第34話 嘘の中の真実


 カシュパルは首都の有鱗騎士団の新米兵や、他種族の獣人が訓練する際に使用する寮にいた。

 鉄枠を嵌められた窓際に座り、茫洋と外の訓練に行き来する兵士達を見下ろす。

 此処ならば外部から遮断され、逃亡も難しいだろうという考えで連れて来られたのだ。

 そんな事をする必要はないのに。

 逃げる気はなかった。セレナが去ったあの瞬間から、カシュパルの体に満ちていた溢れるような生命力も気力も全て失われてしまったからだ。

 此処にあるのは彼女に捨てられた抜け殻で、ただ時間が過ぎるのを待っているだけの存在だった。

 扉の向こうに誰かが来るのが分かったが反応する気力もない。その内に扉を叩いて入室の許可を求められたが、どうでもよかったので放置した。

 入って来たのはラウロだった。彼は自分がした事でカシュパルがこの状態になった責任の一端を感じているらしく、度々この部屋を訪れていた。

 ラウロは手を付けた様子の無い机の上の料理を見て舌打ちする。もう十日間はまともに食べていない。

 彼が片手に掴んでいるのは高級果物のリープだった。どうやら心配して手土産に持って来たらしい。

 それを軽くカシュパルに投げつけたが、億劫で取る素振りさえしなかった。

 当然頬に当たり、床に転がったリープをラウロは溜息を吐きながら拾い上げる。

「カシュパル」

 拾ったリープを無理矢理カシュパルの手に握らせて、ラウロは言った。

「いつまでそうしているつもりだ」

 いつまで? そんな事、俺が知りたい。

 血縁者だと信じていたから自分の感情にあれほど苦しんだ。せめてセレナの為に生きようとしていた。

 それが突然嘘だと言われ、目の前から彼女が消えてしまって。何もなくなった俺に一体どうしろと言う。

 可哀想だったと語るセレナの表情は、明らかに永遠の離別を意味していた。

 カシュパルは捨てられたのだ。

 彼女の嘘が暴かれず、何も知らないまま待っていたとしたらセレナはいつか本当に戻って来てくれただろうか。

 そんな覆せない過去を何度も考え、どうにも出来ない現実に打ちのめされる。

 全てをセレナに明け渡してしまったから、今更自分の為の生き方など分からなかった。

 心が肉眼で見えるのならば、大きな風穴が空いて見えるだろう。虚しさばかりが通り過ぎて、何かを留める事が出来ない。

 そんな悲惨なカシュパルを見てラウロは眉を寄せ、苦しむような表情をしながら言った。

「……悪かったよ。害意がないと分かれば会う事も出来るって最初に伝えれば良かった。お前があんまりにも出来がいいから、警戒してたんだ。どういう風に教育されてるか分からねぇし」

 子供の心を癒そうと、聞こえが良いだけの謝罪を吐く。自分の罪悪感から逃れたいだけのラウロの考えなどカシュパルには透けて見えた。

 実情を知っていれば余りにも見当はずれな警戒に思わず鼻で笑ってしまう。

「あの人が俺に犯罪でもさせるって……?」

 馬鹿にした笑みを浮かべた。あり得る筈がなかった。

 セレナはいつだってカシュパルを正しく、小さく、可愛らしい形に押し込めようとしていた。

 倫理観の希薄さ故にどんな悪逆非道の輩にもなっただろうカシュパルが、まともな獣人として育ったのはセレナがそれを望むからに他ならない。

 それをラウロに言ってやろうとして、急に面倒になって止めた。全ての事が無意味だった。

 このまま虚空に溶けるように死んでしまえたらいいのに。

「おい。言いたい事があるなら言え」

 ラウロを放っておいたが、今度は気を引こうとして肩を叩いたりしつこく呼びかけてくる。流石にカシュパルも眉間に皺を寄せた。

「止めろ。……自分の世界が、目の前から消えた虚しさなんてアンタには分からないだろうけど」

 カシュパルは進むべき道さえ見えなかった。

 セレナが叔母ではなかった事実に自分の根底が覆されて、何も信じられない。光が差さない水の中で水面を見失ったかの様だ。

 両親の情報さえ疑わしく思えてきたし、それは幼い頃から付き合って来た友人達も同じだった。

 当然だと信じた常識がある日全く違うものに変わってしまって、酷い不審をカシュパルに植え付ける。

 肉だと信じて食べてきた料理さえ、実は虫から作られたと言われるような気がした。

 また裏切られるのではないかと、一歩踏み出す事さえ出来なくさせる。

 手負いの獣の警戒心でラウロを睨みつければ、年月を感じさせる疲れた笑みを浮かべていた。

「分かるさ。俺も失ったから」

 言われて初めて、目の前の竜人が恋人や友人を失う経験をするに十分な年月を生きて来た事を思い出す。

 最も長寿の竜人はいつだって他の種族を見送る立場だ。他の獣人達の寿命は百五十から三百まで多岐に渡るが、竜人ほど長生きする種族はいない。

 そんな当たり前の事を忘れる程、今のカシュパルに余裕はなかった。

「それでもお前はまだ相手が生きているじゃないか。聞きに行けばいいだろ」

 セレナを信じていない男が言った言葉に、思わず片眉を上げる。

「どういうつもりだ」

 セレナの事は既に調査を終えていた。結果として正体不明の人物であるのは間違いないが、カシュパルを利用して何らかの活動をしていた痕跡はなかった。

 寧ろ口を揃えてカシュパルに普通の獣人としての幸福を追求させようとしていたと言う。

 その報告を聞いた時、ラウロは彼等に対するアプローチを間違えた事に気がついたのだった。

「言葉の通りだ。成人するまでは此処で面倒をみるが、その後は別に保護観察の必要もないしな」

 犯罪者でもない成人した竜人を拘束しておく法はない。それまでの二年間で、竜人としての常識を学ばせておけばいいだろう。

 それにカシュパルの様子から、セレナを忘れさせる事など不可能であると諦めたのもある。

 確かに、ラウロの言う通りだ。

 ラウロの言葉に徐々にカシュパルの心に気力が戻って来る。

 セレナは何処かに存在する。だったら見つけ出せばいい。

 そうだ。何故そんな簡単な事に気がつかなかったのだろう。

 去った理由と、居てくれた理由を問いただし、もう二度と見失わないようにしなければ。

 視界が急に開けた気がした。これまでカシュパルにとってセレナは神だった。彼女の意思に反抗するなど考えもしなかった。

 けれど嘘を吐いたという事実が彼女を失墜させ、ただの人間に貶める。

 そしてただの人間でしかないのなら、カシュパルの手は届くに違いなかった。

 確かにカシュパルの心はセレナの嘘によって千々に切り裂かれた。けれどそれよりも辛い事は今隣にセレナがいない事実である。


 捕まえに行く。それが、この世界の何処であったとしても。


 傲慢な笑みを浮かべ決意したカシュパルからは、失われていた覇気が戻っていた。

 他人を従わせる怜悧な威厳、そして己の意思を貫き通す強固な意志。それが本来のカシュパルの姿だった。

ラウロは活力の戻った様子に安堵しながらも少し苦く笑う。

「一体何を言って育てれば、此処まで盲目的になるんだか」

 何を?

 言われて思い出しながら、セレナの言葉を口ずさんだ。

「『カシュパル。誰がお前を馬鹿にしても、価値が分からん者だと放って置け。奴らが踏みにじる事が出来る物などお前は何もないのだから』」

 これは確か、まだアリストラ国にいた時の事だ。竜人の角を見て罵られ、落ち込むカシュパルを慰めてくれた。

 思い出したら止まらなかった。セレナの言葉はカシュパルの胸の奥深くにあって、その一言一句が刻み込まれている。

「『大丈夫。川に落ちても、また助けてやるから。克服するまで見ていてやる。いつかお前が一人で立ち向かえるように。まだ見ぬ誰かを助けられるように』」

 いつだって優しく、正しかった。その温かさはカシュパルの心から寒さを忘れさせてくれた。

 遠くを見つめ、セレナの言葉を語り続けるカシュパルをラウロは時を忘れて見入る。

 想像していたような強要や、誘導など何処にも見当たらない。

 それは間接的に聞くラウロにさえセレナが善人である事を理解させるに十分な程、優しい言葉の羅列だった。

「『見てごらん、あの雄大な大氷壁を。人を寄らせない気高い様を。共に見れて良かった。世界は美しいものに溢れている』」

 カシュパルの目が懐かしさに揺れる。切なさと愛おしさを孕み、語られる言葉達。

 彼が二人の歩んだ時間をどれほど大切に思っているか、ラウロはまざまざと見せつけられた。

「『何でもやってみると良い。けれど、私の手の届く範囲で。そうすればカシュパルが転んだ時、私が支えてやれるから』」

 ラウロは漸く、本当に彼が壊した物の大きさを把握した。虚しさに無気力になっても当然だと思えた。

 カシュパルに感情を吐き出させるかのように、邪魔をせずにただ耳を傾けた。

「『幸せになりなよ。皆が羨むぐらい。お前は私の特別だから』」

 嘘から始まった関係だった。真実が明らかになった今、何もなくなってしまったかと思った。

 けれど語る内にカシュパルはセレナが残してくれたものが残っている事に気がつく。

 出会ってから別れるまで、滔々と注がれ続けたもの。

「『愛してるよ』」

 愛だけは。セレナがカシュパルにくれた愛だけは確かに真実だった。


「『私の可愛い……カシュパル』」


 最後はいつも彼女が口癖のように言ってくれた言葉で。セレナがいる間は子供にしか思われていないのが分かって好きではなかったのに。

 今はその言葉こそ、セレナの最も本心を語った言葉のように感じられた。

 ああ、傍に行かないと。

 やはり自分は、セレナがいない場所では生きる意味を見出せない。

 彼女によって開けられた大きな胸の穴は、同じく彼女によってしか埋められないだろう。

 カシュパルは自分が手にしているリープに荒々しく噛みついた。甘い果肉は一瞬で飲み込まれ、飢えた全身に染み渡る。

「探しに行く」

「そうしろ。二年後にな。それまで何処でも生きて行けるように、鍛えてやるよ」

 苦々しい顔をしながらも残りのリープを全て平らげたカシュパルに、ラウロは心から安堵の笑みを浮かべた。

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