伊織と詩織

 佐野は、伊織にそっくりな少女の前に、無策で飛び出してしまった。

 飛び出してしまってから、どうしたらいいか悩んでいた。

 その少女は、突然現れた佐野を見て一瞬驚いたようだったが、すぐに冷静さを取り戻した。


「あなたは、ここで暮らしている人ですか?」


 冷たい声が問いかけてくる。佐野は、明らかに自分より年下のはずの少女に射すくめられている。

「あ、あの、君は、何をしに来たんですか?」

 しどろもどろになりながら佐野が質問すると、少女は不愉快そうに眉間にしわを寄せた。

「あなたは、ここで暮らしている人ですか?」

 さっきよりもとげのある声で、同じ言葉が繰り返された。

「こ、ここの、管理を任されている者です」

 うそではない。佐野は今、この先生の別荘で、巫たちの世話と施設の管理を任されている身だ。


「じゃあ、私の顔に、見覚えはありますか?」


 少女の問いに、佐野はゾっとした。


「待って! 詩織!」


 少女のずっと背後、ゲートの方から声がした。

 ハッとする。そう言えばゲートの前にまだ二人がいたんだ。


「こっちに来てもらっていいですか?」

 佐野は慌てて、少女をホテルの裏口の方へと案内した。

 詩織と呼ばれた、伊織に似た少女は、無言で佐野に従った。後ろから友達が呼ぶ声も、聞こえていただろうに。

 ホテルの裏口に立って振り向くと、詩織が真っ直ぐにこちらを見ていたので、佐野の心臓は握りつぶされると思っているかのようにバクバクと暴れた。


 この子は、怖い。


「あの。貴方、伊織という人を知ってますか?」


 まごまごしている佐野に、詩織は直球で質問を投げかけてきた。

 気付かれている。

 全部バレている。

 そんな気分だ。手に汗がにじむ。


「あの、名前を、聞いてもいいですか?」

 佐野がようやく絞り出した言葉は、なんだかひどく間の抜けた質問に思えた。名前なんて聞いてどうする気なんだ。

「倉橋詩織といいます」

 倉橋。

 確信した。彼女は伊織の娘だ。

 以前、先生の手伝いで、銀行で手続きをした時に見た名前だ。

 伊織の子供の養育費を、先生は定期的に支払っていると聞いた。

「あなたは?」

 詩織が、挑発的な視線でそう言った。

「佐野……佐野さの俊哉しゅんやです」

 佐野の苗字は、数年前にもらったばかりの名前だ。佐野家は、初代の巫をした人の家で、佐野は書類上その人の養子になっている。伊織と共にここで巫をしていた時代は、実佳俊哉だった。佳月と蘭寿らんじゅが、今そうであるように。

「佐野。実佳雪継氏の、秘書の方と同じ苗字ですね」

 わざと先生の名前を出したのだろう。ここではポーカーフェイスをするのが正解なのは解ってる。だけど、今の佐野にはできなかった。眉が痙攣したようにピクリと動いてしまった。

「ねえ。伊織という人を知ってるんでしょ? 私が、何者かも想像がついてるはず」

 じり、と、詩織が一歩こちらに踏み出した。

 佐野はもう、何を言うこともできずにいた。


「私は、伊織――父の、死の真相を知るために、ここに来ました」


 言葉も、瞳も、冷静で、そして澄んでいた。

 貫かれたように、佐野は視線一つ動かせずにいた。


 一瞬、全部全部、話してしまいたくなった。


「伊織は――」


 答えたかった。教えてしまって、楽になりたかった。

 でも、やはり、これは佐野一人の問題ではないのだ。

 先生だけの問題でも、何でもない。

 ここがなくなっては生きていけない子供がたくさんいた。今だって、佳月と蘭寿がいる。

 これから先も、ここがあることで命を救われる子供が必ずいる。

 だから、簡単にすべてを話すことなどできなかった。


「伊織は、僕にとって兄のような人でした。優しい、優しい人だった。けど、今はもういません。僕が言えるのは、これだけです」


 表情も変えず、依然冷静な詩織とは打って変わって、佐野は、審判の場に引きずり出された罪人のようだった。


「私は」


 詩織が、落ち着いた声で言った。


「私は、ここの存在を壊したいわけじゃない。母から、父について調べることは、現在幸福な人たちを不幸にすることでしかないと言われていました。

 母からこの場所のことは、よくわからないけれど、そこにいる人たちにとっては大切な場所だから、それを奪う権利は誰にもないって。

 私はその権利を奪うつもりは毛頭ありません。

 ううん、正直に言えば、あなたたちなんてどうでもいいんです。

 あなたたちのしていることが、犯罪なのか、社会的にスキャンダラスなことなのか、そんなことはどうだっていい。

 あなたがここで何をしているのかだって興味ない。

 ただ、私には父がいた。父親が確かにいたという証拠が欲しいんです。

 父は、幽霊なんかじゃないって、私一人が知れればそれでいいんです」


 親なんていなければいいと思ったことしかない佐野には、存在しない父親を求める詩織の気持ちは理解できないものだった。


「どうして、そんな風に――?」


 うまく質問できなかったが、詩織は佐野の意図を察したようだった。


「私の母は、母の実家のある田舎でひどい仕打ちを受けました。

 高校生で、幽霊の子供を身ごもったって、噂をされて。

 バカな話だけど、母も、母の両親も周囲から面白がられたり、気味悪がられたりして――母の両親は亡くなりました。夫婦で、心中しました。

 その時も、幽霊の子供の呪いだって言われたそうです」


 佐野は、目を見開いた。

 ああ、ここの施設は、誰を不幸にすることもない場所だと思っていたのに。

 よりにもよって、あの伊織の子供が、そんな目に合っていたなんて。


「母も私も、引越して今は比較的平和ですが、それでも母は今も通院しています。

 ほとんど働けなくても、生活できているのは、実佳雪継氏から毎月振り込まれる養育費のおかげです。

 だから、あなたや、父のような人たちに恨みも憎しみもありません。

 私は、この施設を破綻させたいわけじゃない。

 ただ、私は自分の目で、自分の身体で理解したい」


 詩織の瞳が、揺れた。

 悲しそうに。怒りに燃えるように。幼い子供の癇癪のようにも見えた。


「私は、幽霊の子供なんかじゃないって!」


 佐野は、気付けばボロボロと、涙を流していた。

 その顔は、佐野が最期に見た伊織の顔にそっくりだった。


 一人で別荘を出て行く姿を見て、佐野が不安にかられて呼び止めた時に、最後に振り向いて、泣きながら佐野を抱きしめた、あの日の伊織の、泣き顔に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る