第21話 運命が変わった日①


 私は夕闇の家路を肩を落として歩いていた。先程までヘルベルトに呼び出され、何かと思えば待っていたのはカシュパルへの意地悪に対する長々とした説教だったのである。

 フォンの町まで態々足を運んだらしき恩人の彼に、奇行を自覚している私としては強気に出られる筈がない。

 理由を告げる事の出来ない私は口を閉ざし、縮こまって彼の怒りを耐えるしか出来なかった。

「飯ぐらい食べさせてくれたって良いだろう……」

 酒場に呼び出されたにも関わらず、彼の深い眉間の皺の前では料理を頼む事さえ許されなかった。辛うじて水は飲めたのは情けだったのか。

 気づけばこうして夜も近い時間になってしまっていた。何処かで食べるにしても家で待っているカシュパルに言わなければ。

 これから合わせる顔を思い返し、散々された説教と相まって申し訳ない気持ちが湧く。

「確かに、馬鹿な事をしていると思うさ」

 私が恐ろしいのは、元の時間に戻った時に同じ光景が広がっている事だ。

 奇跡の力を借り、唯一故国を救う事が出来る人間なのに。情に流されて、殺すべき命を生かして。

 結局何もかも救う事が出来ない無能だったと知れたら、私は責任をどう取ればいい。

 それを思うと胸が重石を抱えたように苦しくなった。

 けれどカシュパルは全ての頼みを断らなかった。難しいものも、阿呆みたいな真似をさせるものも。常人を逸した従順ぶりが、私の猜疑心を緩ませていく。

 此処まで試して一度もあの冷たい表情を見せないのだから、私の知らなかったあの一面は何か悪意のある意図によって隠されていたのではなく、明らかに天性の才能がある彼に凡人である私の考えが及ばなかっただけではないのかと。

 もしもそうだったとしたら、私が只カシュパルを虐めただけという事実が残る。

「もう止め時か。……謝らないと」

 カシュパルはティーナと呼んだあの女性を容赦なく攻撃し、慣れたように人に命令し、黙って監視するかのように隣人に部下を住まわせた。

 けれど親に見せない一面が子供にあるのは世の常であって、その範疇なのかもしれない。

 子供を意のままにする親もいれば、子供に反抗される親もいる。カシュパルはこれだけ言う事をよく聞いてくれる良い子だ。

 ならば少し私の把握出来ない面があっても、寧ろ普通なのかもしれない。

 多分、この確かめ方は間違っていた。一度ちゃんと謝ろう。この理不尽な扱いを許してくれるかは分からないが。

 家に辿り着き、見慣れた扉を開ける。その時普段とは違う心地いい香りがして、思わず足を止めた。

「花……?」

 玄関脇の棚の上に、色鮮やかな花が飾られていた。この家には花瓶一つなかったから、それも合わせて買って来たのだろう。人の手によって育てられた美しい花々に暫し見惚れ、何故そんな物が此処にあるのかと首を傾げた。

「おかえり」

 カシュパルの声に花から視線を移すと、こちらも異変が起きていた。アイロンのかけられたシャツに、見覚えのない真新しい服を纏っている。

 その黒を基調とした上品な服を背丈も伸び顔立ちの整った彼がそのように纏うと、物語の挿絵のような美麗さである。カシュパルの顔を毎日見ている私でさえ視線を奪われてしまった。

「……どうしたんだ?」

 私がおかしな事をするから、遂にカシュパルもおかしくなってしまったのだろうか。

 覚えがなくて呆然と彼を見つめるしか出来ない私に、少しだけ寂しさを滲ませながらカシュパルは言った。

「今日は俺とセレナが会った日だ」

 全く覚えていなかった私は非常に気まずい思いにさせられた。

 言い訳をするならば、当初は貧しく慣れない生活に順応する為に必死になっていた為に祝い事をしている場合ではなかった。

 そんな年を数年過ごす内に、すっかり記憶から抜け落ちてしまったのも仕方ないではないか。

「今まで祝ってなかった気がするが……?」

 自己弁護の為にそう言ったが、気付いていない事など分かっていたようにカシュパルは微笑んだ。

「ああ。でも俺は忘れた事はない。……今日は俺がそうしたかったから」

 そう言って令嬢にするように手を私に差し出した。恐る恐るその手に自分の手を重ねれば、エスコートされて移動した先には完璧に準備されたダイニングテーブルがあった。

 テーブルクロスが敷かれ、見知らぬ燭台があり、新年のような豪勢な料理が並べられている。

「……凄い」

 思わず感嘆の声を出せば、満足気なカシュパルの表情が隣にあった。罪悪感の棘が自分の心を突く。

「全部カシュパルが?」

「……気に入るか分からないけれど」

 何をやっても上手な男は、料理の腕さえ本職に迫る物のようだ。歪な盛り付けなど一つもなく、どれも手が込んでいる。

 カシュパルへの疑いを完全には捨てきれず閉じていた心の扉が、ゆっくりと開いていく。宝石のようなそれらの料理を前に胸が高鳴るのを抑えられそうにもなかった。

「お前が作ってくれた物が不味い訳ないじゃないか。ああ、凄い。本当にどれも美味しそうだ」

「食べて」

 私は席に座り、彼の許可を得て前菜の乗った皿にフォークを向ける。ゼリーで固められた野菜が、皿の上に垂らされた酸味のあるソースと混じって口の中で溶けていく。

 妥協のない味に彼の真心が伝わってきた。貴女と食べるこの時間を、特別な物にしたいと。

「……美味しい」

「良かった」

 反対側に座るカシュパルは何の下心もないように目を細めて優しく笑う。そして肉を私の為に切り分けて、給仕のように小皿に乗せて目の前に差し出してくれた。

 私は心に特大の棘が幾本も突き刺さり、耐えきれなくなった。意地悪をし続けた私に、こんなに手を尽くしてくれるカシュパルをこれ以上疑えない。

 フォークを皿に置いて目を強く瞑り、顔を下げる。少しでも謝意が伝わるように。

「カシュパル、すまない。……ずっと酷い事をした」

 私の告白に沈黙が降りる。分かっていただろうが敢えて口にしたのはこれが初めてだった。

「……構わない」

 思わぬ言葉に顔を上げると、怒った様子は全くなかった。それどころか驚くべき言葉を口にした。

「許す、許さないじゃない。好きに俺に言えば良い」

 何でそんな、途方もない事を言えるのだろう。私は底なしの彼の優しさが分からなくなる。

 ただ少しだけ傷ついた顔をして、戸惑う私にカシュパルは言った。

「でも、そうした理由を教えてくれ。気に入らない事があるなら直す」

「カシュパルが悪いんじゃない。ただ、そう。少し……戸惑ったんだ。知らないお前を見たような気がして」

 それにしては私がした事は酷過ぎるだろう。しかしこれが今言える精一杯である。カシュパルは無表情で淡々と私に言った。

「そう……。なら、もういいさ。食べて。折角作ったんだから」

 何を考えているのか分からない。けれど、もう疑わない事にした。

 私の為に用意されたこの空間を見れば、どれだけ心を尽くして出会った日を祝おうとしてくれたのかは明らかだ。

 和やかな空気に戻りたくて、明るい声を上げて次の料理に手を伸ばす。

「ああ、そうする」

 彼の寛容さに甘えている気もしたが、もういいと言った事を蒸し返したくはなかった。

 用意されたワインも奮発した物なのか美味しくて、いつも以上に飲んでしまったら酔いも出てきた。

「カシュパル、本当に何でも出来るなぁ。料理人になって店を開いたら通うのに」

「そうしたら皆に驚かれるだろうな」

「そうだ。そうして紅盾からは魔物狩人の方が良いと惜しまれて、けれど戻ろうとしても今度は胃袋を掴まれた常連組に戻るなと言われるだろうね」

 想像を膨らませて笑っていると、いつもの優しい微笑に戻ったカシュパルが聞いてきた。

「どちらがいい? 望む方になるから」

「どちらでもいいさ。幸せになれる方を選べ」

 そうして会話を続けている内に、ぎこちなかった雰囲気はすっかり消えてしまっていた。カシュパルを疑う前のような和やかさに包まれる。

 喉を潤すワインは元の関係に戻れた嬉しさから次々と消費され、気付かない内にかなり酔いが回ってしまっていた。


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