第42話 誰でもない



 世久見舞奈せくみまいなは夕飯を食べている。


 テーブルを囲んでいるのは父親の真清まきよし、母親の朝香あさか、そしての三人だ。

 テーブルに並んでいるのは、母親の得意料理のひとつである豆腐サラダとハンバーグ、そしてコンソメスープだ。みーくんは食べるのがあまり上手くなく、口の周りをドレッシングやソースで汚してしまう。その度に朝香はかいがいしく立ち上がって汚れを拭き取ったり、こぼしたスープのお替りを運んでくる。

 ビニール製のランチョンマットを新調してよかったわ、なんて言いながら。

 父親の真清はもともと寡黙かもくな性格で、妻がせわしなくしていても無視を決め込むことが多かった。今も、食べこぼしたみーくんを叱るでもなく、溜息ためいきを吐いてリモコンでテレビのチャンネルをいじっている。

 朝香が「お父さんも手伝ってよ」と文句を言うが、あまり本気ではないだろう。

 それはどこにでもありふれた風景だった。

 ファミリータイプのマンションでは、こういうやり取りが部屋数ぶん行われているんじゃないだろうか、と舞奈は思った。きっと目の前にある風景だけを切り取って他人に見せたとしても、その違和感には誰も気がつかないに違いない。


 だが、舞奈は、家族のなかでひとりだけ気がついている。


 目の前にある家族の団らんは、明らかに異常だ。

 優しく料理上手な母親と、仕事で疲れていて家族には無関心気味の父親と、その様子を無感情に見つめている舞奈と、



 そして



 世久見せくみ家はもともと三人家族だった。

 間違いなく舞奈まいなは十六歳になるまで一人っ子だった。

 兄弟姉妹にぼんやりとした憧れはあったが、具体的に弟妹が欲しいとねだったことはない。

 両親との三人暮らしに文句はなかった。

 同級生たちが反抗期を迎えるようになっても、舞奈には親を「クソババア」とか「クソジジイ」と呼ぶ気持ちは理解できなかった。漠然ばくぜんと、両親と一人娘の単調で平坦な毎日がこれからもずっと続くんだろうな、と想像していた。


 ひとり増えるまでは。


 舞奈の目の前で獣みたいにハンバーグを頬張る五、六歳の男の子は、去年の夏ごろになって突然、世久見家に現れた。

 じっとりと蒸し暑い放課後、舞奈が帰宅したときにはすでにリビングにいた。

 格好だけは緑と黒のしまのTシャツとハーフパンツを履いて、とても子供らしい。

 しかしその肌は妙に青白く、髪は「お母さんが切るのに失敗したような」中途半端なおかっぱ頭で、どことなく目つきが悪かった。

 男の子は四人がけのダイニングテーブルの、いつもは誰も使わない席に腰かけて足をぶらぶら揺らしていた。


「あなた、誰? どこの子?」


 舞奈が訊ねた。

 すると男の子は抑揚よくようのない平板な声で、そして不必要なほど大きな声量で答えた。


「だーれだ!」


 それからというもの、男の子は世久見家にずっと、いる。

 一日中だ。

 学校にも行かず、わが物顔でそこら中を走り回っている。

 しかも両親はそれが当然のことだと考えているようだ。

 とくに母親は「みーくん」と呼んで可愛がっている。

 みーくんの正しい名前を、舞奈をはじめとして誰も知らないのに、だ。

 今も頬っぺたにこびりついた米粒を指でぬぐい、自らの口に運んでいるが、家族以外だったら絶対にやらないだろう仕種だ。

 朝香はもともと、自他共に認める潔癖症だった。


「あのさ……みーくんって、いつまでうちにいるの?」


 舞奈はこらえきれずに訊ねた。

 両親はぽかんとして、それから何がおかしいのか笑い声を立てた。


「いつまでって、何言ってるの、家族じゃない。いつまででもいていいのよ」

「なんだ、とうとう、舞奈も反抗期か? でも、弟に当たるのはダメだぞ」

「そうよね。舞奈も年頃だもんね。むしょうにイライラするのよね、わかるわ。お母さんもそうだったから」

「家族……? この子が?」

「そりゃそうよ。昔からずーっと一緒でしょ」


 そんなことが一年近くも続いている。

 舞奈は気が狂いそうだった。

 もともと家族だったというくせに、その証拠は何ひとつとして存在していない。

 家族写真にも写ってないし、母子手帳だってないし、そもそもみーくんは着替えをしない。着替えの服がないからだ。舞奈がそのことを指摘して、最近ようやくTシャツや靴下や下着を買いそろえたくらいだ。

 みーくんは家族ではない。

 どこかから突然現れた世久見家の闖入者ちんにゅうしゃだ。

 それなのに、両親は家族が突然ひとり増えたことを不思議だと思っていないみたいだった。それどころか、時間の経過ごとにどんどんなっていっている。夫婦の寝室をみーくんの子供部屋に改装したり、ゲーム機を買い与えたりするようになった。

 そしてとうとう、耐えがたい出来事が起きた。

 夜、九時頃になって、真清が部屋で勉強している舞奈の元にやって来た。


「舞奈、少しいいかな。進路のことなんだが……」


 真清は、先週、舞奈が渡した希望の進学先のパンフレットを手にしていた。

 その表紙には、舞奈が中学生の頃からあこがれていた、英語教育に力を入れている都会のきれいなキャンパスが写っている。

 真清は申し訳なさそうに言った。


「舞奈には悪いんだが、進学先を別の大学に変えてもらえないかな。お母さんとも話し合ったんだが、舞奈を私立大学に入れるのが厳しいみたいなんだ」

「え? どういうこと?」


 両親は舞奈がその大学を目指して勉強していることを知っていたし、塾にも通わせてくれて、応援してくれていると思っていた。真清は家族に無関心ではあるが、それは日ごろの生活面だけで、教育には熱心だったのだ。


「舞奈が悪いんじゃない。お父さんもできれば、舞奈には頭のいい大学に行ってもらいたい。だけど、これは家計の問題なんだ。ほら、うちにはみーくんがいるだろ? みーくんもこれから進学塾に通わせないといけないし、同じくらい教育費がかかる。それにみーくんは男の子だから、東京や大阪みたいな都会の大学に出たいと思うだろう。そうしたら仕送り代だって二人分かかるんだぞ」


 舞奈はあまりのことに呆然ぼうぜんとしてしまう。

 この人はいったい何を言ってるんだろう……。

 

「だって、みーくんは学校に行ってないじゃん……」


 舞奈が観察している限り、みーくんは日中マンションから出ていくことはなかった。母親が買い物に誘っても「行かない」と言う。ランドセルもないし教科書もノートも、鉛筆の一本だって持っていない。

 それなのに教育費がかかるとは何事だ。

 舞奈が言うと、真清は途端に不機嫌そうになった。


「今は行ってないかもしれないけれど、将来のことを考えたら、二人のために平等に資金を貯めておくのは親として当然のことだろう? 舞奈も、もう少しお姉さんらしく大人になりなさい」


 そう言って、近場の公立大学のパンフレットをいくつか置いて去って行った。

 事態がうまく飲み込めずにいる舞奈の元に、みーくんがやって来た。

 みーくんはゆっくりと扉を開き、そっと青白い顔を部屋の中に入れた。

 そして「だーれだ!」と言うと、にやりと笑って去って行った。


 舞奈の心は限界まで張り詰めていた。


 みーくんが現れてから、両親はおかしくなった。

 それとも、舞奈がおかしいのだろうか。

 自分は何か変な幻覚でも見ているのでは、と思ったが、両親も同じものが見えている。違うのは受け取り方だ。

 両親はみーくんを本当の家族だと思いこみ、舞奈は突然現れた異物だと思っている。

 両親が揃っていない日など、恐怖でしかなかった。子供とはいえ、正確な名前すらわからない気味の悪い存在と二人きりになるのだ。

 おびえている気持ちを察しているからか、みーくんは舞奈のところにしょっちゅうやってきては「だーれだ!」と大きな声で叫び、けたたましく笑いながら去っていくのを繰り返した。

 舞奈が勉強していても、眠っていても、お構いなしだ。

 誰かに相談したかったが、誰に相談したらいいのかわからない。


 家族が突然増えたんだけど、どうしたらいいと思う?


 親友だと思っていた友達に冗談めかして聞いてみたが、まともに受け取ってはもらえなかった。それどころか影で「不思議ちゃん」のあだ名がついていることを、別の友達伝いに聞くことになり、ますます他人には話しづらくなった。

 部屋に入り込んだみたいに、無視していたらいつの間にかいなくなってくれないかな……そんなことを考えていたこともある。

 けれど、みーくんは段々と存在感を増していく。

 このままだと本当にどうにかなってしまいそうだ。


 放課後、舞奈は怪異退治組合やつか支部を訪れた。


 組合がどんなところかは曖昧あいまいにしか知らないが、友達は何回か相談したことがあると言っていた。ここなら奇妙な話を聞いてくれるんじゃないかと、一縷いちるの望みを託して、少ない小遣いでバスに乗り事務所の前まで行った。

 ちょうど、薄青のつなぎを着た職員が事務所から出て来るところだった。

 職員は扉を後ろ手に閉めると、舞奈の前に立ちはだかった。

 舞奈は咄嗟とっさに顔を伏せた。

 何故なのかわからないが、ものすごく怖いと感じた。

 すると、出てきた職員が舞奈に語りかける声が聞こえた。


「君、僕のことが怖いでしょう。顔も見れないんじゃない?」


 たぶん、若いと思う。声は優しくて、怖いことは何もないのに、強く後ろ頭を押さえつけられているみたいに体が動かなかった。びくともしない。

 敷地の境目に立ったまま、舞奈は一歩も動けなくなってしまった。


「残念だけど、君をここに入れてあげることはできないんだ。今日はもう帰ったほうがいい」

「もう限界なんです。助けてほしいんです……」

「それは僕にはできない。僕の力では君を助けられない。帰りなさい」


 きっぱりと拒絶されて、舞奈は打ちのめされた。

 頼みにしていた最後のつなまで切り離されてしまい、どうすることもできない。

 傷心しょうしんのまま帰路についた舞奈をさらに打ちのめしたのは、母親からの一通のメールだった。


『今日はおばあちゃんの家に泊まります』


 介護士をしている母は、最近、具合の悪い祖母の介護のために自宅を空けることが多くなっていた。

 母親の不在を知ったとたん、ひどく足が重たくなった。

 やつかの町の家々の明かりがやけに輝かしく思えた。こんなに深い悲しみや苦しみを抱えているのは、世界で自分ひとりなんじゃないかな、と思えた。

 勇気を振り絞って自宅のドアを開ける。

 センサーが舞奈の帰宅を感知して、玄関を照らす。

 もう遅い時間帯なのに、リビングは真っ暗だった。

 玄関の薄暗がりに男の子が立っていた。

 見知らぬ顔、見知らぬ声、見知らぬ笑顔で。


「だーれだ!」


 舞奈は通学鞄を投げ出した。

 そしてみーくんを突き飛ばして、キッチンに走った。

 シンク下の収納を開けて果物ナイフをつかんだ。

 昔、一度だけ、バンジージャンプに挑戦したことがある。あのときと同じで、その後のことは何も考えなかった。


 その後の数日間、舞奈は胸にナイフが刺さったままの男の子みーくんと一緒に暮らした。


 舞奈はみーくんがこの世のものではないと知ったが、どうすることもできなかった。





 転機は突然訪れた。

 久しぶりに家族が揃った日曜日の夜のことだ。

 うだるように熱く、リビングのエアコンがフル稼働していた。

 しばらく前から舞奈はリビングで食事をするのをやめ、受験勉強に集中するふりをして、自室に閉じこもっていた。食事を楽しむ気分にはとてもなれない。組合に相談に行ったあの日以来、何を食べても砂をむようだ。

 そんな夜の十時過ぎに呼び鈴が鳴った。

 舞奈が住むマンションにはオートロックがあるが、呼び鈴は部屋のすぐ外のものだった。

 朝香が不思議そうに応対に出るのを、舞奈は気配で感じていた。

 玄関を開ける音がして、そのあとに母親の短い悲鳴が響いた。


「きゃっ!」

「スロウ、トリプルカウント」


 知らない男の人の声がした。

 舞奈が部屋から出ると、異様な光景があった。

 応対に出た朝香が、驚いたような表情のまま、その場に凍りついている。

 その向こうに真っ黒なスーツを着た不気味な人物が立っていた。

 スーツは防護服みたいなもので、頭全体が黒いバイザーにおおわれていて、隙間がない。

 胸と背中には緑の字で『怪異退治組合やつか支部』と書かれている。

 まるで宇宙人のような人物は、舞奈を無視してずかずかと家の中に入り込み、リビングでテレビを見ていた真清を驚かせた。

 すかさず宇宙人の指が空中をなぞり、金色の記号を描いた。


「デュオ」


 呪文を唱えると、父親はビール片手に動かなくなった。

 それを確認すると、玄関に合図を送る。

 防護服の人物がもうひとり、家に入って来た。傍らに見知らぬ老人を連れている。

 杖を突いた高齢の男性だった。

 せてしわが目立つ顔だが、優しそうな目つきで、突然のことに固まっている舞奈を見つけると微笑んでみせた。


「大丈夫だよ、お嬢さん。もう心配ないからね。あの子は私が連れて行くことになったから」


 三人は呆気あっけに取られている舞奈を無視して、みーくんを取り囲んだ。

 みーくんは怒ったような顔をして「だーれだ!」と叫び、地団駄を踏んだ。

 防護服の人物らはその質問を無視した。おじいさんだけが柔和にゅうわに笑いかけ、みーくんに両手を伸ばして抱きしめた。


「おまえは私の子どもだよ」


 みーくんは顔を真っ赤にして暴れた。


「ちがう! ちがう!」


 みーくんは思いっきり暴れていたが、抱きしめる老人の手を振りほどけないようだった。老人はというと、部屋に入ってきたときは支えられていなければ歩けないほどヨロヨロと老いぼれて見えたのに、平然として暴れる子供を押さえこんでいる。


「さあ、一緒におうちに帰ろうね」

「いやだ、いやだーっ!」


 みーくんは叫びながら引きずられていく。手を振りほどくこともできないまま、最後は怒る気力もなくなったみたいだった。

 やがて、涙をこぼして、嗚咽おえつしはじめた。

 舞奈の部屋を通り過ぎるとき、か細い声で「だーれだ」と言った。

 舞奈は自室の真ん中に座り込んだまま、答えなかった。

 みーくんは連れて行かれたまま、もう帰って来ることはなかった。





 「誰でもない」と呼ばれる怪異のことを知ったのは、両親と共に呼ばれて行った怪異退治組合やつか支部の事務所でのことだった。

 やつか町周辺で不定期に発生する怪異で、発生原因はわからない。

 いつの間にか家庭の中にはいりこみ、家族の一員になりすます。

 心霊現象とは違っていて、儀式で追い出すことはできない。

 それに加えて「誰でもない」が存在している家庭に関わると、より良い環境を求めて怪異が移動することがある。ウィルスのように感染するのだ。

 だから、はじめに舞奈が相談に来たとき、どうしても追い返さなくてはならなかったのだと支部長だと名乗った人物が頭を下げた。

 舞奈は他人には相談できないと思いこんでいたが、世間は世久見家の異常にうっすら気がついていた。母親は職場でいないはずの息子について語り出すし、父親は町役場が主催した不登校児の就学相談に行っていた。

 おかしいと思った複数の人物が組合に連絡して、今回のことが露見ろけんしたのだという。

 舞奈はみーくんを連れていった老人について訊ねた。


「あの方は我々の古くからの知り合いで、追波おいなみさんという方です」


 その人がみーくんを退治してくれたのか、と重ねて聞くと、支部長は重苦しい顔つきで首を横に振った。


「追波さんは高齢で、ほかに家族もなく、持病を持ってらっしゃった。事情を聞いて怪異をんですよ」


 うっすらと背中に冷たいものが這っていくのを感じた。


 追波という人物は、それから間もなくして病院で息を引き取ったそうだ。

 組合から連絡があり、舞奈は両親と共に葬儀に出席した。

 そこには、連れて行かれたはずのみーくんはいなかった。



 果たして、みーくんはどこに行ったのだろう?






 誰も知らない。

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