四月二十一日(木)昼過ぎ ふじいし司法書士事務所

 白井麻人は誤解されやすい人間だった。


 子供の頃から色白の身体とその名字がコンプレックスで、いつも黒尽くめの服装をしていた。顔立ちは女みたいなつくりで、加えて表情も乏しいため、前髪を長く伸ばして人目を避けた。それに対して声はやたら低く、誰からも驚かれるので必要以上に喋ることをしなかった。


 人に与える第一印象は常に怪しい男だと、自他共に認めていた。


 白井はこんな風貌かつ根暗だったので、子供の頃からよくいじめられた。それなりに悔しい思いや寂しい思いもしてきた。中学時代には父親が他界し、ますます塞ぎ込んだ。


 高校に上がってもその雰囲気で人に避けられることが度々あったが、ある日、やたら長身のイタリア人みたいな男子生徒が白井に近寄ってきた。


 ――ねえ、お姉さんか妹いる?


 初対面なのに失礼だという気持ちより先に、ただただ戸惑った。白井は姉も妹もいなかったので、一言いないと答えると、


 ――もったいない。


 そう言って長身のイタリア人生徒は白井のそばを離れた。


 ところが、それ以来何かとその外国人のような男子生徒は白井に話しかけてきた。


 驚いたことに、彼は生粋の日本人で、名前を宇佐見一正と言った。


 白井は話すのが苦手だったが、この宇佐見はよく喋った。無口な自分相手に何が楽しいのかわからなかったが、飽きもせず一方的な交流は続いた。

 白井が宇佐見に自分に関わる理由を問うと、


「アサトは頭が良いから、オレも何か得するかもしれないでしょ。あと、お母さんを見てみたい」


 と陽気な声で言った。白井は自分が賢いなどと考えたことはなかったが、この言葉に救われた。自分が必要とされることが嬉しかった。宇佐見はこういう男だったので、学校でも人気者だった。その人気者と仲が良い白井も周りの生徒が認め始めた。  

 一度心が打ち解けられれば、他の生徒も白井と仲良くなりたがった。本人はその気はないが、宇佐見が言うには、白井とても心優しい人間で、その低い声が人を安心させるという。


 高校を卒業した後、白井は宇佐見とは違う大学だったが、その頃には、外見ではなく内面を見てくれる人間がほとんどだったので、親友が近くにいなくても充実した四年間を過ごせた。しかし、宇佐見への感謝は消えなかった。社会に出た直後、今度は母親が他界し、その際に白井は再び友人の支えによって助けられた。


 この恩は忘れることはない。必ず何かの形にして返そうと決めた。


 そして、その過程で新しい出会いにも繋がった。



 三階建ての小さなビルの二階にある『ふじいし司法書士事務所』のチャイムを鳴らすと、中から妙な色彩の眼鏡をかけた小柄の司法書士が姿を見せた。


「お疲れ。シロップ」

「どうもです。フジさん」


 白井は軽く会釈をすると、そのまま右側の小さい応接に勝手に入ってイスに腰を掛けた。

 付き合いが長いせいか、自分の事務所のように感じることさえある。

 そうは言っても、この小さい応接以外の部屋は滅多に入らない。

 隣はパソコンや本棚が置かれている仕事場で、小さい応接のちょうど向かいには広めの部屋があり、やはり応接室として使われている。大人数の来客があった時にはそこで対応しているようだ。その隣にはキッチンや洗面所などがある。司法書士一人の事務所にしてはずいぶん広い。

 主はコーラを入れたグラスを二つ持って現れると、白井の向かい側に座った。

 

 目の前にいる男――藤石宏海ふじいしひろみを長い前髪の間から眺めた。


 ――相変わらず、無駄に若々しい人だな。


 下手すると十代にも見える。


 この小柄で秀麗な顔立ちの司法書士に、白井は母親の相続手続きをしてもらった。

 紹介してくれたのは親友の宇佐見で、藤石は大学の先輩だと言っていた。

 話によれば、新入生の宇佐見がゼミの先輩の藤石を同級生だと勘違いしたらしい。対する藤石は、宇佐見を大学院生か講師だと思い込み、最初は敬語を使っていたと聞いた。


 確かに信じがたいが、藤石は白井や宇佐見より三つ年長である。

 だから当然口調も偉そうだし、仕事においての経験も藤石の方が上だった。

 仕事上での付き合いしかないが、白井はこの藤石の人柄に惹かれた。決して温和でもないし、何事も包み隠さず率直に言うし、そのため数多くの人間を泣かせてきたとも聞いている。ただ、それがこの男なりの優しさなのだと、時を経てようやく白井は気づいた。


 初めて出会った時、白井もその洗礼を受けた。


 ――名前のまんまだな。


 色白であることを暗に言ったのだろう。

 初対面なのにひどい言われようだと思ったが、白井は


 ――フジさん、と呼んでいいですか。


 そう返した。それを聞いた藤石は笑った。


 ――ナイス皮肉だ。頭いいな。


 そして、一緒にいた宇佐見を指差して、


 ――じゃあコイツなんかチョモランマだな。外国人みたいで丁度いいじゃんか。


 一斉に大笑いし、その後で小競り合いになった。

 あれから五年以上の付き合いになるだろうか。



「どうした?その髪型とその黒い服でボーッとしていると結構怖いぞ」

「すみません」


 今日は藤石から依頼を受けていた件の書類を持って来たのだった。

 土地家屋調査士である白井に対して、藤石は司法書士である。同じ登記手続きを扱うといっても、不動産の外観を扱う白井と、その内情や権利変動を扱う藤石とでは役割が違う。法律で定められたそれぞれの独占業務であり、こうやってタッグを組んで仕事をすることも多々あった。


「相変わらずシロップは仕事が早いね。偉い偉い」

「はあ」


 気の抜けた返事をした。白井は顧客に対する説明責任を果たす以外、ほとんど受け答えは「はあ」だけである。自分でも不思議に思うのが、客に対しては言葉がスラスラと出てくることだ。

 それ以外の人間とはほぼ無口、相手側の一方的な会話となる。とはいえ、白井も周囲も特に気にしてはいなかった。今では仕事の延長上の付き合いがほとんどだ。友達になる必要もないし、仕事で結果を出せば関係は維持できる。このくらいの距離が人間関係は上手くいくと最近になってわかった。


「しかし、三月は忙しくてやばかったなあ。さすがに人を雇い入れようか迷った」

「はあ」

「でも四月は案件も落ち込んだ。俺一人で充分だったな」


 白井はコーラを飲んだ。

 自分も藤石も一人で事務所を運営している。この不景気、明日には廃業するかもしれないという同業が多数いる中で、実際よくやっていると思う。


「シロップの方は?最近は何もないの?」


 なぜシロップと呼ばれるのかは白井自身もわからないが、藤石はその呼び名が気に入っているようだった。


 白井は藤石の黄緑色の眼鏡を見つめた。


「はあ。なくはない、です」

「おっ。色恋ネタか?そしたら殴る」

「仕事です」


 何だ、と藤石は退屈そうな顔をした。

 白井は構わず話を続けた。


「土地の境界の件で、少し厄介なことを引き受けまして」


 藤石は片方の眉だけ釣り上げた。


「そいつは大変だな。揉めてんのか。場所は?」


「はあ。ちょうど池上線の近くです。ほんの数平米の庭みたいなんですけど、隣家が侵出していて。依頼主はその土地と建物を売却したいようなんですが、仕入れ業者がその小さな庭を含んだ上で買うと言っているようでして」


 藤石があくびをした。


「それよりシロップ。その袋は何だ?」


 強引に話が折られたが、白井は持ってきた紙袋をおとなしく藤石に手渡した。


「おお、桜餅じゃないか。こういうものは早く出しなさい」

「すみません」


 藤石は応接を出て、緑茶を用意して戻ってきた。


「まあ、最悪なのは隣家が戸建を購入した時のアホ仲介業者だな。そこは同情するけど、境界は勝手に動かせないから仕方ない」


 桜餅を食べながら藤石は言った。

 話は聞いてくれていたようだ。白井は安心して続けた。


「僕は話を穏便に進めたいんですけど、お隣さんは時効取得を主張しておりまして」

「最近は一般人も知識を仕入れてイヤだなぁ。結局は争いになって、また弁護士に仕事取られちまうわけか。訴訟になったら時間がかかって、業者も買うのを諦めるかもな。誰も得しない話だ」


 そういうことも考えられる。

 自分は神経をすり減らして疲れるだけで、一銭にもならない。


「それでシロップは仲立ちしているのか。ストレス溜まらなきゃいいな。頑張れ」


 適当に励まされて会話を打ち切られた。

 藤石は自分に回ってこない仕事の話にはまるで興味がない。アドバイスをもらいにきたわけでもないので、白井は何ら気にせずコーラを飲んだ。


 隣の部屋から機械音がした。


「あ、見積もり依頼かな」


 藤石は嬉しそうに応接を出て行った。

 ファックスの受信完了を知らせる音がすると、


「あんにゃろ」


 と藤石の声が聞こえた。

 白井も立ち上がり、隣の部屋をのぞいた。


「自分でやれよなあ。ったく、俺のことヒマだと思ってんのか?」

「どうしたんですか」

「ウサだよ」


 白井は同級の異国情緒あふれた顔が浮かんだ。


「ウサさん何かあったんですか?」

「よくわからん。知る気もないし、犯罪に加担するつもりもない。そもそも、この情報だけで住民票を取れという方がおかしい」


 白井は藤石からファックスを受け取った。

 

 ***

 ヒロミ御中

 貴下、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

 司法書士の職務上請求書を使って戸籍と住民票を取ってファックスちょうだい。

 『スナック雪月花』のララちゃん。

 取得理由は以下のとおり。

某会社社長の愛人だったララちゃんは、他社の役員とも関係を持ち、そろって失踪。会社社長は激怒。ちなみに宇佐見はララちゃんに一五〇万ほど貸している(泣)

 しくよろ。

 ***


 親友のどこか楽しそうな筆跡に、白井は溜息を吐いた。


「難しい依頼ですね……そもそも司法書士の【職務】じゃないですからね……」

「無理だ無理。何だよララちゃんって。このままシュレッダーかけてやれ」


 藤石がそのスイッチを押したとき、事務所の電話が鳴った。


 番号表示を確認すると藤石は眠そうな目をさらに細め、凶悪な顔つきとなった。


 受話器を取る。


「もしもし、断る」


 その時、事務所のドアが豪快に開いた。

 驚いて藤石と白井が部屋を出ると、


「まったく冷たいよねえ。何が司法書士は親切な町の法律家、だよ」


 そこにはスマートホンを片手に仁王立ちする宇佐見がいた。


「帰れ」


 藤石の冷たすぎる言葉も眼力も効かず、宇佐見はフラフラと部屋に入ってきた。


「ウサさん。どこからファックス送ってきたの」

「やあ、今日も白くて黒いねアサト。一階のコンビニから送ったんだよ。司法書士先生が快く引き受けてくれたら帰ろうと思ったんだけど、ごねるから登場した。アサトも相変わらずチビ書士にこき使われているのか」


 白井はうん、いやと曖昧に答えた。

 小柄な司法書士は宇佐見を見上げる。


「俺はお前と違って、情で仕事はしないんでね。その女の名義で不動産登記の仕事があるなら別だが」


「うーん、やっぱりダメかい」


「お前にすれば一五〇万なんて、そもそもたいした額じゃないだろうよ」


 宇佐見は口をとがらせたが、渋々と諦めたようだ。


 この二人のいがみ合いは珍しくない。最初こそ見ていて心配にもなったが、今では挨拶のようなものだと思っている。


 その時、白井のポケットに入っているスマートホンが振動した。見覚えのない番号だが、電話に出た。


「白井です」


 少し沈黙の後、弱々しい声で男性が名乗った。その名前に思わず声を上げると、藤石も宇佐見もこちらを向いた。


 相手は、白井が境界特定の依頼を受けた――鹿端家の主人だった。白井は先日の情緒不安定な妻の顔を思い出し、少し緊張した。


「はあ、ええ。先日はお世話になりました。……はい?キャンセル、ですか」


 電話の向こうでしきりに謝る声がする。主人によると、そもそも境界特定はおろか売却の話自体が妻が勝手に決めたことで、家族は誰一人望んでいなかったらしい。そして、当人はやはり精神疾患があるようで、正常な判断が出来ないということだ。

すでに、須賀不動産にも白紙の旨を連絡したというので、白井も一切を了解して、電話を切った。


 ――そういうことなら、隣の家にも報告しなきゃな。


 今度は有平家の勝気な女の顔が浮かんできた。


「シロップどうした?」


 藤石が眠そうな目で聞いてきた。


「はあ。さっきの境界の話です。たった今、依頼人からキャンセルの連絡がきまして」

「そりゃ急だな。まあ、良かったんじゃないか?」

「ねえねえ、アサト。オレにも教えてよ。何があったのさ」


 楽しそうな宇佐見には申し訳ないが、白井は陰鬱な話を淡々と聞かせてやった。


 その途中、突然宇佐見が話を止めた。


「今、カバタって言った?」


「え?うん」


 宇佐見は、何か考え込みながら奥のキッチンに向かうと、冷蔵庫から勝手に缶チューハイを持ってきた。人の事務所の冷蔵庫を完全に私物化しているのか、缶には油性マジックで『オレの』と書いてある。


「ウサさん……鹿端さんがどうかしたの?」


 彫りの深い顔が珍しく神妙なものとなっている。白井は気になった。


「確証はないけどねえ。ヒロミもゲーセンで見たでしょうよ。リスカちゃん」

「あの女の子がどうした」

「愛のムチとはいえ、傷つけてしまったかもなあ。もう会えないかもしれない」

「相手にとっては好都合だろうよ」


 そうでもないのよと言って、宇佐見は飲み干した缶を握り潰した。


「借金だの家が取られるだのと言っていたのさ。中学生がそんな話をする?おそらく家族がとんでもない負債抱えているね。手首まで切って、可哀想に、きっと心はボロボロよ」


 ふうんと藤石はつまらなそうに言った。


「その女の子と、シロップの話が関係あるのか?」

「たぶん鹿端さんちの子。あの時一緒にいた茶髪の少年もカバタナナミって言ってたし」


 宇佐見はVサインをした。


「そんな……ウサさん、同じ名字なだけかもしれないよ。根拠は?」


 白井が尋ねると宇佐見はしばらく考えて言った。


「ない。だから調べる。もしくは作る」

「また無鉄砲だね」

「アサトも冷たいこと言うなあ。チビ書士と仕事するからそうなるんだな。まあ、いいからその家の住所を教えてよ」

「え、ダメだよ……守秘義務……」

「大丈夫!たった今からオレの仕事に変わったから」


 謎の論理を展開しながら、宇佐見が白井のカバンの中をこじ開けた。一方、いつの間にか藤石は部屋を出て行き、パソコンのある部屋で何やら作業を始めた。白井と宇佐見の話に興味をなくしたようだ。元々、藤石は自分の仕事にならないことは徹底的に協力しない男だが、すでに今回の件は白井の仕事ですらなくなった。


 しかし、宇佐見がいうリストカットをしている少女が、あの心を病んだ女性の娘だと考えると、嫌な気持ちになった。できれば別人であって欲しいと願ってしまう。


 ――有平家の息子も大丈夫だろうか。


 今回の売却が白紙になっただけで、依然として境界問題は残る。時間が経てば、再び鹿端家から有平家へ申し立てがあるかもしれない。その時は、一度関わった白井に依頼が来る可能性が高いのだ。


 白井は帰り支度をすると、作業中の藤石に声をかけた。

 すると、事務所の主が眠そうな目をして言った。


「おいシロップ。そっちの境界の話だが」


「はあ」


「忠告しておくけど、ウサの話を鵜呑みにして深入りするなよ。あと心理カウンセラーみたいな真似もやめておけ。お前みたいな人間は引きずり込まれるぞ」


 心を見透かされた白井は小柄な司法書士を見つめた。藤石は大あくびをしながら、ひたすらキーボードを叩いていた。

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