と先生まで叫びはじめたのだ。
「はじめまして。よろしくお願いします」
こういう雰囲気には慣れているのか、女の子は臆することなく笑顔のまま私の手を握る。
「声優はオーディションで決める予定だったのですが、この方がぜひ自分に任せてほしいと志願されてきまして、こちらとしても願ってもないことなので快諾しました」
つまり声優さんということらしい。同じ制服を着ているので、この子も中学生なのだろう。
それにしてもすごい人気だ。この子がきてから体育館の音圧はどんどん上昇していく。
それにすごい美人だ。声じゃなくて顔で選ばれたのではと疑いたくなるくらい。
「セルディス様──!」
数人の女子生徒が声優さんに向かって声を上げる。すると声優さんの表情から笑顔が消え、彼女たちのほうを忌々しい目つきで睨み、そして叫ぶ。
「口を慎め混沌かつ愚鈍なる人間どもよ。精霊王の御前であるぞ!」
罵倒以外のなにものでもないはずなのに、そのセリフを聞いた女子たちは歓喜の悲鳴を上げ、脚の筋肉が溶けたみたいにその場に崩れてしまう。
セルディス様がどこのどなたなのかは存じ上げないけど、声優さんの声を聞いた瞬間、そこに確かに碧い眼と銀色の髪をした美しい青年の姿を見た。
「委員長──!」
今度は男子諸君からのリクエスト。
ぷくっと頬をふくらませた声優さんは、腰に手をあてながらこういった。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ。誰がチンチクリンですって?」
誰もチンチクリンだなんていってない。はずなのに、そこに小柄で強気な少女の存在を感じてしまうのはなぜだろう。
なんだか、この声優さんの舞台を鑑賞しているようで、お金を払いたくなってしまう。
それに訂正したいことが二つできた。
声優とは、いい声を発するのが仕事なのだと漠然と思っていたけど、そうではなく、声だけで物語の世界観ごとそのキャラクターを顕在化させてしまう役者を声優というのだ。
あと、この声優さんは間違いなく演技力で選ばれている。
────♫
虚を突くように響いた鍵盤楽器の調べに反応して、みんな静まりかえる。
「ありがとう。沈黙は最高の音色の一つだね」
壇上の中央で、その少女はそう口にする。
彼女は制服の上にお医者さんみたいな白衣を羽織っていた。
手には十インチほどのタブレットを持ち、その画面にはピアノの鍵盤が表示されている。
どうやら楽器を奏でるアプリのようで、さっきの音はそれを使ったのだろう。
「紹介します。彼女は作曲家です」と監督さんはいった。
作曲家さんは私に接近すると、はじめましてといいながら手をさし出してくる。
ほとんど条件反射でその手を握ろうとしたものの、作曲家さんの手は私の手のひらにふれることなく通りすぎ、私の胸に手をあてた。
何ごとかと思うと、健康診断で使うような聴診器が私の左胸に接触していた。
なんだ聴診器で心音を聴きたかったのか、などと思うはずがなかろう。
なぜ今ここで聴診器?
「──なるほど」作曲家さんは医師のように納得しながらうなずく。「これがあなたの音なんですね。実にあなたらしい素直で曇りのない音だ」
そしてタブレットを操作しはじめる。
「ちょっと失礼」
そういうと、くちびるを私の耳元まで近づけて、ふっと息を吹きかけてくる。
「──ひゃぅ」と、耳に息でも吹きかけられなければ出せない声を出す。
「なるほど、なるほど」
人さし指で私の首筋をなぞってくる。
「──はぁゃ」
「ふむふむ」
おでこにキスされる。
「──きゃっ」
「いいですね」
腕をつかまれて、小指を甘噛みされる。
「──やぁっ」
「ではこれは」
ふとももと少し強めにつねられた。
「──いぎゃ」
「よし。完璧です」
作曲家さんの表情は達成感に満ちていた。
確かに完璧だ。完璧なセクシャルハラスメントだ。一刻も早く警察と弁護士とスクールカウンセラーに相談しなければ。
ひゃぅ、はぁゃ、きゃっ、やぁっ、いぎゃ。
作曲家さんのタブレットから私の奇声が再生される。
「なに勝手に録音してるんですか!」さすがに怒る。
「落ち着いてください。これは必要なことなんです」
手のひらをゆっくり上下させて、私をなだめてくる。
例えそれで地上から争いがなくなるといわれても、自分のだらしない声を使われるなんてまっぴらごめんだった。
私の心情など意に介さず作曲家さんはタブレットをちくちくいじりながら、これで仕上げといわんばかりに勢いよく、ぽんっと人さし指で画面をタップした。
タブレットのスピーカーから音楽が流れ出す。
────♫
例えば、ビートルズの『イエスタデイ』が好きだといったら、なんて思われるだろう?
たぶんほめられるでもバカにされるでもなく、ああそうなんですか、くらいの反応だろう。
私はイエスタデイが大好きだ。
はじめてきいたとき、言葉にできない衝撃を受け、息を
今でも忘れない。私は小学二年生で、家のテレビから流れたその音楽に、理由もわからず涙ぐみ、この歌の名前を教えてほしいと母に詰め寄った。
覚えたてのその曲名をパソコンで検索して、出てきた動画サイトから流れる音楽に一日中ずっと耳を傾けていた。
作曲家さんのタブレットから流れた曲がイエスタデイに似ていたわけではない。むしろ全然違う。これまで聞いてきたいくつもの楽曲たちと共通点のない新しい音だった。
それでも私は小学二年生のように衝撃を受け、息を呑んだ。
去年どころか半年前にどんな歌が流行っていたかを思い出せる人はきっと多くないだろう。
有名な曲でも、サビだけなんとなく知っていて曲名は知らないという人がほとんどだろう。
だけど五十年以上前に発表されたイエスタデイを知らない人にはまだ出会ったことがない。
作曲家さんが奏でているこの曲にも当然名前があって、今から五十年後のある日、誰かが誰かに好きな曲を
そして、ほめられるでもバカにされるでもなく、ああそうなんですね、という反応をされるだろう。
つまりこれは、そういうものなのだ。
普遍的で、人生の基礎となるような音楽。
私の一方的な思い込みではない。体育館にいる誰もが、目を閉じ、耳を傾けていた。
まるで、小学二年生のように。
やがて音はとまり、静寂と余韻のあとで私は作曲家さんに訊ねる。
「……この曲は?」
「いま作りました。アニメで使う予定のあなたのテーマ曲です。やはり御本人に直接会うと得られるインスピレーションが桁違いです」
「でも、録音した私の変な声とか別に使ってませんでしたよね?」
「手に入れた素材を全て出力するわけではありません。あれは私の中で
なんだかとてもアーティスティックなことをおっしゃっている。
どこをどうすれば私の心臓の音やうめき声があんな素晴らしい作品になるのかわからない。
リンゴと生クリームとオハイオ州を混ぜてバッキンガム宮殿を作りましたみたいな、凡人には到底理解できない理屈と原理で芸術は完成したのであった。
ガシャン、とブレーカーが落ちる音がして、同時に館内の電灯が全て消える。
カーテンは閉まっていても、午前中なので完全な暗闇にはならない。とはいえ、視界はおそろしく制限されてしまう。
その声は、私の右耳のそばでささやいてきた。
「──聞いて聞いて」
自家製の苺ジャムみたいに甘酸っぱい声だった。
それから間髪入れず、左耳のそばでも声がする。
「──聞かせて聞かせて」
その声は右側から聞こえてきたものとよく似ていた。
私をサンドイッチするように自分の両隣に女の子がいるのはわかる。まだ闇に目が慣れていないので顔は確認できない。
「聞いて聞いて──」右側の少女がいう。「──優しい優しい物語」
おもむろに語られる物語。
そのあまりの優しさに私は胸を打つ。
それはまるで、心に仔猫がやってきて、ごろごろと寝転がるような、あたたかな物語だった。
表情がほころび、前向きな気持ちが生まれてくるのがわかる。
なんて素敵な物語。
薄暗い体育館。まぶたを開いても何も見えない。だからまぶたを閉じて、より深くあたたかな世界へと浸っていく。
全ての美しいストーリーがそうであるように、この物語も完璧なタイミングで幕を閉じた。
それでも私はまだ、その世界に酔いしれていた。
「聞いて聞いて──」
だけど私の左側にいる少女は、声を
「聞かせて聞かせて──」
私に至高の優しい物語を聞かせてくれた右側の少女がそれに応じる。
「聞いて聞いて──」左側の少女はいう。「──
そして語られる物語。
そのあまりの寂しさに私の胸はしめつけられた。
さっきまで優雅にうたたねしていた仔猫が苦悶の表情をうかべ、何かを必死に私に訴えかけてくる。だけど私に猫の気持ちを読むことはできなくて、まもなく仔猫は私に絶望した仕草を見せつけるとそのまま去ってしまった。それは永遠の別れのようにも感じられた。
例えるのなら、そんなそんな、寂しい寂しい物語。
もうこんな話、聞きたくない。しかし視界を塞がれている暗い体育館では否が応でも物語への集中を余儀なくされてしまう。
いやな汗をかいているのがわかる。
私は、どうすればいいのだろう。
「聞いて聞いて──」
まだ私は寂しさの迷路から抜け出せていないのに、右側の少女はささやく。
「聞かせて聞かせて──」
左の少女が応える。
「聞いて聞いて──」右の少女はいう。「──楽しい楽しい物語」
ここで朗報が一つ。
仔猫が帰ってきた。しかも、たくさんの仲間をつれて。
みんな幸せそうに私の元に集まり、にこにこ笑い、みゃおみゃおと歌いだす。
それはただ豊かで、ただ満たされた世界の訪れ。
思わず私も歌いだしたくなる。
いや違う、既に鼻歌をうたっていた。
このリズム、どこかで聞いたことがある。どこだろう? そうだ、さっき作曲家さんが作ってくれた私のテーマ曲だ。
鼻歌だけでは終われない。即興で適当な歌詞をつけて本格的に歌いはじめようとしたとき、左側の少女が口を開く。
「聞いて聞いて──」
もはや恒例ともいえるパターン。右側の少女がそれに呼応する。
「聞かせて聞かせて──」
「聞いて聞いて──」左の少女はこうつづけた。「──悲しい悲しい物語」
「──ちょっと待って!」
私は左右に両手を伸ばし、制止する。
これまで聞いた三つの物語はどれも極上のものばかり。
最高に優しかったし、どうしようもなく寂しかったし、今までで一番楽しかった。
今度は悲しい物語だという。
どんなものかは想像できないけれど、きっと私の心の仔猫を再起不能にするレベルの悲劇を聞かされるに決まっている。
さすがにそれは御免
今の楽しい物語のままでいたい。
だって、どう考えたって物語は笑顔で終わらせるべきだから。
私の意見に世界が賛同するように、体育館の明かりが復活した。
謎の語り部の正体を確認するべく左右に目を向けると、私の両隣には同じ顔があった。
「……えっと、あなたたちは?」私は
「彼女たちは──」と監督さんの声。「シナリオライターです」
「はじめまして」右の少女はいう。「シナリオライター姉です」
「はじめまして」左の少女はいう。「シナリオライター妹です」
「二人は双子なんですよ」と監督さんは教えてくれた。
それには納得できた。むしろこれで赤の他人だといわれていたら、ひどく混乱しただろう。
声と同様に愛らしい顔も、ほっそりした体格も全く同じで違いがわからない。あえて異なる部分を探せば、お姉さんのほうは黒猫のヘアアクセサリーを、妹さんのほうは白猫のヘアアクセサリーをそれぞれ髪に飾っていた。
おそらく、それで見分けをつけられるようにしているのだろう。
「さて」話を先に進めますという調子で監督さんはいう。「スタッフの紹介は以上です。もちろんまだまだ大勢いますけど、他のメンバーは次の打ち合わせのときにでも」
「……なるほど」とりあえず、相づちを打つ。
なんというか、圧巻だった。
才能のつるべ打ちに感情が追いつかず、頭が酔っている。
だけどその酔いは、意外なほどすぐに醒めた。
「最高の作品をつくらせていただきます」
監督さんの宣言に体育館が沸く。
観衆の大歓声で私は我に返る。
そもそも一体これは何なのか。
私をアニメ化? どうして?
その困惑が顔に出ていたのか、監督さんが私の顔をのぞき込んできた。
「どうかされましたか?」
少し躊躇したものの、おもいきって私は訊く。
「あの、その──よくわからないんですけど」
「といいますと?」
「なんで私がアニメになるんです?」
「アニメになりたくないんですか?」
呼吸をしたくないんですか、くらいの感覚で監督さんはいった。
「そういうことじゃなくてですね、理由がわからないといいますか」
「理由ならありますよ」
「なんです?」
「私たちがあなたをアニメにしたいからです」
全然理由になってない。
ずしり、と押しつぶされるような視線を感じて、その方向に目を向けると全校生徒が不可解なものを見る目を私に向けていた。
せっかくのめでたいイベントにどうして本人が水を差すようなまねをするんだ? といわれているみたいだ。
人が最も残酷になれるのは悪事を成しているときではなく、正しいと信じて疑わない行動を取っているときである。そんな言葉が脳裏をよぎる。
うしろめたいことなど何もしていないのに、罪悪感がこみ上げてくる。
とにかく私は今、自分に向けられている無数の期待にあふれた瞳たちが──こわかった。
急に全部嫌になって、私は壇上から飛び降り、出入り口に向かって走った。
監督さんの声が飛んでくる。
「あっ、待ってください!」
有史以来、その言葉をかけられて実際に待った者などいないだろう。私とて例外ではない。
できるだけうつむいて全力疾走する私の耳に、男子生徒たちの会話がかすめた。
「でもルルアニの監督って確か──」
グラウンドの隅にある水飲み場で普段は摂取しない量の水分を補給してひといきつく。
スマートフォンで時刻を確認すると、世界はそろそろお昼になろうとしていた。
さて、どうしよう。
のこのこと体育館に戻るつもりはない。かといって、教室へ行くわけにも家に帰るわけにもいかない。
見通しが立たない現状にため息がもれる。
「──やっと、見つけましたよ」
背後からの声にドキリとして振り向くと、例の中学校の制服を着た女の子がいた。
はじめて見る顔だけど、間違いなくルルアニのメンバーだろう。
首から
「私はルルアニの関係者ではありません」
「そうなんですか?」
「はい」と元気よくうなずく。
「そうなんですか」
嘘をついている気配はなく、見るからに朗らかな感じの少女なので、とりあえず警戒レベルを下げた。
「ところでお願いがるのですが」少女はいう。
「なんです?」
「私にあなたをアニメ化させてくれませんか?」
警戒レベルを最大まで引き上げる。
「ああ、待ってください。無言で離れないでください」
淡々と足を動かす私を背後から抱きしめてきた。彼女が首からさげている砂時計が私の背中にあたってちょっと痛い。
立ち止まって相手と向きあう。
「どうしてみんな私をアニメにしたがるんです?」
「それはあなたにそれだけの価値があるからです」
「ないですよ」
「それからルルアニを信じてはいけません」
「え?」意外な警告に言葉がつまる。
「ルルアニを信じてはいけません。私を信じてください。あなたを完璧にアニメ化できるのは私だけです」
私はアニメについては何もわからない。小学校を卒業してからはジブリもディズニーも見ていない。だけど、ルルアニの人たちのあの情熱と才能は疑いようのない本物だと確信できた。
「そもそもあなたは誰なんです?」
「私は、私のことは──」やや間をあけて少女は「──カントクと呼んでください」といった。
取ってつけたような名乗りだった。実際、取ってつけたような気がする。
「カントクさんは──」
私が喋り出すと、それを誰かの怒声がかき消した。
「オラァ! あいつどこに行きやがった! リスペクトすっぞ!」
新手のなまはげみたいに私を探すキャラデザさんの姿が遠くに確認できる。
どうしよう。見つかれば間違いなく、リスペクトされてしまう。
「とりあえず今は逃げましょう」
そういうとカントクさんは私の腕をつかみ、校外に飛び出した。
そして高級レストランの前にいる。
ここまでの流れを簡単に説明すると、学校を出た私たちは当然行くあてもなく街をさまよっていた。時間は既に午後一時であり、何も食べていない私はお腹がすいてしまっていた。
ではご飯にしましょう。せっかくだからおいしいものを食べましょう。というカントクさんの言葉に賛同して彼女の後をついていくと、ここにたどり着いたのだ。
ファミレスかファーストフードか知る人ぞ知るお肉屋さんのコロッケを予想していた私にとって、これは想定していない流れだった。
「さあ入りましょう」
友達の家にきたみたいにフランクに高級感みなぎる木製の扉を開けようとするカントクさんの腕を強く掴んで制止する。
「ちょっと待ってくださいよ。なんですかこのお店。めちゃくちゃ高そうですよ。お水一杯で二千円くらいとられますよ。払えませんよ。それ以前に入れませんよ」
私は扉の横のプレートに視線を向ける。ドレスコードがどうのこうのと英語で注意書きがされていた。要するに、みすぼらしい身なりの者は入る資格すらないのだ。
こういう店に入れてもらうにはどういう格好でいればいいのだろう。甲冑とかウエディングドレスとかだろうか。
「学生なんだから制服着てればいいじゃないですか。それに私がごちそうするので心配しないでください。大丈夫です。何もこわくありません」
私に腕を掴まれたまま、ぐいぐいと店内に引き込んでいく。
中学生なのにすごい力だ。もしくは私が貧弱なのだ。
入店するなり、昨日まではプロレスラーだったんですかといわんばかりの立派な体格をしたウェイターさんが私たちに急接近してきた。子供がふざけて入ってきたと思われたのだろう。
「これはこれは、ようこそおいでくださいました」
見た目にそぐわない柔和な声と身振りで迎えてくれた。
さすがに怒鳴られたり暴力は振るわれないだろうけど、何かしらのお叱りは覚悟していたので、呆気にとられてしまう。
席に案内され、好きなものを注文してくれていいですよとカントクさんがメニューを開いて見せてくれたものの、フランス語の筆記体で書いてあるそれには私の頭を混乱させる以外の効果はなく、おまかせします、といって逃げた。
「じゃあ、おいしいの持ってきてください」
カントクさんがそういってしばらくすると、規則正しいタイミングで料理が運ばれてきた。
「このしょっぱい干しぶどうみたいなやつ、最初は苦手だったんですけど、だんだん慣れるとハマるんですよね」
いいながら、カントクさんはクラッカーに乗せたキャビアを口に運ぶ。
「この鶏肉の料理おいしいんですよ。おすすめですよ」
鴨肉とフォアグラのソテーは確かに絶品だった。
「学校から抜け出して食べる甘いものって悪いことしてるみたいで最高ですよね」
背徳感の力などかりなくともデザートに提供されたチョコレートケーキは最高だった。最高すぎるあまりスマートフォンを取り出してこのお店の情報を検索してみると、世界的に有名なフレンチレストランだと判明する。
いわれてみれば平日の昼間だというのに、店内は人であふれていて、外国人が多い。
なお今しがた私たちが口にしたのは要予約のランチコースであり、お値段なんと一万八千円だそうだ。もちろん税別。
一万八千円といえば、六千円のものなら三つ、三千円のものなら六つ、駄菓子なら無限に買えてしまう、あの一万八千円である。
「お腹は満たされましたか?」
というカントクさんの言葉に、はい、とうなずいた。
貯金通帳は間違いなく、からっぽになるだろうけど。
「お腹がへってはアニメは作れませんからね」そういって、カントクさんは胸を張る。
「そういえば、カントクさんにもルルアニみたいなメンバーがいるんですよね?」
「え? そんな人いませんよ?」
何気ない私の問いに、あっさりとした返事。
「え? いないんですか? キャラデザさんとか作曲家さんとか」
「はい。製作は全て私一人でやります」
「じゃあ、カントクさんは自分で絵も音楽もできるんですか。すごいですね」
「いやいやそれほどでも」照れているけれど、まんざらでもない表情でカントクさんはどこからともなくノートとペンを取り出して何か描きはじめた。「まだ構想段階ですけど、主人公のデザインはこんな感じでいこうと考えています」
ノートをこちらに向けてきた。
それはそれは見事な形容しがたい何かがそこに描かれていた。
「……ええっと、それは、なんです?」
「主人公です」
「……ええっと、自分でいうのもなんですけど、つまりそれは私、なんですよね?」
「はい」
「…………」
白い紙の上に無造作にばらまかれた黒い糸、風邪を引いた日の夜に見る夢、ロールシャッハテスト。そこに描かれていたものになんとか説明をつけようとするなら、そういうものになる。
ルルアニのキャラデザさんのような圧倒的な画力を身につけるには相応の鍛錬が要求されことは想像に難くない。しかし、カントクさんのこのセンスは手に入れようと努力して手に入る類いのものではない気がする。
「トレビヤン!」
カントクさんのイラストについて何かコメントしようとしても何もいい出せない私の代わりに誰かが声を上げてくれた。
四十代後半といった見た目の男性が軟体動物のように身体をくねらせながらカントクさんのイラストに見とれている。
「あっ、オーナーさん。こんにちはです」
どうやらこのお店のオーナーさんのようだ。
「こんにちは。ご来店ありがとうね。ところでこの素敵なイラストもらってもいいかしら?」
「そうですね……」
カントクさんはちらりとこっちに目を向ける。一応、私をモデルにした絵なので、もしかしたら肖像権的なものを確認しているのかもしれない。
「あっ、問題ないです」と迷わず告げる。
「では、どうぞ」
そういってノートから絵を切り取って、オーナーさんに渡す。
「ありがとう」紙を
「え? シャガールをですか?」
呼びとめられたウエイターさんはひどく驚いていた。それはそうだろう。同じ立場なら私も同じ態度をとる。シャガールが何かは知らないけど。
「さてと」カントクさんは席を立つ。「ではそろそろ出ましょうか」
ある意味、最も怖れていた瞬間がきてしまった。お会計の時間だ。
一万八千円などという大金は持ちあわせていない。一度お店を出てコンビニかどこかでお金をおろしてこなければ。
「ああ、お代はいいからまたいつでもお店にきてね」とオーナーさんは微笑む。
「それは嬉しいんですけど、いつも食い逃げしてるみたいで申し訳ないんで一度くらい払わせてもらえませんか?」困ったようにカントクさんはいう。
「だったらおこづかいあげちゃうからまたきてちょうだいよ」
いいながらオーナーさんは私たちにお札を渡そうとしてくる。
食い逃げならぬ食い儲けという新たな概念がここに誕生した。
さすがにそれはいただけませんと何度も何度も遠慮して、やっとお店を出た。
「おいしかったですね」
「……はい」
確かにおいしかった。今後の人生で今日のランチ以上の食事を味わうことはないのではと思えるくらい感激の一皿たちだった。
それ以上に疑問もできた。
このカントクと名乗る少女は何者なのか。
お店の人たちは明確な敬意を彼女に払っていた。
それに対して彼女は傲慢にも卑屈にもならず、自然な態度で接していた。
あの店とカントクさんの間に何があったのか。
判断材料が少なすぎるのにそんなことを考えても無駄だと諭すように、強い風が吹く。
私の足下に中身のない菓子パンの袋が転がってきた。
それを拾ってあたりを確認してみたものの、ゴミ箱は見つからなかったので、たたんで小さくしてスカートのポケットに
また風が吹く。今度は私の足下に私が転がってきた。
厳密には私の顔が描かれた紙が。
これは間違いなくキャラデザさんの描いたイラストであり、そのイラストの下部には『この顔を見かけたらこちらにご連絡ください』と誰かの携帯番号までついている。
よく見ると、地面にはかなりの数の私が散らばっていた。
集めて本にすれば一財産築けるのではと思ってしまうほどの美麗イラストだ。
一体これはどういうことか、その答えは視線を少し前に向けただけで判明した。
キャラデザさんが近くのビルの屋上に立ち、そこからばっさばっさと邪悪な花咲かじいさんみたいに私のイラストをばらまいている。
「──聞かせて聞かせて。この人を見なかった?」
「──教えて教えて。この少女の行方を私たちに」
シナリオライター姉妹が目と鼻の先の距離で聞き込みをしている。
まさかまだ追跡されていたとは。
「この子、そこにいる子じゃないの?」
シナリオライター姉妹のそばにいる誰かが、イラストを確認しながら私のほうを指さす。
「──みつけた」
「──はっけん」
スナイパーのような視線で私を捉える姉妹。
どうしよう。
「こっちです!」
声の方を向くと、カントクさんが狭い路地から手招きしている。
視線を前に戻すと、驚くほどすぐそばに姉妹がいる。
可愛い顔でも、それが二つ並んで自分に迫ってくるのは恐怖でしかない。
私は一目散にカントクさんの元に急ぐ。
カントクさんは私の手を掴むと速度を上げ、走った。
「──まってまって」
「──話しをきいて」
シナリオライター姉妹の声が遠くなっていく。
つまり逃亡に成功したということなのだろう。
そして物騒な建物の前にいる。
ここまでの流れを簡単に説明すると、いっそ警察にかくまってもらえばいいのでは、というカントクさんの案に対して私が、でも状況だけ考えれば私がみんなから逃げただけだし、もしかしたら警察に捜索願いを出されてるかもしれないし、そうなると警察についた途端、私は身柄を拘束されるのでは? と推測してみた。
だったら警察と真逆のところで保護してもらいましょう、とカントクさんは手を鳴らした。
真逆のところ? 私は首をかしげる。
『稲妻組』
で、ここがその真逆のところである。
厳つい書体が刻まれたごつい看板の下では任侠を重んじそうな男たちが門番をしていた。
首からさげた砂時計をゆらしながら、カントクさんはフレンドリーに彼らに近づいていく。
接近者に容赦ない威嚇の視線を向ける彼らだったが、相手がカントクさんだと把握した刹那、敵意を解除した。
「お嬢、お疲れ様です!」
分度器で測ったような綺麗な直角のお辞儀でカントクさんを迎える仁義ある男たち。
「どもども」
軽く手を上げてそれに応えるカントクさん。
くるりとこちらに振り返って「では入りましょう」といった。
応接室に案内され、ソファーをすすめられる。腰をおろすと底がないのかというくらい、それはふかふか沈んでいく。
「こちら、粗茶になります」
山奥でヒグマよりも遭遇したくない外見の男性がお茶を出してくれた。
お茶にも器にも教養のない私だけど、明らかに粗末ではない湯飲みに粗末ではない緑茶がそそがれている。
「これはこれは結構なお点前で──」
脳内にある数少ない礼儀作法の中から意味はわからないけどたぶん間違ってはいないであろうとおぼしき言葉を引っ張り出して口にする。
応接室の扉が開き、和服姿の男性が入ってきた。
年齢は七十から八十歳くらい。年配であることは確かなのに、ぴんと伸びた背筋、引き締まった顔つきからは、ある種の瑞々しさすら感じる。
部屋にいた数人の男たちは、儀礼的ではなく
「楽にしてくれ」と年配の男性は男たちにいう。
私とカントクさんは同じソファーに座っている。私たちの前には立派なテーブルがあって、その先に私たちと向かいあうようにソファーがある。年配の男性はそこに腰を下ろした。
「お嬢、
「おかげさまで。組長さんもお元気そうで」
「まあな。ところで今日はどうした? 俺らお嬢との約束でもう力仕事はやらないと決めちゃあいるが、お嬢のためなら
半径二メートル以内の領域で、べらぼうにおっかない会話が
「そういうのじゃないですよ。ちょっとここで時間を潰したいだけです」
その気になれば時間だって物理的に潰してしまえそうな男たちに囲まれた状況で、カントクさんは伝えた。
「最近は何やってるんだ?」と組長さんが訊く。
「今はアニメを作ろうと思っています」
「アニメ? アニメってあれだろ? 急に音楽が鳴って歌い出したりする──俺も孫にせがまれてたまに見せられてるけど、正直よくわからん」
「たぶんディズニー系の作品ですね。そういうのばかりでもないですよ」
「お嬢もああいう音を作れるのか?」
「いい質問ですね」よくぞ訊いてくれましたとカントクさんは身を乗り出す。「実はですね、作品のメインテーマを考えていたんですよ。聞いてみますか?」
そういうカントクさんの右手には今までどこに隠していたのか、リコーダーが握られていた。
「じゃあせっかくだから聞かせてもらおうか」
組長さんは腕を組んで鑑賞体勢に入る。周囲の男性陣もそこはかとなくカントクさんに意識を向けている。
「では、いきますよ」
リコーダーを構え、吹き口に口をつけて音を奏でる。
水はのどの渇きを潤すこともできるし、溺れさせて殺すこともできる。
刃はそれで野菜を切ることもできるし、
音は心を安らかにすることはできても、暴力には変換できないだろう。
と思っていた。ほんの数秒前まで。
考えを改めなければならない。
殺人的な音色が、耳を、鼓膜を、三半規管を侵食してくる。
なんだこれは。
ただのリコーダーを鳴らしているだけで、なぜここまで心を狂わせることができるのだ。
少しでも気を抜こうものなら、魂を吸い取られてしまうような旋律が鳴り響く。
もはやこれは生命に対する攻撃であり冒涜であり悪意である。
周囲の大人たちの逆鱗にふれて彼らは怒り狂うのではないかと不安になって確かめてみると、そこに信じがたい光景が広がっていた。
「なんだこれ……なんだよ、これ……」
泣いていた。
それも苦しみや悲しみからではない。明らかに感動の涙だというのがわかる。
体中を槍で突かれながら親知らずを抜かれても涙一つこぼしそうにない屈強な男たちが石油を掘り当てたみたいにじゃぶじゃぶ泣いている。
ふれたのは、逆鱗ではなく琴線だったようだ。
「……くっ、涙なんぞ、昭和に置いてきたと思ってたんだがなあ……」
目頭をおさえて、組長さんは感情をこらえていた。
よくわからないけど、男たちの仁義な部分に突き刺さっている様子だ。
今にも吐きそうな私だけが間違ってるみたいで、疎外感を覚えてしまう。
それからの数分間、なんとかお昼に食べた高級フレンチを外部にもらすことなく、カントクさんの演奏を耐え抜いた。
リコーダーを口から離し、どうですか? とカントクさんが訊いてくる。
「えっと……すごかったです」
すごいという単語はすごく便利である。
「そうですか。実はもう一曲あるのですが──」
「いえいえいえいえい、もうじゅうぶん堪能しましたから!」
反応を待たずに二曲目に入ろうとするカントクさんを命懸けで止める。
あと一曲、いやあと数秒でもきいてしまえば、耳にコンクリートを流して自主的に海に飛び込む自信がある。
「それより、そろそろお
「ここにきてまだ三十分も経ってませんよ?」
「だけど、みなさん、あんな感じになってますし」
私は部屋でむせびなく男たちに視線を向ける。既に一日に必要な水分の三倍は放出してしまっているのではないだろうか。
「……そうですか。では、しかたありませんね」
カントクさんの説得に成功した。
聞こえてはいないだろうけど、お茶のお礼はしっかり伝えて私たちはその場をあとにした。
稲妻組を出てしばらく歩いていると、自分にだけ見える妖精を目で追うよう、きょろきょろとあたりを見回す人がいた。
すぐに、ぴんときた。
この近所にとても有名なドーナツ屋さんがあるのだけれど地元民でもわかりにくい場所にあるせいで、迷宮ドーナツというあだ名までついている。
その人に近づいて訊ねてみると、やはりドーナツを探していたようで、正しい道筋を伝えた。
そんなに嬉しかったのか、こっちが恐縮するほど感謝されてしまい、照れながらカントクさんのところに戻ると、彼女は不思議な笑顔で迎えてくれた。
「やっぱり、迷ってる人を導くのが得意なんですね」
「──はい?」
首をかしげてみせる。そうすれば言葉の意味を教えてくれると思ったのに、そんなことはなかった。
それどころではないことが起こった。
ひゃぅ、はぁゃ、きゃっ、やぁっ、いぎゃ。
突然、大ボリュームで流れてくる、私の奇声。
「──な!」
なんてことをしてくれているんですか。
「みなさん、こんな声の人をご存じありませんか?」
離れた場所からでもその声はよく通っていた。さすが声優さん。
ひゃぅ、はぁゃ、きゃっ、やぁっ、いぎゃ。
そのあとに私のこれを流すのは嫌がらせではなく、もはや拷問の類いだろう。
私が地道にためた千円の価値があるポイントカードをプレゼントしてもいいから、誰かあの声をとめてはもらえないだろうか。
「あの、すみません」
背後から話しかけられて振り返ると、大学生くらいの女の人がいた。
直感で、ドーナツ屋さんの場所を訊ねられているのだと思った。
「あっ、あのお店でしたら──」
私はまだそこまでしか喋っていないのに彼女は「同じ声だ!」と気づき「ここにいるよ!」と叫んだ。
しまった。声優さんのファンの方でしたか。
大好きな人の役に立てて満足という表情を彼女はたたえている。
ところで、急に地響きのようなものを感じるのはなぜだろう。その理由はとても単純なことで、自分も声優さんの役に立ち、あわよくばほめてもらおうとでも考えているのか、ちょっとした村なら滅ぼせそうな数の人々が私をめがけて突進してきているからだ。
その光景に、私は怯んでしまう。
次の瞬間、私は襟首を掴まれ、強い力で引っぱられた。
背中から車の後部座席に乗せられる。ドアが閉められる。
「出してください!」
本気で誘拐されたのかと思ったので、その声がカントクさんだとわかり、彼女が機転を利かせて窮地から救ってくれたのだと察して安心した。
そしてテーマパークの前にいる。
ここまでの流れを簡単に説明すると、タクシーの中でぐったりしていた私は「なんか今日、ロクなことないな」と、さすがにこれくらいは許してほしい弱音をもらした。
では楽しい場所にでもいきませんか、とカントクさんはいう。
いいですね、ペンシルワールドにでもいきますか、と私は冗談を返した。
わかりました。では運転手さん、ペンシルワールドまでお願いします、とカントクさんはそれを真に受ける。
まだ開いてませんよ? と私はいう。確かオープンは半年後のはず。
とはいえオープンしたところで向こう一年先までの入場券は売り切れているというし、外観だけ眺めておくのも
じゃあ開けてもらえばいいじゃないですか、とカントクさんはいって、スマートフォンを取り出し誰かに連絡をする。
はい?
私の疑問と同時に上空に爆音が走る。
凄まじい速度で戦闘機らしきものが瞬く間に空を駆けていく。
戦争でもはじまったのだろうか。
何もかもあやふやなまま、私たちは東京ペンシルワールドの入り口に降り立つ。
ロバート・ペンシルという男性がいる。
実家の鉛筆工場で真面目に働く彼は誇りを持ってペンを売っていた。しかし時代はもうそれを求めていなかった。どうにかして商売を軌道にのせたくて、ペンシルはその鉛筆で絵を描いてみた。全て何らかのペンをモチーフにしたキャラクターたち。たまたまそれを目にした映画業界の重鎮が子供たちにうけそうだと
そのミスターペンシルが目の前にいる。
「マイ、プリンセス!」
両手を掲げ、巨大な『Y』の字のようなポーズで出迎えてくれている。
カントクさんとミスターペンシルはハグをした。
「ご無理をいってすみません」
どことなくリンカーン大統領を彷彿させる容姿であるミスターペンシルは、顔の前で人さし指をメトロノームのように揺らせてみせる。
「姫の願いを訊くことこそ騎士としての
この二人、一体どういう関係なんだろう。
ミスターペンシルに
HBエンピツくん、蛍光ペンちゃん、万年筆夫人、ボールペンボーイ、ロケットえんぴつブラザーズ。
映画は見たことなくてもキャラクターは知っている程度のにわかな私でも、完成度の高い着ぐるみを前にすると、グッズへの購買意欲がわいてくる。
急な話だったので稼働可能な乗り物は少なく、それでも、もしここにくることができたなら絶対に乗りたいと思っていた巨大観覧車は動かすことができるとのことで、私とカントクさんは太ったクレヨンのようなかたちをしたゴンドラの中へと入った。
「今日は本当にありがとうございます」
ゴンドラに優しく揺られながら私の前に座っているカントクさんに感謝を伝える。
「いえいえ、とんでもない。私が連れ回しるだけですし」
「あの、訊きたいんですけど、カントクさんって何者なんですか?」
「どういうことですか?」
不思議そうにカントクさんは小首をかしげる。
「だって有名なレストランやすごそうな人たちと知り合いみたいだし、ここにだって普通は入れてもらえませんよ」
どこか照れたような様子でカントクさんはうつむいて、小さく首を横に振った。
「そんなことはありません。すごいでいうなら、あなたのほうがよっぽどすごいです」
私はカントクさんの何倍も激しく首を振る。
「私こそ全然すごくなんかないですよ。本当にただの普通の……普通ですし……」
一つくらい何か誇れるものがあるかなと記憶を
「一つだけ、質問をさせてもらってもいいですか?」
おもむろに、そんな言葉を投げかけられた。
「はい。どうぞ」
断る理由もないので、うなずく。
「私とルルアニ、どちらにアニメ化してほしいですか?」
「────え?」
ゴールの直前でふりだしに戻された、そんな気分だ。
まさかまだその話をぶり返されるとは思ってもみなかった。
そもそも私は自分のアニメ化という現実味のない提案をまだ受け入れられていないのに。
ここだけ時間の流れが違うみたいに観覧車はゆっくりとまわる。
「答えは
カントクさんは首からさげた砂時計を指でなでながらいった。
「その砂時計ってどれくらいの時間を
この質問に意味はない。アニメ化への云々をはぐらかしたくて口にしただけだ。
「三分五十一秒です」カントクさんは小さく笑う。「中途半端ですよね」
「三分五十一秒──」
それはまるで鍵のような言葉だった。
──じゃあひっくり返して、あと三分五十一秒だけ──
あのときの言葉の意味が、ようやくわかった。
「……なんとなく、わかってはいましたけど」私はうつむいて目を閉じる。「……やっぱり、みなさん、あの子の知り合いなんですよね……」
ここはゴンドラの中。どこにも逃げ道はない。それにどれだけ考えないよう心にフタをしても、むしろそれはあふれてくるばかり。
だから聞いて聞いて──悲しい悲しい物語を。
──一年前。
頭から血を流した少女がうつぶせに倒れていた。
それを目撃した私は実に模範的な悲鳴をあげた。
うるさくておちおち死ぬこともできないと思ったのか、むくりと少女は起き上がる。
それを目撃した私は再び悲鳴をあげた。
「どうしたんですか?」
流血少女にむしろ心配されてしまう。
「いや、その、大丈夫?」
私の言葉で何か察したのか、少女は「心配しないでください、これはこれですから」といって右手に持っていたトマトジュースの缶を持ち上げてみせた。
「ジュースで倒れたの? アレルギーか何か?」
「いえ違います。おいしくて」
「うん?」
「あまりにおいしくて、びっくりして倒れてました」
彼女が手にしているのは最も有名なメーカーの一般的な缶ジュースであり、確かにおいしいけれど気を失うほどのものでもないような。
「私、トマトが苦手でして、だけど健康にいいみたいだからなんとかして摂取できないかといろいろ調べていたら、どうやらトマトジュースというのはトマトが苦手な人のために開発されたというではありませんか。これは
「それで倒れちゃったの?」
「いえ、倒れたのはスランプつづきで寝不足のせいだと思います」
「はい?」
なんだか会話が迷走している。やっぱり病院につれていったほうがいいのだろうか。
「とにかく心配させてしまい、申し訳ありませんでした」
ぺこっと頭を下げ、くるっと振り返って、てくてく帰ろうとする。
「ちょっと待って」
少女の手首を掴む。
トマトジュースとはいえ、
だからシャワーを浴びてもらうことにした。
「ありがとうございます。すっきりしました」所持していた体操服に着替えて少女はそういった。「お姉さんはここの人なんですか?」
ここの人というのは、老朽化が進みすぎたせいで間もなく取り壊しが決まっている公共施設のスタッフなのかと訊ねられているのだろうか。
「厳密には違うけど、昔から通ってるせいで鍵も預けられてるし、ある程度の権限ももらってるから、ここの人かと訊かれたら、そうですって答えるかな」
少女は笑った。
「じゃあここの人じゃないですか」
「はい。ここの人です」
そういって、お互い笑いあう。
「あなたはどうしてここに?」
「ここの一般開放されている書庫に歴史あるアニメーション作家のエッセイなどがありまして、それがとても参考になるので、ときどき読みにきています」
「アニメが好きなんだ」
「お姉さんは、どんなアニメが好きですか?」
「私はアニメは見ないかな」
「え?」
まるで犬や猫を見たことがないとでもいわれたみたいに、大袈裟に少女は驚嘆している。
「アニメ嫌いなんですか?」
頭突きでもされるのかと思った。それくらい、ぐいっと顔を寄せてくる。
「いや、嫌いってわけではなくて、なんていうか──」
見なくなったことに明確な理由はない。小さいときはそれなりに好きだった作品がいくつかある。
飽きたわけでも、関心がなくなったわけでもなく、たぶん、卒業したんだと思う。
「それはもったいない、実にもったいないですよ」
食べものを粗末にしているみたいないわれようだ。
それから腕を組み、ふむふむと何度かうなずいて、ぱっと顔をあげて少女はこう宣言した。
「決めました。私、お姉さんのトマトジュースになります!」
「はい?」
この女の子にはリコピンが多く含まれているのだろうか。
よくわからないまま勢いで連絡先を交換され、それから毎日、彼女との交流がはじまった。
朝昼晩の挨拶、地震などが起きると速報よりも早く心配のメッセージが飛んでくる。
道を歩いてふと視線を感じると、守護霊のように私を見つめる彼女がいた。
休日はいつも施設で私のことを根掘り葉掘り聞いてくる。
彼女は施設で何か作業をしている様子で、それはとても体力を使うものらしく、よく机に突っ伏して眠っていた。
風邪を引くよ、と肩をゆすると、彼女は眠たそうに「あと三分五十一秒だけ」とつぶやいた。
なんだろう、その中途半端な時間は。とりあえずいわれた時間を守って再び肩をノックしてみると彼女は「じゃあひっくり返して、あと三分五十一秒だけ」というのだった。
ひっくり返す? 何を?
結局その答えはわからないまま時間は過ぎ、彼女はある時期から鶴の恩返しみたいに絶対に作業中は
どうにも彼女の創作意欲は
そして聞こえているのかいないのかわからない返事をしたあとで、私のことをあれこれ詮索してくるのだった。
私のWikipediaでも作るつもりなのだろうか。
奇妙な出会いからはじまったものの、甘えん坊の妹ができたみたいで私は楽しかった。
その日がくるまでは。
『おはようございます。お姉さんのおかげで、はじめての気持ちを思い出すことができました。もう少しでお見せしたいものが完成します。お楽しみに!』
その日の朝は、いつもより少しだけ長いメッセージからはじまった。
この様子だと、いつぞやのスランプからは抜け出せたようで、私は微笑んだ。
それからいつものようになにごともなく一日は終わろうとしていた深夜に、大きな地震があった。まもなく私を心配する彼女からのメッセージが届くはずなので、心配いらないよと返信の準備をした。
しかし、何分経ってもメッセージはやってこない。
眠っているのかな? 作業に集中しているのかな?
いくつかの予想をしてみても、それに自分が納得しない。
はじめて自分からメッセージを送ってみる。
返事はない。既読もない。
お風呂にでも入っているのかな?
と思ったものの、以前、お風呂から飛び出てメッセージを送られてきたことを思い出す。
きっと何か理由があるはず。それもとびきりくだらない、例えば、スマホを充電中だったみたいな。
それは愚かな悪あがきだった。
虫歯だとわかっているのに、この歯の痛みはストレスか何かだと目をそらすような。
間違いなく、よくないことが起きている。
でも、それが何かわからない。
お願いだから、作業に夢中だとか、そんな理由であってほしい。
「────」
そこで最悪の予感がよぎる。
本当に、作業に夢中なのではないだろうか。
老朽化が進み、取り壊しが決定している施設に忍び込んで、夜中に一人で──。
薄着のまま飛び出して、自転車にまたがり必死でペダルを踏んで施設まで走る。
──到着。
明かりはついていないし、外観に変化はない。
だけど──入り口の扉が開いている。つまり誰かが中にいる可能性があるということ。
一階に人の気配はない。二階も。そして三階。私はあの子の名を叫ぶ。
返事はない。
考えすぎであることを心から望んだ。けれど部屋を一つ一つ調べずにはいられない。
調理室、会議室、和室、トイレ、誰もいない、誰もいない、誰もいない、誰もいない。
最後の部屋、資材質。大丈夫。ここも無人に決まっている。
ドアをそっと開ける。
「……あっ……おねえさん……」
親の帰りを待っていた子供のように、少女はつぶやいた。
仰向けに倒れ、あらゆる資材に押しつぶされた状態で。
混乱と絶望に頭が支配される。
私はすぐさまスマートフォンで救急車を呼んで、消防署と警察にも電話をした。
とにかく助けが必要だった。
だから電話をして助けを叫んだ。
それから必死に少女に覆いかぶさった資材をどけようとした。
だけど重くて自分ではどうしようもなくて、刺さっているものに関しては動かしてはいけないのではという気がして、そこを見るたびに気が動転しそうになった。
考えるな、考えるなと、何度も自分の頭に命令するも、その思考は拭えない。
私に医学の知識はないし、人間のくせに人体についてもそれほど詳しくはない。
だけど、人の体は、
どうしたの、トマトジュース、お腹にこぼしてるよ、そんなジョークの一つでもいってみるべきなのだろうか。
ちっとも笑えない。それどころか涙がこみ上げてくるのに。
「……もういいよ、おねえさん……」
少女はゆっくりと手を伸ばしてきた。
「……て……にぎってて……」
差し出された小さな右手を両手でしっかりと包み込む。
「なにか……おはなし……きかせて」
「わかった。あのね──」
私はとにかく話した。
小さいころ一人で山に入ったら穴に落ちて、もう一生ここから出られないだと思って泣きわめいて──そこから大した展開も意外性のあるオチもない、例えば人生の終わり間際にこんな話を聞かされたら死んでも死にきれないと怒りで生きる力が湧いてくるようなひどい話だ。
彼女がそうならなかったのは、話が終わる前に命が終わりを迎えたからで、それからすぐに救急隊員と消防隊員と警察官がやってきて、私が一番死体みたいに動けないでいた。
例えば、大きなケガをした小さな犬がいたとする。端から見ればその仔犬が助からないのは明白だった。
その仔犬にどこかの野良犬が近づき、仔犬の死を看取るように寄りそったとする。
おそらくそれは美しいものとして人々を感動させるだろう。
映像にしてこの感動を共有しようとする者もでてくるだろう。
老朽化が進み取り壊しの決まっていた施設だというのに、なぜかネットにつながった監視カメラは設置されており、どこかの誰かがこの『美談』を全世界にバラまいてくれた。
そのての業界に知識のない私でも聞き覚えのある会社から人によっては夢のようだと形容できるような提案をいくつももらい、私はその全て拒絶して、面倒なので今後そういう話は一切受けつけないと弁護士を雇って警告してもらった。
それでやっと、静かになった。
静寂だけが残った。
いつもにぎやかでいてくれた、あの子はもういないのだから。
まもなくゴンドラは終着点に辿り着く。
「彼女が私をどう思っていたのかはわかりませんが、私は彼女を親友だったと思ってます。それは今も変わりません」とカントクさんはいう。
「だからあの日のできごとをアニメ化させろと?」
カントクさんは否定する方向に首を振る。
「そうではありません。あなたは根本的な部分で思い違いをされています」
「どういうことですか?」
カントクさんはいう。「あとは彼女たちに聞いてください」
「──?」
答えをはぐらかされたまま、私たちはゴンドラをおりた。
そこにペンシルワールドのキャラクターが待ち構えていた。
キャラクターたちは考え得るかぎり最大の禁じ手であろう、着ぐるみを脱ぐという行動に出た。そして中からルルアニのメンバーが現れる。
「……みなさん」
「いいたいことはいくつもあると思いますが、まずは私たちの話を聞いてください」とルルアニの監督さんはいう。「亡くなった彼女は、ルルアニの元監督でした」
「……そうだったんですか」
「あのころ私たちはとても大きなプロジェクトを任されていて、私たち全員それに全力で取り組まなければいけなかったのに、肝心の彼女だけなぜかいつも上の空で、どうしたのって訊くと、もうアニメを作りたくないなんていうから驚いちゃいました」
監督さんは乾いた笑いをもらす。
そのいえば出会った当初、彼女は倒れるほどのスランプに悩んでいたことを思い出す。
「なにをやっても楽しくない、はじめての気持ちを忘れてしまったとか、抽象的なことばかりいって仕事は中断したままで私たちを困らせるんですよ」
どこか自嘲的な表情で私と向きあう。
「世間のみなさんからは天才集団なんて呼ばれていますけど、そんなことはありません。私たち全員、自分の大好きなことから嫌われないために必死でしがみついているだけです。だけど、彼女だけは違いました。あの人は自分の好きなものから愛されていました。不公平ですよね。そんな彼女がやる気をなくしたら、どうしようもないじゃないですか」
この話がどこに向かってどこに着地しようとしているのか、まだわからない。
「だけどそんなある日、目を輝かせて彼女が戻ってきたんです。プロジェクト再開の前にどうしてもつくりたいものができた。これを完成させられたら、自分はもっと喜ばれるものを生み出せるようになるって」
スクールガールアニメーションの監督さんは、私に告げた。
「それが、あなたのアニメです」
「私の? え? でもそれだと時間が──」
「あなたは施設で起きたあの事故を映像化されると思っていらっしゃるのでしょうけれど、そうではありません。彼女がアニメに込めたかったのは、あなたと出会ったばかりのころのあなたなんです。立ち読みで入っただけのコンビニでも何か買う。落ちているゴミを拾う。道に迷っている人を当然のように助ける。そういうありのままの普段のあなたです」
「どうしてです?」
一層、意味がわからなくなった。
そんなものをアニメにしたって、何の価値もない。誰も見たくはないのでは。
「アニメに興味のないあなたをアニメで振り向かせたかった、アニメ監督としての矜持だったのでしょう。それから──」
「それから?」
「出会ったばかりのころ、彼女はいっていました。自分の大好きなもので大好きな人に大好きを伝えてそれを大好きになってほしい、そして大好きを広めたい──だから私はアニメをつくるんだって」
「…………」
「正直にいいますね」監督さんはいった。「私、あなたが許せないんです」
「──え?」
「勘違いしないでください。あなたのせいで彼女を失ったとか、そういうことをいいたいんじゃないです。あなたとの出会いが彼女に大切なことを思い出させたことが許せないんです」
ずっと耐えてきたものを決壊させるように監督さんの瞳から涙が。
「くやしくてしかたなかったんですよ。どうしてそれができたのが、ずっと一緒にいた私たちじゃなくて、ほんの少しの間いただけのあなたなんですか。だけどそんなことどうでもいいくらい嬉しくてしかたないんですよ。あなたのおかげで彼女は最期の瞬間まで作家として満たされていたんだから」
「…………」
いうべき言葉が何も出てこない。
「彼女が制作した作品はあなたに見てもらいたい、あなたのためだけの作品です。だけど私たちはそれだけじゃいやなんです。世界中に見せびらかしたいんです。ここに、こんなにもすごい表現があるんだって。彼女が最期に残した、最高の作品が!」
どうやら私はおどろくほど、何もわかっていなかったようだ。
彼女が施設で何をつくっていたのか。
ルルアニのみんなが、どんな思いで私を追っていたのか。
「これは完全に私たちのわがままです。だけどお願いします。アニメの製作と発表の許可を私たちにください!」
監督さんが頭を下げると、他のメンバーとカントクさんもそれにつづいた。
私は大きな勘違いをしていた。
いくら天才とはいえ彼女たちはまだ子供だ。
理性が感情を抑えられるはずなんてない。
威張れるほど年が離れているわけでもないけど、それでも年上としての役割というものがあるのだとしたら、それを示すのは今しかないと思う。
私はいう。「頭を上げてください」
その声でみんな、顔を上げた。
浮かんでくるのは幾多の謝罪と感謝の言葉ばかり。でも今はそれら全てを脇に置いて、伝えるべきは、たった一言。
「よろしくお願いします」
そして深く頭を下げる。
少女たちの歓声が伝播していく。
監督さんは私に手を差し出して、今朝、体育館で宣言した言葉をもう一度口にした。
「最高の作品をつくらせていただきます」
私はその手を握り返して、あのときいうべきだったことを口にした。
「期待してます。心から」
「一件落着ですね」
うなずいてどこかへ歩いていくカントクさんに訊きたい疑問があることに気づいて慌てて引きとめる。
「そういえばカントクさんはどうして、自分に私をアニメ化させてほしいなんていってきたんですか?」
「ああ、それはですね……」恥ずかしそうにカントクさんは頬をぽりぽりとかく。「私、アニメを見るのは大好きですけど、つくる才能なんて全くありません。そんな私に強引にアニメ化させろなんていわれたら、消去法でルルアニを選んでくれるかなって──」と苦笑する。
その苦笑が私にも感染する。
「そんな理由だったんですか」
なんというまわりくどさ。
「では私はお仕事があるので、これで失礼します。いつかまたお会いしましょう」
そういって大きく手を振りながら去っていく。
全身からあふれる無邪気さは、いつかの彼女を想起させた。
「でも、結局あの人って何者なんです?」
カントクさんについて、監督さんに訊いてみる。
ただ者でないことだけは確かだろう。
「それはですね──」あごに手を当てて思考をまとめる素振りをみせる。「例えばこの世界は混沌としているけれど、それでも絶妙なバランスで成り立っているじゃないですか。そのバランスを保っているのが彼女です」
「──はい?」
唐突なアニメめいた監督さんの発言に、私はどう反応するべきか困る。
「ご安心ください。近い将来、詳しくお伝えできる日がくると思います。それより今は、あなたのことに集中しましょう」
最後の最後で大きなおあずけをくらった気がした。
──一年後。
おかげさまで私のアニメは大成功を収め、それから数日経過したある日。
いつもの通学路。学校まであと二分の地点にあるコンビニのガラス越しに発売されたばかりの雑誌がいくつか並んでいた。その中の表紙の一つに既視感と違和感を混ぜたような存在感を放つものを見つけ、思わず立ち止まる。
かつて、ある人はいった。
自分の大好きなもので大好きな人に大好きを伝えてそれを大好きになってほしい。
そして大好きを広めたい。
だからアニメにするんです。
コンビニに入って雑誌を手に取り、レジへ向かう。
雑誌の表紙にはアニメ調のイラストで描かれた少女。
その少女は首から砂時計をさげていた。特徴的なファッションだ。
それを見て、自然と私の口元はほころぶ。
ある日、アニメ化が決定した。
アニメ化決定! 完
アニメ化決定! キングスマン @ink
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