招かれざるセールスマン
朱々
シワ寄せ
1、デキちゃった
——————『シワ寄せ』
『誰も彼もアナタもワタシも
隠れて流すココロのナミダ
そっとお拭きいたします
みんなに幸せ行き渡るまで
この世の暗闇から手招きを』
今回のお客様:腰輪伸子(コシワ ノブコ)?歳
◆デキちゃった
それにはじめて気がついたのは、珍しく目覚ましよりも早く、そして気持ちよく起床した火曜日の朝だった。ワタシは約10分後に失意のどん底へと突き落とされることも知らず、快調なカラダでベッドから抜け出た。採光の悪いラブホテルの窓からは昇り始めた朝日がわずかしか入ってこなかったけれど、ワタシのイメージはその窓の向こう、ビルの合間をツバメのごとく飛翔して、健全な空へと舞い上がっていった。昨夜の相手はまだベッドの中にいる。ジャマな者は捨て去って、さっさと清々しい街へと出ていきたい気持ちに駆られる。
ふんふーん、と意味のないザ鼻歌と言ったようなハミングがもれた。用を足し、洗面所へ向かう。長い髪を梳かして、簡単な化粧を始めた。その最中、目尻にゴミが付いてると思い、指を動かす。が、それはとれなかった。服か何かの繊維かな? などと顔を鏡に寄せてみる。それはとれない。
まさかね……、いや、鏡が汚れている? 小さな傷が? 何かボールペンとかで間違って書いちゃったとか?
無理矢理に別の可能性を挙げていった。まさかである。たとえば大地震が起こるとか、帰路の途中に遠くに見える炎が自分ちだったとか、無いとは言い切れない、まさか。そのまさかがやがて来るとは分かっていた。いや本当はワタシには無縁なのだと心のどこかで思っていたのかもしれない。認めるしかないのだ。認めるしか……。
深く悲しい嘆息とともに頭を垂れる。手をついた大理石調の洗面台に水が跳ねている。整然を乱した水滴に怒りさえ覚えた。しかし、やっぱり、もしかしてと、鏡を見上げる。その往生際の悪さに自分でも嫌気がさした。
夢じゃない。
「ウソじゃん……」
どっと疲れた気分になった。先程使ったトイレの自動照明がふっと消えた。元気にさえずっていたココロのツバメはビルの摩天楼に墜落し、誰かの吐瀉物の中に身を沈めた。
死にたい、こんな、死んでしまいたい。
デキてしまった。
右目尻に、小さなシワが!
化粧をおざなりに済まし、ベッドの方へと戻る。脱ぎ散らかした服を拾っていき、身につけていく。ゆっくり、慎重な動作でベッドに腰掛けた。掛け布団がめくれ、白いシーツが見えている。男の下着をよそへ放って、白いシーツを撫でる。丁寧に撫でて、シワを伸ばしていく。
すっ、すっ、すっ————。
どれほどそうしていたか分からなかった。いちいち時計を見るような性分じゃない。もぞっ……と男が動いたことによりワタシは自分の意識を取り戻した。
「あれ……起きてたの」
酒でかわいたガラガラの声。男の寝返りがシーツに再びシワを作った。途端にマグマの如く怒りが噴き上がった。
「何すんのよ!」
コイツのせいで新しいシワができた。
「なっ、えっ? なに? オレなにかしちゃった……?」
「は?」
逃げるように半身を起こして後ずさる男。
「デキちゃったのよ!」
「えーーっマジで!?」
「責任とれ!」
どてーん、とベッドの向こうへ掛け布団ごと落ちる男。一切合切コイツのせいにしてしまいたかったけれど、シワと無関係なのは明らかだった。関係あるはずがないし、責任なんてとれるはずもない。ああ…………!
めちゃくちゃに乱れたシーツに目がいく。ベッドを乗り越え、男の布団を奪いとり、それをシワくちゃのシーツにおおいかぶせた。
世の中には重力というものがある。この星にある全てのものが受ける力だ。若くハリのあるみずみずしい肌にもその力は加えられている。だからいつか肌はたるむ。たるみは「老い」という呪いの一種で、時と共に命を下へ下へと引っ張っていく。足取りを重くする。言葉を遅くする。心をひずませる。恐ろしい呪いだ。
ワタシはそんな呪いとはかけ離れたところにいたはずだった。重力さえ振り切っていつも軽やかに過ごしていた。はずだった。それなのに今朝は足枷をつけられたように体が重く感じる。逃げたくても朝日のサーチライトがワタシを照らして逃がさない。「不老の女がここにいるぞ!」と。
チッ、だれかが裏切ったんだ。
もともと無茶な生活だったのだろう。ほとんど寝ずに毎日を過ごしていた。それが裏の組織から命じられたワタシだけの特別任務、または一族の血統が課す大義だと言うように、昼間とは違う自分を当然のように扱っていた。女怪盗のように夜の街を跳び回っていた。
平日でも仕事終わりに夜の街へと繰り出し、お酒を飲み、ターゲットを探す。見つけ次第お互いのさして面白くもない身の上話をくり広げる。遊園地の園内マップのようなものだ。簡素で単純なもの。どうでもいいもの。ここでなにがあってどこで過ごして…………無くてもいい案内ばかり。無いなら無いで、ただしたいことだけをする。ワタシは騒がしく、アツく、酔って、ふやけていく夜を謳歌していた。そうして朝になると巣から飛び立つツバメよろしく飛翔する。昼間のオフィスレディとはかけ離れた、使い捨ての夜毎の人格を捨てて。
美しいって罪————。
しかし証拠は残っていた。これまでの犯行履歴があの小ジワ一本に詰まっていた。しくじったのだ。あんな小さな! たった一本のシワが! ワタシに老いを実感させた。足がついたのだ。「もう若くないんだぞ」と取調室で鬼刑事に卓上ライトをつきつけられている気分だ。ヤメテ! ワタシを照らさないでちょうだい!
一度帰宅し、職場に向かう。今まで難なくこなしていた、町と電車の乗り換えが酷く億劫に感じられた。人口密度の高い通勤電車の中で、マスクをしているのとは違う息苦しさを覚える。まるで仮釈放中。余計なことはしていけない。許されない。これ以上罪を重ねないよう……事件に巻き込まれないようにビクビクと過ごさなければ。
職場に着き、何も悟られないように自分のデスクへと真っ直ぐ向かった。マスクをすると顔の目元というのは否応なく強調される。昼間はもともと眼鏡をかけていたことが大きな救いだ。小ジワを隠すことに一役買っている。
今日は退勤したらフレームが太めの眼鏡を買いにいこう…………。
仕事は比較的楽な仕事だった。生協のとある営業所で共済の案内をする。よく保険レディは大変だとかイメージがあるみたいだけれど、ワタシのところは違う。「成果を挙げるまで営業所に戻ってくるな」だとか、理不尽を言われることもない。いつかの夜の相手が言っていた、「契約を取るためにカラダを売る」みたいな切羽詰まった状況に陥ることもない。もちろんある程度のノルマは課されはする。それでも定時には上がれる。職場で息が詰まってメンドーになれば、「訪問のアポイントがある」などと言って社用車で息抜きに出かけることも可能だ。周りのおばちゃん職員も良い人だし、退勤時間が近づくころに帰着してくる配達のドライバーたちもテキトーにあしらっていれば問題ない。贅沢できるお給金がもらえないにしても、ワタシはここのゆるい仕事に不満はなかった。それなのに、こんなにも居心地が悪くなるなんて。
声をかけられるたびにハッとしてしまう。シワについて言及されるのではないかとこわくてたまらない。いつも適度に力を抜いて仕事をしていたから疲れたことなどほとんどなかった。それなのに今日のワタシは退勤する頃にはどっと疲れてしまっていた。
眼鏡を買ってさっさと帰ろう…………そしてゆっくり静養しなきゃ。
家に帰り着き、部屋着に着替えると、姿見の前に座り込んでしまった。広くない部屋の中、鏡の中に切り取られた自分、意識がただ一点に集中していく。新しい眼鏡をかけたり外したり、ためつすがめつ、自分の顔を観察する。店員に話しかけられないよう距離をとりつつもデザインはしっかり厳選してきた。よほど近くで見られない限り小ジワは隠せそうだった。
だからと言って問題は解決しない。これぐらいなら化粧などで隠せる……などと安心はできない。完璧だったものが崩れた。処女でなくなった時のように、もう後に戻れない気持ちだ。完璧な美しさに小さなヒビが入った。堤が小さなヒビ割れから決壊するように、風船が針の穴から空気を逃してしまうように、ワタシの絶対的な美しさは失われた。
ため息ばかりがもれる。こんなに無生産的に自分の顔を眺めるのは学生の頃、小さなニキビがおでこにできた時以来だ。あれが最初で最後。まじまじとチェックしなくたってワタシは綺麗だったから。
世の中には注射でシワを取るだとか、クリームだとか、まぁ数多の悪あがきがあることは噂にはきいている。無縁だと思って邪険に扱っていたものたちがスッとワタシのそばに寄ってくる。「貴女もここいらでそろそろ」とニヤニヤしながら。
悔しくてたまらない。
冷蔵庫から缶チューハイを持ってきて口をつける。熱を持った意識が拡散していく。気がつくと部屋は夕闇に満ちていた。夜が始まっていく。
ふと、もったいないという気持ちが込み上げてきた。
宵闇の中でこんな小さなシワひとつ誰が見つけるだろうか。ほろ酔いでぼやけた視界でこんなディテールに気がつくものがいるだろうか。ワタシは99.9%美しい。たった0.1%に負けていられない。もったいない。夏祭りの日に着替えるのが面倒だからと部屋にこもっているのか? パッとよそゆきをまとって扉を開ければいいだけだ。
部屋に闇が満ちていくにつれてプラスな心持ちに変わっていった。
再犯。
一度「老い」に捕まったくらいでやめられない。地味に慎ましく生きるのは昼間だけでいい。第一、世のためにならない。この美しさを望んでいる者もたくさんいるのも紛れもない事実だ。仕方のないこと。その代わり今夜はちゃんと帰ろう。自分一人でゆっくり眠って、余裕を持って出社する。
次々湧き出る自己肯定と言い訳。調子が良すぎると百も承知だけどこうなってしまってはもう止められない。
うるさすぎず、静かすぎないバーをちょっと覗いて帰るつもりだった。けれど来店していくらも経たないうちに男が言い寄ってきた。
「お一人ですか?」
図らずも、物憂げで少しワケ有りのような、そんな雰囲気を醸し出していたらしい。たしかにまぁ、大いなる悩みの種は一つあるが。
「女が独りで飲んでちゃいけない?」
あえて興味なさそうに答える。
「まさか。でもそのおかげで声をかけられ、綺麗な声を聞くことができました」
少しだけ顔を傾ける。今度は何も答えない。聞いてはいるわと、身じろぎを一つだけ。
男はめげることなく、たじろぐこともせず、上手い距離感をとり続けていた。急ぐこともない。じっくりと会話を進めていった。時折ワタシの顔をじっと見つめてくる。大丈夫だ。左側にシワは無い。ワタシは間違っても右側からは近寄れないような席を選んでいた。
「どうしてワタシに声をかけたの?」
よっぽどおかしな返事でない限り、その後は胸襟をひらいたように接することにした。まさに胸元の襟、そういうことも匂わして。
「とても物憂げで、声をかけなきゃもう2度と会えないような、比喩でなく、フッと消えてしまいそうに思えてね」
「物憂げ…………ね」顔を男の方に向け、視線は真っ直ぐ送る「どうしてか、想像できる?」
「とてもとても」
男がおだけた風に両手を挙げた。ワタシは微笑む。
「お店かえましょ。アナタのおかげで気分が……かわってきたから」
ちょっと待っててね、と言い残しワタシは化粧室へ。
鏡で身なりを確認する。視線はやはり右目尻へと自然と吸い込まれる。髪をそちら側におろしている。誤魔化すための小細工は済んでいる。
時計を見やる。もう一軒どこか他所へ移った場合、終電は無くなる時間だった。鏡に視線を戻す。
今は誤魔化しているだけ…………いつか必ず「シワ寄せ」が来る————。
化粧室の扉があいて女が入ってきた。なかなか派手な服を着ている。だけど顔は垢抜けているというわけでもない。こういう女は昼間は何をしているのだろう。鏡越しに目が合い、決して大きくない鏡の前でワタシと並んだ。
たしかこの女は隅のテーブル席で中年の男と飲んでいたっけ。
男は褒められたもんじゃないカラダをブランドもんの服や時計なんかで武装していた。「おれ金ありますけど」と暗に出しているタイプの人間。どっかの専務とか、カタカナの長い肩書きを持ってて、なぜか女の生活や時間を支配したがるヤツ。
隣にいるこの女は何を欲しているんだろう。
女は華やかな世界に憧れる。暗闇で煌めくものを欲しがる時期がある。でもいくら綺麗だからって、そんなものは長続きしない。昼の光に晒されれば、高揚感も、男たちの虚仮威しも消えてしまう。愛なんて無いし、途端に下らなくなる。
ワタシはそれを知っているから、昼と夜ではっきりとスイッチを切り替える。夜を昼間に引きずっちゃいけない。
時間ももったいないので外へ出た。
席へ戻ろうとすると、ヌッと現れた人影に行手を阻まれた。
「お、お一人ですか?!」
ワタシは驚いてのけぞった。
「なによ」
「こんばんわ! 突然スミマセン」
そう言う男は安っぽいリクルートスーツに身を包んだ若者だった。店内にもかかわらず大きなビジネスリュックを背負い、どこで仕入れたのか漫画風の笑い口がデザインされたマスクをしている。その珍妙なマスクの向こうから、元気と若さだけが取り柄で社会に飛び込みました感がぷんぷん漂ってきていた。
「だからなによ。悪いけどワタシ、ツレがいるのよ」
「はい、存じております!」
「分かってるならナンパは諦めて、ぼうや」
「ぼっ、ぼうや……。いえ、あのですね? 実は声をおかけしたのは別の用件でして」
なんなんだコイツは。ナンパにしろなんにしろトイレから出てきたとこを待ち伏せしてたなんてロクなやつじゃない。男女別の化粧室がある、廊下とも呼べないどん詰まり。逃げ場がなく落ち着かない。
ワタシは突然現れた変人の肩越し、観葉植物の向こうに視線を投げた。ワタシを待っている男が見える。バーテンを呼んでいるようだ。どうやら会計を済ませているらしい。
よしよし、しめしめ。
「あの、帰らなくていいんですか?」
ワタシの視線を遮るようにソイツは首を傾げて言った。
「は? アンタが邪魔してるんでしょ?」
「いえいえ、そうではなく、ご自分のおウチに」
ぐっと尻尾を掴まれたようだった。
「どういうこと? アンタなんなの?」
「あ、申し遅れました。ボク、セールスマンです。こちら名刺です!」
「セールスマン……?」
こないだ社会人マナー教室で習いました、って感じの緊張した所作で名刺が差し出される。大黒招吉という名前の横にキャッチコピーだろうか、
「アナタに幸せ、お招きします……?」
「はい! 大黒招吉といいます!」
なんだそれ。胡散臭いし、つまらんキャッチコピーだな。
「どうでもいいわ。てか、声かけるタイミングくらい考えなさいよ」
「今しかないと思いましてね。誰にも言えず、お困りでしょう、腰輪さん」
「えっ、なんで名前をッ!」
「スミマセン! しかしですね、このご時世誰かの名前を調べるなんて簡単なことです」
調べただって? 思わず一歩距離をおく。
「あっいえいえ! 怪しまないでください! 実はボク、前にあなたに共済の説明をされたことがありまして。たまにスーパーの前や団地だとかに出向かれることがありますよね? その時に、なんて綺麗な人なんだろう……と記憶に刻まれてしまいまして、はい」
たしかにこの大黒とかって男の言う通り、同じ部署の人たちとそういった活動をすることがある。新規の顧客狙いだ。面倒なことこの上ない。
「ワタシは1ミリも覚えてないわ」
「そうですか…………。坂でミカンをぶちまけて皆さんに拾ってもらったんですが」
「…………」たしかにそんな奴がいた。周りのおばちゃんたちがてんやわんや、ちょっとしたミニゲームみたいになって実にハートウォーミングな展開を広げた張本人。思い出したもののワタシはシラを切った。「ミカンなんて知らないわよ」
「ですよね…………。それで、今夜はどうされるんです?」
「アンタには関係ないでしょ」
「たしかにそうかもしれませんね。では気が向いたらご連絡ください」
大黒がワタシと入れ替わるように道を空けた。
「ヤケにあっさりしてるのね」
引き止めたくはないけど、妙な感じがしたからついきいてしまった。
「ええ。大先輩が「引き際も肝心」と笑って教えてくれたものでして」
大黒は目を細めてマスク越しでも分かるぐらいニッコリと笑った。マスクの笑った口も相まって、かわいらしいなと思った。まぁ、おかしなやつだという評価を取り消すつもりはないのだが。
出し抜けに女性用化粧室の扉が中から開いて、大黒の体を打ちつけた。痛ぁ、と笑い口のまま痛がる大黒をおいて、ワタシは席に戻った。
「お待たせ」
ワタシはバーテンに目配せをして、財布を取り出すような仕草をとった。
「済んでるよ」
「えっ!」なんて驚いて見せる。「そんな、悪いわ」と悪びれても見せる。
「気にしないで。さ、いこうか」
そういえばワタシはまだこの男の名前も知らない。店を出る間際に化粧室の方を振り返った。大黒の姿はない。店内にも見当たらない。どこかへ消えてしまったらしい。
ワタシもいずれ消える。昼になれば今夜の姿は————。
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