第14話 自覚
ラウロに言われた通りに宿の部屋に行くと、彼は既に荷造りを終えたらしくいつでも旅立てるような恰好をしていた。
良い事だと安心しつつ、長居をしたくないカシュパルは無表情で口を開いた。
「話したい事って?」
「単刀直入だな。まあ、分かりやすくていいが」
ラウロは呆れた溜息を吐いてベッドに腰かける。一つしかない椅子に座るようにカシュパルに顎で促した。
「お前の父親、名前は何だ? 俺の知り合いにいるかもしれないと思ってな」
どうやら本当に善意での申し出のようだった。警戒していた分、拍子抜けする。
今更父親の事について知りたいとは思っていなかった。ただ、後からセレナと自分の前に現れて厄介事を引き起こされるのも困る。
カシュパルは椅子に座って、遥か昔母親が懐かしんで何度も呟いた名前を言った。
「バルターク・カエターン」
ラウロは目を一瞬見開いた後、髪をかき上げて眉を寄せた。
「知ってる。……もう死んだ」
「そう」
寧ろ良かったと思った。母さんが孤独に死んだのに、のうのうと生きているのを知るよりは。
「腕は抜群に良かった。でも、一人で突っ走る奴だった。だから有鱗守護団にいたものの、幹部では無かった。それがある時、やけに無茶をするようになってな。……今思うと、ユピテルの霊薬を求めていたのか」
「ユピテルの霊薬?」
聞き覚えの無い名前に首を傾げる。ラウロはカエターンに対して呆れたような、やりきれないような顔をしながら言った。
「寿命を延ばす薬だ。特に、人間みたいな短い種族にはよく効く。とはいえ霊木から僅かになる果実を原料にするから一般には出回らない。有鱗守護団の幹部程度にはならないと、手に入れる資格さえ与えられない」
心臓が不意に騒めいた。初めて父親に対して感情を動かされる。けれどそれは温かい感情よりも、切なさと苛立ちと虚しさだった。
そんな物を遠くで求めるぐらいなら、一秒でも多く母さんの隣にいてやれば良かったのに。
「馬鹿だ」
「……そうだな」
「教えてくれて、ありがとう」
「大した事じゃない。俺はもう首都へ帰るけど、気が向いたらいつでも来い」
「覚えておく」
それ以上の会話は必要なかった。ラウロと別れ、カシュパルは一人家へと向かう。道中に父親の事を思った。
人間を愛しておきながら、一人遠くで死ぬなんて。随分と勝手で愚かな父だ。
どんな事情があれ、人間を愛したならば直ぐに手元に置くべきだった。そして絶対に生きて帰らなければならなかった。
人間というのは驚くほど脆弱で、庇護が必要な生き物だ。鍛えているセレナでさえ毎年のように体調の悪い時期があるし、怪我をすれば獣人よりも治るまでずっと時間がかかる。
閉じ込めるようにして守らなければならない。
俺ならばそんな過ちを犯さない。手を放さない。目を離さない。
セレナを、母と同じには決してしない。
家へと辿り着くと、出迎えてくれる声はなかった。部屋の奥に行くとセレナがソファーの上に仰向けに寝ている姿が目に入る。
眠りを邪魔したくなくて、静かにソファーに近づいた。毎日見る顔なのに、時折はっと目を奪われる。
今もカシュパルはまるで始めて見たかのような新鮮な気持ちで、セレナを見た。
何よりも大切で、そしてこの世で一番美しい人。
睫毛に彩られた瞼は閉じて、泣き黒子はまるで造物主があえてつけたかのように魅惑的だ。
セレナの形が好きだった。荒れた髪も、胼胝の出来た手も。
そのままでも良かったし、いつかカシュパル自身が労わって整えてあげようと思えば尚更だった。
静かに吐息を漏らす小さな唇が気になった。触れてみたくてそっと指で触れる。
疲れているのかセレナは全く目覚める気配がない。
どれ程、柔らかいのだろうか。
そう考えてしまったら、他には何も考えられなくなった。強烈な衝動が自分を支配する。
自然と吸い寄せられるように、自分の唇を重ねた。
目を閉じてその感触を確かめる。酔ったように頭がくらくらした。
一瞬のような永遠だった。
名残惜しさのあまりゆっくりと体を離し、セレナの顔が変わらず間近にあるのを見て自分のしでかした事の大きさを自覚した。
唐突に気付いた自分の感情に、胃液がせり上がってきた。冷や汗が額から垂れ、その場にへたり込む。
望む心は何処からきた?
彼女は俺の、唯一の血縁。恩人。保護者。
そんなセレナに今、一体何をした。
「嘘だ……」
顔を真っ青に染め上げて小さく呟く。
恐るべき現実に打ちのめされる。どれだけ否定しようとしても答えは明白だ。
後ろ指を指される禁忌の感情。父を超える大馬鹿者。
カシュパルの人生に幸福など訪れない。
何も知らず眠り続けるセレナの前でカシュパルは手で顔を覆い、救いようもない自分自身に絶望した。
◆
カシュパルを待っている内に眠ってしまっていた私は、誰かが傍にいる様な気配を感じて意識が浮上した。
首を横に向けるとカシュパルが酷く青ざめた表情で床に座り込んでいる。まるで明日にでも世界が滅びると知ってしまったかのような顔だった。
「……どうした?」
腕を伸ばして彼の柔らかな黒髪を撫でる。それに促されたようにカシュパルは私に揺れる宝石のような紫の瞳を向けた。
誰しもの目を奪うような美しい少年だった。そしてその外貌に負けない程、彼の精神もまた気高かった。
他人に己を侮らせず、みだりに心を許さない。傲慢ではなく、そうする事こそが自己を守る術だと知っているのだろう。
そんな生まれながらにして王のような彼が今、迷子のように頼りなく心を震えさせている。
一体何を言ったんだ。あの竜人は。
舌打ちしたい気持ちを抑え、セレナはなるべく優しい声色を作る。
「何を言われた。カシュパル」
カシュパルは随分言葉を迷った末に、ぽつりと呟いた。
「……父の事を。もう死んでいると」
カシュパルに出会う前、知識として学んだ彼の父親の事を思い出す。バルターク・カエターンは統率力においては皆無だったらしいが、有鱗騎士団でも指折りの実力者だった。
その縁でカシュパルは助けてくれた商人の死後、有鱗騎士団に身を寄せる事になる。
一度も会った事のない父親であっても、矢張り死んでいると聞くのは衝撃だったのだろう。
私は孤独な少年が酷く可哀想に思え、その頭を抱き寄せる。
「私がいる」
カシュパルが独り立ちするまでの期限付きだったが、そんな事情をおくびにも出さず、まるで生涯を誓うかのように言った。
「きっとセレナは後悔する」
カシュパルはまるで私の腕に抱かれている事さえ許されないと思っているかのように縮こまりながら、罪人のように震える声でそう呟いた。
「俺を助けた事」
「どうしてそう思う」
父の死が衝撃のあまり、投げやりになっているのだろうか。あるいは両親がこの世にいない事を実感し、捨てられる恐怖に怯えているのかもしれない。
「放っておけば良かった。どうして俺なんか助けたんだ」
吐き捨てる様なその言葉に、彼がとても深く傷ついている事だけはよく分かった。
けれど気がついているだろうか。その言葉を口に出す事こそ、私がそうしないと信じている証拠であると。
さて、どう宥めてやろうか。
元々嘘から始まった関係である。適当な嘘でも吐いて気を落ち着かせてやればいい。
けれど何故か、本心で言ってやりたくなった。
「愛によって、救えるものがあると思ったんだ」
「……愛?」
エイダ先生が私を愛してくれたように。誰かを救う事が、私にも。
カシュパルは顔を見上げ、何故か呆然して聞き入っていた。
「そうだ。私の可愛いカシュパル。きっと世界だって、救えるんだ」
こんな夢想を心から信じているなんて、お前は思いもしないのだろうね。
カシュパルは眩しい物を見るかのように目を細めた。そして何かを諦めたような疲れた笑いをする。
「まるで光だ」
それは言葉通りの肯定的な意味では無かった。それがなくては自分の形さえ認識出来ず、温もりを感じる事も出来ないのに、幾ら手を伸ばしても決して手に入らない。
そんなカシュパルの含みを感じ、どうもうまく伝わった気がしなかった私は片眉を上げる。
「本当に分かったのか?」
「さあ……どうだろう」
「……まあいい」
まだ青白さの残る彼の頬を両手で掴む。好きにさせてくれるようだったので、その柔らかさを堪能するように暫く弄んだ。その内に手は耳まで到達し、形のいい耳殻をなぞる。
突然の接触に困惑した表情のカシュパルがあどけなく見え、思わず口元が緩んだ。
「いつかお前にも分かる時がくるさ」
そう言って形のいい彼の額に唇を落とす。全ての嘘が暴かれる日が来ても、この感情だけは信じてくれるだろうか。
驚いて紅潮し、血色の良くなったカシュパルの顔に満足する。
私はこの子を、確かに愛していた。
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