第44話 自分だけの国
大学生の
パソコンがわんわん
「……聞いているのかな、浦戸くん」
静かに責めるような口調でたずねられ、裕也は思わず舌打ちをした。
事の起こりは別れ話のもつれだった。
彼はつい最近、一学年下の恋人から、通話アプリを介して別れを告げられたばかりだった。
まさに青天の
あまりにも唐突すぎる別れ話が納得いかなくて、彼女のアルバイト先の居酒屋で待ち構えていたところ、大げさな店長が警察に通報して騒ぎになってしまったのだ。
何も暴行しようとしたとか、そういうわけではない。
冷静な話しあいがしたかっただけだ。
けれど誰も裕也の言い分を聞いてはくれず、大学側も騒ぎを知るところとなり、こうして所属しているゼミの担当教授に呼び出されることになったのだった。
話し合いの場にはハラスメント委員とやらの、見知らぬ他学科の女性教授が同席していた。彼女は裕也の舌打ちに、ぴくりと眉を吊り上げて反応した。
「あのね、浦戸くん。あなたが話し合いをしたかっただけだと主張しているのは警察からも聞いています。でも、あなたがアルバイト先に押し掛けたのは夜の十時を過ぎてからだよね。電話で今日は帰ってほしいと頼まれても、それから二時間も店の前で待っていたんだよね……」
「なんでそんな、俺が悪者みたいな話になるんですか?」
「あなたは先輩であるという立場をふりかざして無理に交際を迫ったと聞いています。それに別れる直前、ゼミの仲間に彼女の悪口を言いふらしていましたね。そのせいで彼女は受講するゼミを変更しなくちゃいけなくなったわけだけど、そのことについてはどう考えているの?」
裕也は一瞬、怒りで頭が真っ白になった。
混乱しながらも何とか言葉を
「言っている意味がわかりません。彼女は成績が悪かったから、希望のゼミに入れるように二人だけで勉強会を開いたりはしましたけど……。立場を振りかざしてって、ちょっと意味が違うと思うんです。それに悪口を言っていたんじゃなく、恋愛相談をしていただけです。男は恋愛相談をしちゃいけないんですか?」
「仮に普通の恋愛相談だったとしても、親しい人たちにプライベートな話をしたら、色々な噂が立ってしまって、後輩の彼女は居づらくなるってわかるはずですよ」
「はあ? なんでそこまで俺が考えてやらなくちゃならないんですか。言っていること、全然おかしいですよ。感情的で、理論的じゃない。ねえ、そうでしょう?」
大学のハラスメント委員なんてものは、しょせん女の味方だ。
彼女側の主張や立場を取り持つに決まっている。
裕也は質問してくる女性教授を無視し、担当教授に訴える。
彼は腕組みをしたまま、眉尻を下げて少し悲しそうな顔つきになった。
「君の言っていることはひとりよがりに聞こえるよ。君はこれまで、いったいうちの大学で何を学んでいたのかな」
必死に弁解をするが、話せば話すほど二人の態度は頑なになっていく。
裕也は壁に向かって話しかけているような気持ちだった。
結局、話し合いは中途半端に終わり、今後は裕也の両親を交えて行うということになった。両親は関係ないはずだと拒否しても、連絡をしないわけにはいかないとゴネられてしまった。
いくら要望しても、当事者である彼女は対話しようとしないのに、何故両親が呼ばれなければいけないのかわけがわからなかった。
教授からは話し合いの結果を踏まえて学部会議が行われ、処分が決まるとも伝えられた。
確かに警察沙汰にはなってしまったが、それは誤解によるものだ。
何も悪いことをしていないのに、どうして自分だけが罰を受けなくてはいけないんだろう。彼女も彼女だ。いったい、いつの間にハラスメント委員会に相談なんかしていたのか。それくらい付き合うのが嫌だったなら、直接言ってくれればよかったのだ。
警察官は裕也が彼女をおびえさせたと言っていたが、結末だけをみれば、結局、立場が危うくなっているのは裕也のほうだ。してやったり、ってなものだろう。
複雑な気持ちで学生研究室に戻ると、そこは不自然なほどしんと静まり返っていた。
何人かいるほかのゼミ生たちは、裕也と目を合わせずに無視しようとしている。
居たたまれなくなって荷物を掴んで外に出た。
いったい何がいけなかったんだろう。
気がつくと、裕也はカフェテリアにいた。
そこはキャンパスの端にある講堂の一階にある。
本格派のカフェで、内装もおしゃれだが、メニューが高くて学生の姿はあまりない。
たまに教員や職員がやってきて、休憩や打ち合わせに使うだけの場所だった。
裕也の目の前にはブラックのスーツを着た女だか男だかわからない人物がいた。
皮肉とか、悪口ではない。
茶色の髪を長く伸ばしてゴムで一つ
顔立ちは地味で化粧をしている様子はない。なめらかで丸みを帯びたフェイスラインは中年女性のものに思えるが、胸や腰のあたりは平板だ。
でも、男らしく筋肉がついていたりはしない。どっちつかずだった。
「わかるよ、裕也くん。君の気持ち」
その人物はやけに感情をこめてそう言った。
「え?」
と、裕也は答えた。
何故、自分がカフェテリアで同じテーブルに座っているのか、わからなかったからだ。でもそんな疑問を差しはさむ余地すらなく、その人物は
「思うに、今回の件っていうのは、単なる気持ちの食い違いなんだよね。君の考えと彼女の考えっていうものが、根本的に違ってしまっていたんだよね。そのことに気がつかないまま事が進んでしまったってだけ。だって人の気持ちなんて霊能力者でもないかぎり簡単にはわからないわけだし、どうしようもないよね」
「そう……そうなんです……………!」
目の前の人物の語る言葉は、不気味なほど裕也の気持ちにピッタリと寄り添っていた。
この人になら自分の気持ちがわかってもらえるのかな、と思ったとき、相手の表情や態度ががらり変わった。「でも、客観的な意見を言わせてもらうとね」という言葉が、裕也の心の不安なところを妙に生々しく突いた。
それはなんとなく、先ほどの教授たちの
「やっぱり女性っていうのはか弱いものだし、どちらに非があるか、どっちが悪いかと言ったら、君ってことになっちゃうんじゃないかな? 極端な話だけど、子どもと大人が
「……あなたも僕の味方になってくれないんですね」
「いやいや、そういうのじゃないけど。まあ、一般論としてはね……そういう結論に達せざるを得ないよねっていうことで、さ……」
目の前の人物はそう言って、アイスコーヒーのストローをクルクルかきまぜた。
話はここで終わりだ、とでも言いたげだ。
裕也は机を叩いた。彼は納得がいかないことや、不満なことがあると、よくそういう乱暴な
無意識の行動というより、彼はもともと自分の態度というものに
「じゃあ、どうすればいいんですか、俺は。肉体という入れ物は取り換えられないし、自分が男だってことも、いまさら変えられるわけない。どうしようもないことで責められて、俺はいったいどうすればいいっていうんですか!?」
「つまるところ、気持ちの問題じゃないかなあ? そう思わない?」
目の前の人物はそう言って、いきなり机の上にアタッシュケースを
「事の起こりは単純なすれ違いだったわけだよね」
「ええ、まあ、そうですけど――」
「考え方の違う人間が同じ国で暮らしてたら、そりゃ、トラブルにもなるよ。男と女なんて日本人と
むちゃくちゃだな、と思う部分もあるが、心のどこかで「確かに、そうだな」と思わせるところがあった。
彼女とのトラブルも、そもそも裕也と出会うことがなければ起きないはずだった。
裕也のことが怖い、男性が怖いというなら、はじめから裕也の知らない、どこか別の場所で生きていってくれればよかったのだ。
そうすればお互いに迷惑をこうむることはなかったんだから。
「自分と同じ考え方の持ち主とだけ、暮らしてみたくはない?」
そんな言葉とともにケースの
そこには何の変哲もない大きめのスタンプが入っていた。
*
翌日、裕也の手には一冊のパスポートがあった。
高校生のとき修学旅行のために準備したものだ。
いま、その査証ページには五角形の奇妙な入国スタンプが押されている。
スタンプには『自分だけの国』と書かれており、日付は昨日のものになっている。
カフェテリアでの出来事はまるで夢のようだった。
今では、なんであんなことをしたのか自分の行動そのものが疑問だった。
「自分と同じ考えの持ち主とだけ暮らせたら、君の抱えてる生き辛さ、周囲とのむだな
そのときだけ、それはとても魅力的な提案に思えた。
確かに、考え方が違う者どうしが同じ空間にいるからこそ人はルールに
裕也は片道十五分のアパートまで必死に戻って、言われた通りパスポートを取ってきた。それで押されたのが、馬鹿馬鹿しい奇妙な青緑色のスタンプだった。
思い返してみれば子供のおままごとのようなやり取りだ。
こんなことをしても裕也が
しかしいつも通り大学に行くために玄関の外に出て、裕也は昨日の出来事が単なるおままごとではないことを理解した。
町がやけに静かだった。
人気がないどころではない。
誰の姿も見えなかった。
何か事件か事故でもあって、町内の全員が避難でもしたんじゃないかというありさまだ。
隣人の姿もない。商店には店員もいない。しばらく住宅街を歩き回ってみたが人らしきものはない。ただ、家や通りが静かにそこにあるだけだ。庭先から知らない人の家の中を
誰もいない……。
試しに大声で叫んでみたが、自分の声が
そら恐ろしくなって、アパートの部屋に戻ってきた。
はじめはどういうことなのかわからなかった。しかし時間がたつごとに、パスポートに押されたスタンプのことが強く思い出された。
おそらくこれが『自分だけの国』ということなのだ。
いつもの町にみえるが、ここにいるのは『自分と同じ考えの者』だけなのだ。
そう思ってベランダに出てみると、周囲はあまりにも静かだった。
その日、裕也は部屋から出なかった。
馬鹿馬鹿しい考えだと思いながらも、現実に直面するのが怖かった。
翌日も冷蔵庫のものを食べ、外には出なかった。
さらにその翌日になって、裕也は再びアパートの外に出た。
町は相変わらずの
彼は
まさかと思ってスマホを取り出してみた。
幸いにしてそれは操作できたが、電話帳を覗いてぞっとした。すべての連絡先が消去されていた。画面をいくらいじくっても、警察にも救急にもかからない。
とっさにSNSを開こうとして、やめた。
もしも世界中に自分のアカウントひとつしかなかったら発狂してしまいそうだった。
結局、払い込みはできず、昼の十二時を越えた時点で電気が不通になった。
あまりにも異常だった。いったいどうしたらいいのかわからないが、このままだとまずいのは明らかだ。食べ物は盗むなりして何とかなるにしても、いずれガスも水道も同じように止まるだろう。
何よりも、この状況には腹の底からせり上がって来るような不快さが
「まさか、ほんとに俺だけなのか……?」
実に奇妙な考えだが、パスポートに入国スタンプを押したことで、もしも本当にそういう国に入国してしまったというのなら、せめて同年代の男性くらいは残っていてもよさそうなものだ。
なのに学生アパートが立ち並ぶ区画に自分ひとりの姿しかないなんて。
裕也はそれまで自分自身をごく一般的な存在だと思っていた。
特別秀でたところこそないが、どこにでもいる当たり前の存在だと。外見がちがうだけで中身は大差ないと。
だからこそ彼女の拒絶が理解できなかった。
彼はあせりながら大学に向かった。誰でもいいから、とにかく人に会いたかった。
そうして大通りに出たところで、また別の異常に出くわした。
「うっ!」
何かが裕也にぶつかったのだ。何なのかはわからない。前方からやってきた透明なもの、としか言いようがない。道の端を歩いているとそうでもないが、真ん中に出ようとすると衝撃で前に進めなくなる。
裕也はなかばパニックになりながら研究室のある建物に向かった。
しかし、飛び込んだ先に見慣れた学生の姿はなかった。
裕也が彼女の話をしていたとき……手作り料理がマズかっただの、デートに着てきた服装がダサかっただのといった話に笑いながら
それが何を意味するのか、考えれば考えるほど混乱が深まり、
裕也はふらふらした足取りで大学の敷地を出て、道路へと飛び出した。
*
怪異退治組合やつか支部に奇妙な通報があった。
ななほし町にキャンパスを持つ市立大学の正門前で交通事故があったが、被害者がわからないといったものだった。
すぐに狩人の
特例として救急隊員が
被害者に何があったのかは、回復を待ってから警察が
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