第42話 嫉妬


 いよいよ閉じ込められる季節が近いので、保存食の最終確認をする。

 乳製品や塩漬けの肉に小麦粉、瓶詰めのピクルス。その他諸々の細々した物まで全て目を通し、これならば三人が一冬越せそうだと胸を撫でおろす。

 雪が降った後でも運が良ければ鹿や猪が手に入る事があり、そうなれば多少の余裕を持てるだろう。

 そんな事を考えながら無意識の内に自分の唇を指で弄っていると、不意にこの間の光景が鮮明に脳裏に蘇った。

『愛してる。恐らくは貴女が思うよりも遥かに』

 浮かんだカシュパルの顔を何度消しても、頭から離れない。

 幼かったあの時さえ、私は終ぞカシュパルの外貌に慣れ切る事は出来なかった。

 今や歩くだけでも神官にさえ道を踏み外させかねない凶悪さである。そんな彼に誘惑され、全く何も思わないでいられる訳がない。

 だからこれは普通の事で、私がおかしい訳ではないのだと自分を慰める。

 再会してからカシュパルが露わにしてくる私への恋情に心が揺れ動いてしまうのは、彼のその特異性故なのだと。

 玄関の扉が叩かれる音がして、丁度考えていた人の声がする。

「セレナ、俺だ。開けてくれ」

 胸の内を聞かれたような気がして、少し肩が跳ねてしまう。顔を急いで取り繕い、扉を開ければエリーを両手で抱きかかえた仮面姿のカシュパルが立っていた。

 ざわり、胸が不快に騒めく。

「足を捻ったらしくてな」

「……そこまで大した事じゃないのだけれど」

 カシュパルは申し訳なさそうにしているエリーを彼女の寝室へと運び込みに行く。

 私は扉を開けてやり、エリーが無事に柔らかなベッドに置かれた所で、また台所へと踵を返す。

 カウンターの中で隠れる様にしゃがみこんだ。

 散歩の為にエリーが近所を歩くのは良くする事で、偶然カシュパルが助けただけなのだろう。カシュパルの腕力ならばエリーを抱き上げる事に心配もない。

 私が変な誤解などしている筈もない。

 けれど目にしてしまった光景がまるで夫婦のようで、それが私を不快にさせたのだとは認めたくなかった。

 だってそれは、嫉妬じゃないか。

 一度だってカシュパルの思いに応えようとした事はないくせに。

 自分の醜さが嫌だ。向けてくる愛情に胡坐をかき、いざ自分の物ではなくなる可能性に気がついた途端、こんなにも不快だった。

 昔はこうではなかった。カシュパルに恋人が出来た時の事を考えてみても、祝福する気持ちしかなかった。

 変わったのはいつからか。

 腕を掴まれて私がカシュパルに敵わないと自覚した時。その時から既に異変は始まっていたのだ。

 とある日の朝、私の傷を知って肩を這った指先を振り払えなかった。どれだけ自分が彼にとって大事であるかを、思い知らされてしまったから。

 家族でさえなかった。それよりも、もっと深い感情があるのだと初めて気がついた。

 重ねる日々の中でカシュパルの存在がじわりと私を浸食する。

一人で立っていた私を、甘やかして一人でいられなくさせようとする。

 積極的に好きでもない人付き合いをするのだって、私が煩わしい雑事に関わらなくて済むように自分が好奇心の囮になってくれているのだろう。

 そしてカシュパルの無数の傷を見た時、ただ只管に甘やかしてやりたくなってしまった。彼が望むものならば、なんだって叶えてやりたくなった。

 それが例え、私自身を望むような如何なる願いであっても。

「セレナ」

 カシュパルの呼びかけに顔を上げる。立ち上がれば、私を心配する彼の姿があった。

「体調でも悪いのか?」

「いや……大丈夫だ」

 不自然に長時間しゃがみこむ姿を見ていたらしい。誤解を解く為に首を横に振ったが、カシュパルは眉間に皺を寄せた。

「今日は俺が作ろう。休んでいてくれ」

 そう言うと腕をまくり、私の居場所を奪ってしまう。ぼうっとしてその姿を眺めていると、強引に椅子に座らせられた。

「本当に大丈夫なのだが」

「俺がそうしたいだけだ」

 カシュパルは私の言葉をあっさりと受け流し、手際よく夕飯の支度を始める。

 二人暮らししていた時も良く作ってくれていたので、腕前は間違いなかった。

 私は少しだらけた格好で椅子に座り、カシュパルの作業をただ見守るだけの仕事をする。

 太い血管の浮き出た大きな手が、細かく繊細に野菜を切っていく。

 背中を向けて頭上の棚から物を取る時、肩甲骨の浮き出た大きな背中が何故だかとても触れたくなってしまった。

 味見をする仕草さえ煽情的だった。動作の一つ一つがどうにも目が離せない。

 いよいよ私は自分の頭がおかしくなったに違いない。

 私の不躾な視線に文句も言わず、淡々とカシュパルは調理を進めていく。

「カシュパル」

「何だ」

「私の何処が、そんなに良いんだ?」

 望めば誰でも恋人に出来るだろうに、こんな面倒で女らしくない私を態々選ぶ理由が分からなかった。

 カシュパルは笑い、視線は手先に向けたまま話した。

「何処が……、そうだな。語ろうとすればいくらでもあるだろうが、意味ある事とは思えないな」

「どういう意味だ?」

「例えばセレナの髪より鮮やかな赤髪の持ち主が現れたとしても、セレナよりも美しいとは思わないだろう。例えば全ての孤児を救う女がいたとしても、俺はその優しさに心打たれる事はないだろう。理由などあってないようなものだ」

 語る口調は淡々としているのに、底抜けに優しく耳に届く。

「セレナだから全てに意味があり。セレナでなければそこに意味はない。恐らく、俺はそういう生き物だった」

 それは何処か諦めさえ感じるような、突き抜けた感情の言葉だった。

 私は自分が聞いた事にも関わらずたじろいでしまって、熱くなった頬を隠そうと頬杖をついて視線を逸らす。

 でも、それならば。どうやったらカシュパルは私を諦めるのだろう。

 沈黙しながら気がついてしまった難題に思考を巡らせていると、カシュパルが話しかけてきた。

「……困らせたか?」

 カシュパルを見ると手を止めて、気遣うようにこちらを見ていた。

 どうにも返答がし難く口籠ってしまっていると、彼は苦笑しながら口を開いた。

「嫌わないのであれば、同じ思いを返さなくてもいい。勿論今でも欲しくて堪らない感情は変わらないのだが。それよりも今はただ、貴女の重荷を軽くしたい」

 見えない何かが私の胸を締め上げる。そんな殊勝な事を私に聞かせて良いのか。

 都合よく使い倒されるだけになるかもしれないのに。

 私はカシュパルに自分の人生を顧みて欲しくて、強い言葉だと自覚しながら酷い事を言った。

「それで、私が他の人を愛したらどうするんだ」

 急に彼の纏う空気が重くなった。口角が深く吊り上がり、不穏な笑みを形作る。

「悪いがそれは諦めてもらう他ない」

 その手に包丁を握っているのもあって、とてもカシュパルが恐ろしい。思わず唾を呑みこんだ。

 先程までの気遣う様子など完全に打ち消して、脅す様に私に言った。

「多分、酷い事が起きる」

「……私にか」

「そんな訳がないだろう」

 ああ、成程。相手に。

 これは当面、身辺に気をつけなければ。

 思わぬ大きな落とし穴を知り、私は思わず居住まいを正す。

 この村に青年はいるけれども、思い返せばカシュパルが来てから会う事は殆どなくなった。その理由を掘り下げる事はせず、ただ口を閉ざした。

 カシュパルの思いの深さを知る程に、安易に喜ぶ言葉を伝えてやりたくなる。

 けれど出会った日の剣の重さも忘れる事が出来なくて、私は正解を見失うのだ。

 そうしている内にカシュパルはすっかり夕飯の支度を終わらせてしまって、普段の空気が戻ってくる。

 その日の夕飯は昔と同じく、温かくて優しい味がした。

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