第18話 悪夢の余韻
目を開けた瞬間、その男の紫の目が私を認識していた。
殺される!
反射的に枕の下に常備している短刀を抜き放ち、男を全力で床に押し倒す。
やけに無抵抗なのを良い事に、短刀を首に押し付け切ろうとした時だった。
「セレナ!」
自分の名前を呼ばれ、時が止まったように体が動かなくなる。
目の前にはカシュパルがいた。あの男ではなく、私の可愛いカシュパルが。
私の凶行に驚き目を丸くして見上げている。
「はっ」
自分が息を止めていた事に気がつき、意識して息を吸う。彼の首筋には線のように赤い血が滲んでいた。
「はっ……はあっ……」
冷や汗が全身から噴き出した。私は急いで手にした短剣を遠くへ投げ捨てる。荒れた呼吸が中々戻らない。
今、一体何をしようとした?
カシュパルが私の名前を呼ばなければ、殺してしまっていただろう。酷い眩暈がする。
暗い室内に仄かな月光だけが差し込み、二人の影を浮き上がらせた。自分の荒れた呼吸音が耳に届き、どれだけ動揺しているかを自覚させる。
私に殺されそうになったにも関わらず、カシュパルは逃げるどころか様子のおかしい私を心配して私の背中を何度も撫でて落ち着かせようとしてくれた。
「大丈夫か?」
カシュパル、カシュパル。この子は私が育てたカシュパルだ。
私を慕い、私の言葉を聞き、私の後を追って魔物狩人になった。
胸を抑えつつ何度も繰り返し彼の名前を心で呟く。
枝のように細かったカシュパルの手は今や大きな男のものに代わって、不安定な私の心にはそれが頼もしく感じられた。
さっきまでは恐ろしく思えて震える程だったのに。同一人物に対する真逆の印象が私達の重ねて来た歳月の長さを思い起こさせた。
「ああ……」
ちかちかする目を押さえる。カシュパルにベッドに座るように誘導され、漸くまともに呼吸が出来るようになってきた。
あれは夢、だったのか。
余りにも鮮明でまるで現実のようだった。夢の途中で目が覚めたからかはっきりと内容も思い出せる。
改変された筈の未来、私の過去で確かに存在しただろう地獄。
風の音が聞こえる静けさの中、私の様子を窺いながら小声でカシュパルが呟いた。
「外に聞こえる程魘されていて……勝手に入ってごめん」
「今謝るのはお前じゃなくて、私だろう……」
夢と現実の区別がつかなくなるなんて、とんでもない失態だった。血の流れてきたカシュパルの首筋に眉を顰めた。
引き出しから清潔な布を取り出し、喉仏のある首に押さえつけた。指に触れた滑りが現実だと突き付けてくる。
鉄錆の匂いが鼻についた。夢の中の戦場の香りが私を追って来たかのようだ。
間近に見えるカシュパルの顔には怒りや恐怖など見えず、只管に私を心配していた。
大丈夫。この子はあの夢の中の王とは違う。
殺さなくて良かったと今更ながらに実感し、早鐘のようだった自分の心臓も少しずつ収まってきた。
「……痛かっただろう。悪かった」
「別に。この程度直ぐ治る」
カシュパルは私に罪悪感を抱かせない為だけにそう言った。彼の血が止まったのを確認し包帯を巻けば、随分痛々しい外見になってしまった。
綺麗に傷口が治ってくれればいいが。首筋という場所ではかなり目立つだろう。
それなのに当人は自分の傷を気にした風でもなく、私の顔色ばかり気にしている。聞きたがっているのを察して、重い口を開いた。
「酷い悪夢を見た」
前半部分は私がかつて経験した事だ。
エイダ先生と弟妹達の様子を見る為に孤児院に行って、ルドルフとテオの訃報を聞いた。
あの時獣人を憎みさえした私が、今は獣人の国に住んでいるのが不思議だった。
そして後半は私の想像に過ぎなかったが、実際に何処かであった事だろう。そして私が失敗すれば再び起こりえる未来でもある。
「どんな?」
正直に言える筈もない。だからあえて言葉を端折り、端的に言った。
「望まぬ未来の夢」
姿の老いない私がカシュパルの隣に居られる時間はもう、そう長く残されていない。
何故今、こんな暗示のような夢を見てしまったのだろう。私の選択を嘲笑うかのように。
大丈夫だと何度も自分に言い聞かせる。もう、あのバルターク・カシュパル王は何処にもいない。
今だって不安定な私の心を気遣って傍で見守ってくれる彼の視線に、あの寒気のするような恐ろしさなど何処にもないではないか。
けれどどうしても確かめたくなって、口にせずにはいられなかった。
「カシュパル教えてくれ。お前は私をどう思っている?」
なんでもいい。ただ一言私を安心させる言葉を言って欲しかった。けれどいつも必要以上に私の願いを叶えてくれるカシュパルは何故か口を開かない。
まるで私が聞いてはならない事を言ってしまったかのように戸惑い、口を躊躇いがちに開閉させ、漸く一言ぽつりと呟いた。
「……言いたくない」
何故言ってくれないのだろう。彼がこんなにも私に尽くしてくれる事の理由は、実は最も不幸な時期に助けた私への恩返しに過ぎないのだろうか。
私以外に心を開いた様子のないカシュパルは、本当は私にさえも心を許してはいないのだろうか。
目を伏せ気まずそうにするカシュパルの姿に悪夢の幻影が重なって見えた。
感情の壊れた顔。獣のような眼光。年月を重ねた怨嗟の雰囲気。
けれどそれは一瞬の内に消え、再び元のうら若いカシュパルの姿に戻る。
私は追い詰めるようにして聞いてしまった事を反省し、首を横に振った。
「変な事を聞いてすまない」
それでも今だけは、姉や母だと思っていると聞きたかったのに。
人間である私を愛して、慕っていると。
諦めて溜息を吐いた私に、カシュパルは申し訳なさそうな顔をしながらそっと両腕を伸ばした。そしていつも私がそうするように私の体を抱き寄せる。
「……ごめん」
謝りさえするのにどうしても言えないようだ。けれど男らしく成長しつつある大きな体に包まれて、彼の口に出来なかった感情の一端を知った気がした。
少なくとも大事には思ってくれている。だから過去のように人間全てを憎む事はないだろう。だから大丈夫なのだと自分に言い聞かせる。
私の選択は間違えておらず、あの未来はもうやってこない。私達の関係が悲劇で終わる事はない。
しかし本心ではやはり一言でも安心出来る言葉が欲しかった。
「いつか教えてくれ」
私がお前の元を去る前までに。時間はそれほど残っていないから。
けれどいつまで待っても返事は返ってこなかった。
「……もう大丈夫だ。起こしてすまない」
私はカシュパルの体からそっと離れ、彼を自室に戻そうとする。
しかし心配そうな顔をして立ち去り難そうだったので、上掛けを捲って誘ってみた。
部屋を分ける前にそうしていたように、共に寝ればきっと彼は安心するだろうと思って。
「久しぶりに一緒に寝るか?」
するとカシュパルは作ったような笑顔で首を横に振った。
「いや、戻る。……おやすみセレナ」
今度はやけにあっさりと出て行ってしまった。一人になった部屋がとても静かに感じる。
視界の片隅に光る物を見つけ視線を向ければ、自分の投げた短剣だった。
拾い上げて付着したカシュパルの血を拭う。鞘に納めたそれを、今度は間違っても彼を傷つけないように引き出しの中に仕舞い込んだ。
少し安心してベッドの中に潜り、眠れない事を知りながら目を閉じた。
部屋の外では物音がしなくなった事でセレナが落ち着いたのを知ったカシュパルが、扉から背を放す。
「……言える訳がないだろ」
子供としか思われていないのに。
自嘲した笑みを浮かべ、カシュパルは誰にも聞こえない小さな声で呟いた。
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