2.蛾とコオロギの家族

 僅かに振れた女の子の指先の冷たさは、自分の温もりと引き換えに冷えた俺の心を温めてくれたと、そう思う自分を相手にそんなつもりは微塵もないと否定しつつも、どこかでそうあって欲しいと願う自分がいる。


 溺れる者は藁をも掴む、まさにその心理なのだろうか。


 仕事を終え家路につくと見慣れたマンションの玄関を開ける。


 人の気配と温もりを奥から感じ、光に誘われる虫のように廊下を進む。大きくなる楽しそうな声に家族の存在がそこにあることを確信しドアを開ける。


 さっきまで楽しそうに会話をしていたはずの家族は一言も発せずに俺を見る。


「ただいま」


 そんなに大きな声を出してないのに声が通るのは静かだからだろう。

 なのに返事はなく、動くタイミングを見失った俺の視線はテーブルに並ぶ夕食に向く。


「ああ、今日は早いんだ。ご飯用意してないけど」


「あ、そう」


 俺の視線に気付き、なんで帰ってきたの? とでも言わんばかりの態度で俺を見る妻と、薄ら笑いを浮かべる子供たち。


「別に腹へってないし、いらない」


「ふ~ん、ちょうど良かった」


「腹へってない」じゃなくて「食べてきた」と言えば良かったと後悔しつつも、妻の「ちょうど良かった」の言葉の意味が分からないと思ってしまう。

 それでも疑問をぶつけることよりも、ここに居ることの方がいたたまれなく、背を向けリビングを後にする。


 リビングのドアを閉め、ぼんやりした灯りの廊下を歩くと後ろから笑い声と、賑やかな話し声が聞こえてくる。


 俺が光に誘われた虫ならば、妻と子供たち家族は草むらに潜む虫だ。


 楽しげに鳴いているからと近付けば、ピタリと鳴くのを止めて身を潜める。

 離れるとまた楽しげに鳴き出す虫たちの美しい歌声に、さぞ美しい姿をしているのだろうと期待するとコオロギや鈴虫など、お世辞にも可愛いとは言えない姿の虫たち。


 俺が灯りに誘われる蛾とするなら、妻たちは楽し気に人の悪口を歌うコオロギ。パタパタと飛び回る分蛾の方が目につくが、コオロギの見た目だってよくはないのに、鳴くからなのか同じ虫なのに世間の扱いは随分と違う気がする。


 俺が離れたとたんにリビング楽しそうに鳴き始めた声たちはから逃げるようにして、自分の部屋へと向かう。


 荷物を置き、再び廊下に出て風呂へ入ろうと向かう途中で娘と出くわしてしまう。


 娘は俺を汚い物でも見るかのような目で、その瞳に俺を写すと顔を反らしてあからさまに無視してくる。

 そのまま風呂へ向かって歩いていく娘を見送ると、風呂に入り損ねた俺は再び部屋へと戻る。


 部屋といっても物置と兼用で掃除機やらアイロンの家電製品、ティシュ等の日用品のストックなんかが置いてある。居住スペースなどほとんどなく、俺が寝る場所を確保しているだけの場所。

 その場所も油断しているとトイレットペーパーやら、扇風機などの季節を外れた家電などが押し込められ場所を潰されたりする。


 ベッドも布団もない部屋でスエットに着替えた俺は、丸めてある寝袋を広げて中へ入る。


 高校生のときにキャンプに行くんだと言って駄々をこね、おやじを説得して買ってもらった寝袋は未だに現役で、最初は渋々だったのに最後は乗り気になって、どうせ買うならと高くて立派なヤツを買った方がいいと言って買ってくれたおやじに寝袋の中で感謝する。


 暗くて狭い寝袋の中で、今はもういないおやじとおふくろのことを思い浮かべる。


 特別何かあったわけではないが、普通の家族だったと思う。怒られたりもしたが、俺の為を思ってだったと今なら分かる。


 おやじとおふくろと俺の三人家族。なんでもない当たり前の日々だったが、今は懐かしく戻りたいとすら願ってしまう。


 ──いつからこうなったんだろう。


 ──どこで間違えたんだろう。


 自問自答し始めたら目が熱くなって、頬に熱い筋が引かれる。


 寝袋の暗闇の中で体を丸めうずくまってしまう。このまま何処か遠くへ行きたい。いっそ消えてしまいたい。


 そう思い握りしめた右手の手のひらに、何かが足りないような違和感を覚える。それが何かと考えてすぐに、昼間に感じた温もりのことだと気付くのに時間は掛からなかった。


 長らく温もりに触れていなかった俺の体は、昼間に感じた刹那の温もりすら覚えていて求める。


 寝袋から這い出て、鞄から財布を取り出すと小銭入れとは別に保管していた100円玉を手に取る。


 でもあの温もりは100円玉にはもうなく、握った手のひらに伝わる冷たさのせいで、頬を伝う涙の熱が際立ってしまう。

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