第20話 隠さなければ
カシュパルは紅盾の事務室にて自分の椅子に座り、最近のセレナの言動について振り返ると深く溜息を吐いた。
この一か月、彼女は人が変わったようにカシュパルに対して息をつく暇もなく様々な命令を下した。
珍しい魔物を討伐しに行けと言われたら探し出して倒したし、有名な歌い手に会いたいと言えば大金を渡して時間を作り会わせたし、紅盾の事務所の模様替えをしようという注文にも従順に応じた。
カシュパルにとってセレナの願いを叶える事に粉骨砕身するのに些かの抵抗感もない。
寧ろセレナの為に何かをする事が出来るというのは、今までセレナから要求される事の無かったカシュパルにとって喜びに他ならなかった。
あまり紅盾を大きくするなという数少ない要望も、結局セレナ自身に何かしてあげる事ではなかった。
セレナが望むならカシュパルは人さえ罪悪感なく殺しただろう。しかしいくらセレナがカシュパルをこき使うといっても、善人である彼女の良心の範囲内の命令である。
その程度ならばカシュパルにとって苦労には入らない。
問題は何がセレナをそのように変えたのかという事だった。
カシュパルは前髪をかき上げ、苛立ちながら思考を巡らせる。
ティーナの件で怖がらせたからか?
しかし、それならば恐れている筈のカシュパルに命令を次々と下すのは辻褄が合わない。
ならばその更に前に何か兆候はなかっただろうか。
「……望まぬ未来の夢」
その事に思い当たり、まだ首筋に残る傷跡に手を当てる。
本当に殺される所だった。けれどもそれよりも、酷くセレナが動揺していた事の方が重要だ。
その時セレナは自分の事をどう思っているのかと聞いた。答えられる筈もなかった。
カシュパルの脳裏に過ったのは、この浅ましい思いがセレナに見破られたのではないかという恐怖である。
命を助け、愛情を注いできた甥がこんな邪な思いを抱いていると知ったらどう思う。
カシュパルはセレナに嫌悪感のある目を向けられる事を想像しただけで、心臓が縮みあがった。
駄目だと自分に言い聞かせるだけで、消えてしまうような感情だったらどれほど良かっただろう。
どの瞬間でさえセレナはカシュパルの心を揺らした。微笑んでくれる表情も、苛立ちも悲しみも怒りさえ。
セレナの声が自分の名前を呼ぶ時、長い冬の後の穏やかな春風に包まれたような温かさに包まれた。
いつだってセレナだけがカシュパルの世界で浮き上がるように見えて、他に目を向ける事も許されない。
生きる意味が鮮やかに色づいていく。呼吸さえ愛おしくて、見えない糸が自分を括ろうとしている事に気がついていても逃れる気さえ起きなかった。
あの人がこの世にいてくれる事が既に祝福である。
こんなにもカシュパルはセレナを欲している。けれどそれを現実的に望んだ瞬間、全てを壊してしまうだろう。
溢れる思いは留まる事を知らない。だからカシュパルはセレナを神聖視する事で昇華していた。
触れてはならない、何よりも尊い存在。光のような人。貴女の為に全てを捧げるから。だからせめて、邪な自分が傍に居る事を許して欲しいと。
カシュパルは自らの救い主である彼女を信仰する唯一の信徒であり、悪しき感情を払えない罪深き咎人だった。
セレナが見た望まぬ未来の夢。それは正に、カシュパルがセレナに想いを告げた未来を見たのではないだろうか。そしてティーナの件で、その疑いを深くしてしまったのではないだろうか。
その考えに至った時、袋小路に追い詰められているような気がした。胸が鉛を呑んだ様に重くなる。
絶対者である彼女の審判の目から逃れる方法が分からず酷く苛まされ、無意識の内に親指の爪を噛み削る。
そんな孤独と煩悶が満ちた部屋に、扉を叩く音が響いた。
「カシュパル、俺だ」
「入れ」
扉を開けて入って来たのは狼獣人のリボルだった。よく知った顔に気分が少し浮上する。
リボルは数少ないカシュパルの本当の意味での友人だった。嫌がる事は堂々と断りもする。
その距離感が嫌いではなかったし、何よりセレナが信頼を寄せる友人の一人でもある。
リボルは担いだ大きな荷袋を床に降ろし、運搬によって硬直した自分の肩を労う様に叩いた。
「はぁー、漸く見つけた。虹色狐」
カシュパルが袋の口を開けて中身を確認すれば、美しい毛色の狐が横たわっている。
先月目撃例があった虹色狐を持って来いという、セレナの命令は今回も無事に果たせそうだった。
リボルの優れた嗅覚が無ければ、更に時間がかかったに違いない。カシュパルは安堵に口を緩めて骨を折ってくれた彼を労った。
「助かる」
「それは別にいいんだけどさ……本当に最近、セレナさんどうしたんだ?」
近頃の異変に巻き込まれているのは紅盾のメンバーも同じだった。セレナの配慮によりメンバーに対して酷い命令はされていないが、いつまでこの状況が続くのかは皆が気にする所である。
「喧嘩でもしたのか?」
「……それなら謝罪の方法でも考えれば済んだのだろうが。実の所、分からない」
「カシュパルに分からないなら、誰にも分からないか」
リボルはどう見ても『良い人』だったセレナの変調に首を傾げた。
聖職者とまではいかないが、自分の出来る範囲内でなら他人に手を差し伸べる事を厭わない人だ。
それがどうして、誰が見ても分かるように意地悪をカシュパルにするのだろう。
「拒否されるのを待ってるとか」
「俺が? セレナの頼みを? 何故」
「そうやって全部断らないから……ってのは?」
「だとしても、俺はあの人の頼みを断らない」
もし一度の拒否でセレナに失望されたら?
そう思うと盲従するしかカシュパルの選択肢になく、彼女がもういいと思うまで試練に耐え続けるしかない。
リボルは苛立つカシュパルを見て、危うさを感じていた。リボルだけが気付いているあの秘密をカシュパルが知ったらどうなってしまうのだろう。
セレナが全てのようなこの男は、彼女が血縁関係にない事を知らない。もしかしたらセレナの奇行はそこに原因がある気もしたが、伝えられる筈がなかった。
二人の関係が破滅的にこじれてしまった時、深い傷を負うのはカシュパルなのは明らかだ。
せめて出来得る限りの手助けをと思い、捻って絞り出したのは先日痴話喧嘩から仲直りした同僚の話だった。
「……贈り物をしたらどう?」
「贈り物? 既に毎日のように渡しているが」
「それは頼まれた物だろ。そうじゃなくて、カシュパルが自分から選ぶんだ。特別な物を、心に響くように」
カシュパルがこれまで色々な物を捧げても、セレナが受け取ってくれる物はほんの一部でしかなかった。
けれど確かに状況が変わった今ならば、受け取ってくれるかもしれない。
妙案に思え、カシュパルの表情が明るくなる。
「確かに」
そう言えばセレナと出会った日も近づいていた。セレナは毎年その日もいつも通りで、もう忘れてしまっているようだった。
けれどカシュパルは敢えて口に出す事はしないまでも、指折り数えて依頼が来ても断り必ず共に過ごす様に意識している。
その日に合わせてセレナに贈り物をすれば、彼女の心を揺さぶる事が出来るような気がした。
「やってみる」
自分はセレナにとって無害であると示さなくては。
例え汚らわしい思いを抱いていたしても、セレナに害を及ぼすような真似は決してしない。
何故ならカシュパルは首を斬り落とそうとされるその瞬間でさえ、磨かれた剣の様に美しい彼女に見惚れていたのだから。
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