第31話 穏やかな時間
セレナが連れて来てくれたフロントの村は本当に険しい山奥で、互いに顔を良く見知った村人達が僅かに家を構えるだけの小さな集落である。
そこで一番山に近い家を借りたセレナは、山の管理を引き受ける代わりに村人達にエリーの保護を求めたのだった。
セレナが義務である山守に行っている間、エリーは近くに住むデボラという老婦人の世話になっていた。
デボラの家の中で手慰みに編み物をしていると、妊婦のエリーを気遣ってひざ掛けを足に乗せてくれる。
「温かくせんと」
「ありがとう」
エリーがお礼を言えば、彼女の顔に笑い皺が浮かぶ。そのくしゃくしゃの顔がとても優しく見えて、穏やかな気持ちになった。
……夢みたい。
少し前まで感じていた罪人を咎める冷たい視線は此処にはない。命の危険など夢だったかの様にエリーから遠ざかっていた。
エリーにとって人生の重大な決断というのは常に唐突に迫られるものだった。
子供を授かった時も。セレナを信じると決めた時も。
そして今の所、自分の直感に従って下した決断に後悔はない。
なぜならエリーはずっと逃げ出したかったから。自分の不幸な未来が迫り来るのを、ひりひりと肌で感じていた。
死にたい訳ではなかった。けれど、怖くて堪らなかった。誰かが自分を連れ出してくれるのを夢見ていた。現実になるなんて少しも思わなかったが。
だからセレナに攫われた時、もしかして自分がそう願うあまりに実現したような気がしたのだった。
「いいんだよ。セレナには返しきれない恩があるからね」
デボラの話ではセレナは以前、この村にいた大型の魔物を一人で退治してくれたのだという。
彼女が魔物を退治してくれなければ、今頃はこの村に人は住めなくなっていただろう。その為、この村人達は恩返しにエリーの世話を喜んで買って出たのだ。
それが二年前の話だというから、騎士だった筈のセレナがいつこの辺境の村に立ち寄ったのか少し疑問に思う。
不思議な人ね。
セレナは疑おうと思えばいくらでも疑える怪しい人物である。けれど彼女の澄んだ金の瞳に悪意が浮かぶ事は一度としてなかった。
今だってエリーが逃げようと思えば簡単に逃げられる状況だし、連絡を取れば騎士達がこの小さな村に大挙して押し寄せる事だろう。
それでも何の手立てもしないのはエリーを信じているからに違いない。そう思うとセレナを裏切る事は出来ず、エリーは彼女の共犯者となる決意をするしかなかった。
セレナは口からの説明ではなく、行動によって自分を信頼させたのだ。
「デボラさん」
セレナの声がして振り向けば、作業が終わったらしき彼女が玄関を開けて迎えに来ていた。
田舎のこの村では鍵をかける事さえ稀である。その他人への強い信頼は、貴族としての生活の中で感じた事がないものだった。
「ああ、終わったかい」
「はい。今日もエリーがありがとうございました」
「いいんだよ。また明日」
穏やかな挨拶が終わって外に出ると、馬の曳く荷台に乗せられた。セレナはまるで本当の姉のようにこうしてエリーを気遣う。
心が温かくなると同時に、彼女にそうさせた自分の罪がエリーを苛んだ。
「今日は何の話をしてたんだ?」
優しいセレナの声。時間が経つほどに、エリーはセレナの事が好きになっていく。
十七歳のエリーの気持ちに、これほど寄り添ってくれる人はいなかった。奔放なエリーの本性を貴族の令嬢の形に押し込めたのは両親だった。
「デボラさんの過去の結婚歴。若い時に結婚した一人目の相手が魔物に襲われ亡くなって、二人目は彼女に暴力を振るって子供を連れて逃げたんですって。三人目で漸く今の方と巡り合えたと言ってたわ」
「エリーを慰めようとしてくれたんだろう。あの人も苦労人だな」
外の世界に飛び出して知ったのは、エリーがこの世で最も不幸だと思っていた自分の境遇が実はありふれた話だったという事実である。
王族という相手でさえないものの、貴族に手を付けられた平民の女性や、自分ではどうにもならない事情でひっそりと殺されてしまう人の話が驚く程簡単に耳に入って来る。
遮るもののない平民同士の噂話は、王宮の奥深くに押し込められていたエリーにとって面白く、刺激的で、身につまされる話ばかりだった。
きっとあのまま閉じ込められていたら、何にも知らないままだった。
この世界は確かにエリーが知っていたよりも厳しく不幸に満ち、けれど人の情が温かかった。
「姉さん」
「何だ?」
すっかり呼び慣れた呼称で手綱を引く馬上のセレナを呼べば、直ぐに答えが返ってくる。
エリーはセレナが底抜けの善人である事を、もう疑っていなかった。
「王族について、何処まで知ってる?」
少し彼女の背中がぴくりと動いた気がした。
二人の家は一番山奥で、誰かが聞いているかもしれないと警戒するのも馬鹿らしい場所である。そうでなければ死罪にさえなる話だった。
「殆ど何も」
表に出てこない王族の素性を話す事は許されていない。セレナが知らないのも当然だ。
けれどエリーはどうしてもセレナに聞いて欲しかった。
「あの人達はね、本当に無垢なの。いつも微笑んでいて、穏やかで……そして別の世界を見ているかのよう。会話が成り立つ事はなかったわ。血が濃くなり過ぎたんですって」
ただ黙って耳を傾けてくれているセレナの背中に語り続ける。
外では誰も知らない王族の真実の姿だった。王族以外との婚姻を一切しなかった彼等は、いつからか心を病むようになっていった。
それでも身に宿す神秘の力を維持する為に、外部との婚姻をする事もなかった。
果たして歪んでいるのは王族か、それでもなお縋る国の民だろうか。
「私が世話をしていたディートフリート様もそうだった。ずっと静かに笑っていて……けれど時折、視線が合うような気がしたわ。今になっては気のせいだったのかもしれないと思うけど」
「……そうか」
静かなセレナの相槌の声。規則的な馬の蹄の音が優しく響き、エリーの心を慰める。
だから彼女の為に身を尽くしてくれるセレナに、自分の罪を告白した。
「誘ったのは私の方。……あの人の婚姻相手が決められた時に」
胸にあったのは、若さゆえの強烈な恋愛感情と反発心だった。
獣のようにディートフリート様の相手を決めないで。あの人は私達と変わらないのに!
その時の感情は今もエリーの胸にある。けれど本当に彼の子供が宿ったと知って、怖くなった。自分はこの子を守れない程、無力な存在だからだ。
一方で舞い上がる程に嬉しかった。ディートフリートとの確かな絆が結ばれた気がした。
全ての罪はエリーにある。そしてその罪は更に、セレナという善人に道を踏み外させてしまった。
「ごめんなさい。セレナ。貴女を巻き込んでしまって」
セレナを信じる程に罪悪感がエリーに押し寄せる。このまま平然と彼女の善意を受け取る事は出来なかった。
それまで静かに聞いていたセレナは振り返りもせずに口を開いた。
「……無理矢理襲ったのか?」
そんな筈がない。エリーは女性で、しかも貴族令嬢である。ただ口づけをしたのも、胸に頭を摺り寄せたのもエリーからだった。
どうか私に一夜の夢を。私の生は、この為にありました。
泣きながらそう言った彼女に、ディートフリートは応えてくれた。
「違うわ……」
はしたなさは罪だと教わったエリーにとって、自分がした事は重大な悪に違いない。
「愛されたような気がしたの。その時だけは」
いつも茫洋としていた彼の目が確かにエリーを見ていた。その僅かな奇跡だけで、残りの一生を生きていける気がした。
「なら、それは……法で罪に問われるものだとしても、人としての罪ではないと思う」
そんな風に言われたのは初めてだった。事情が事情なだけに、エリーは同情さえされなかった。
ディートフリートを一人の人間として、セレナが認識してくれているのをその言葉から悟る。
「そしてそれを聞いてもエリーを助けたいと思う私も、同罪だろうな」
セレナは後ろを振り返った。優しく笑う顔の何処にもエリーの罪を責める色はない。
孤独で押しつぶされそうな罪が、ほんの少し軽くなった気がした。
この人は何処までも私の味方になってくれるのね。
緊張していた体から力が抜けて、荷台の淵に上半身を預けるように虚脱する。
「……困ったわ。私、姉さんの事が本当に好きみたい」
少し潤んだ翡翠の目をセレナに向け、エリーは花の様に笑った。
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