死、香る花

秋月流弥

死、香る花

 幸福の花束。

 至高の香り。身に纏えば誰もが幸せになれる香水を開発してほしい。


 調香師である木之下きのしたのもとに来た企画は単純かつ難題という厄介なものだった。


 幸せほど曖昧な存在はない。個人差もあるし、幸福を感じる定義は人それぞれ違う。

 幸福とはなんぞやと問い掛けたいが、その香りの開発を依頼されているのは自分であり、己がそれを一番理解していないといけない。


「幸せってなんだろうな」

 木之下が呟くと同僚でありライバルの前田まえだがニヤリと笑う。

「なんだ? 哲学か」

「違うって。仕事の企画であったろ」

「ああ、あれね」

 前田は考える人のポーズでパイプ椅子に座り腕を組む。余談だが考える人は地獄にいる者を上から覗いているだけで、何かを考えているわけではない。

「今の俺みたいなことかな」

「どういうことだよ」

「可愛い嫁さんがいて、家に帰ってもコンビニ弁当が夕食じゃないこと」

「自慢かよ」

 最近結婚したばかりのライバルは目尻を緩ませだらしなく笑う。

 こいつだけには先を越されたくない。そう思った。


***


 定時になり職場から一人暮らしの自宅へ帰る途中、歩いているとふわり、と芳しい香りが鼻孔をくすぐった。


「なんだ? この匂いは……」


 匂いのする方を辿り歩いていると、踏み切り前の電柱に一輪の紅い花が咲いていた。

 花の香りを確かめるために手で扇いで嗅いでみると、目眩を覚える程の良い香りが舞い込んできた。

「この香り……そうだ! 新しい香水のイメージにぴったり合う」

 まさにこの花の香りは幸福を感じる匂いだ。

 木之下は紅い花に手を伸ばそうとすると、あることに気づいた。

 花の茎には鋭い棘がいくつも生えている。指に刺さったりしたらとてつもなく痛いだろう。


 そこで木之下は自分が職場の実験用に軍手を所持していたことを思いだし、鞄から軍手を取り出す。

 軍手をし、花を摘み取ろうとすると「あ!」と後ろから声がした。


 振り返ると、そこには細い三つ編みにデニム生地のエプロンをした女性が困ったような表情でこちらを見ていた。

 何かを言いたそうに口をもごもごと動かしているので、木之下は「どうかしました?」と先を促した。

 話を聞いてくれる木之下の姿勢に安心したのか、女性は話し出す。


「すみません。私、花屋の者なのですが……」

「花屋?」

「ええ、そこの」

 女性が指差す場所、現在立っている踏み切り前から道路を挟んだ向こう側に小さなフラワーショップが控えめに佇んでいる。


「ああ、あそこの……で、その花屋さんがどうしてここへ?」

「その花、触らない方がいいですよ」

「え?」


 女性の言葉に戸惑いつつも、先程の鋭い棘のことを思い出す。


「もしかして棘のことですか? それなら軍手を持っているので平気ですよ」

 木之下は軍手をした手を見せてにこりと笑う。

「そうだ、花屋さんならこの花の育て方も知ってます?」

 生憎自分は香りに詳しくても花についての知識は乏しい。折角だから花のプロに聞いてみようと思った。

 しかし、花屋の女性は首を横に振り細い三つ編みを揺らす。


「いえ……その花はうちにも売ってなくて、分からないんです」

「売ってない? こんなに綺麗な花なのに勿体ない」

「あ、あの! とにかく摘まない方がいいですよ!」

花屋の女性は木之下が花を摘むことをよく思わないらしい。

 育て方もろくに知らずに無闇に摘むのはよくない、花屋という職業からそういう考えなのだろう。


 しかし、自分も調香師という仕事にプライドを持っている。

 この花の香りは極上だ。

 香水にしたら多くの人々が虜になる商品になるだろう。

 木之下は少々むきになって女性に食いぎみに言う。

「でも、この花は貴方の所有物じゃないでしょう。自然に咲いているものですし、誰にだって貰う権利はありますよね」

「それは、その」


 花屋の女性は諦めたのか、それ以上何も言わずにとぼとぼと向かいにある自分の職場へ吸い込まれていった。

 自分の行いを阻害する者がいなくなった後、木之下は一輪の紅い花を丁寧に根本から引き抜く。


 ブチブチブチ!

 一瞬、土から出た根が血管のように見えたが気のせいか。

「よし。これで最高の香水が作れる」

 木之下は紅い花を両腕に閉じ込め大事に持ち帰った。


***


「よお前田。今日さ、すげぇいい匂いの花を見つけたんだよ」

 自宅に帰り花を花瓶に活けた後、木之下は一番にライバルである前田に今日起きた出来事を報告した。

「本命中の本命。これ以外の香りなんてありえないってくらいの有力候補だわ」

「え、マジで?」

 くそー先を越された……受話器から聞こえる悔しそうなライバルの声に木之下の唇の端がつり上がる。

 自分が有利な位置にいる優越感からなのか、つい採集した花について饒舌に語ってしまう。


「それがさ、育て方もろくに分からないし、ネットの図鑑で調べても出てこないんだよ」

「その花の特徴とかないの? 条件をしぼって検索すればヒットするかもよ」

 特徴……

「赤くて花びらがデカくて、そうだ棘。鋭い棘がたくさん生えてる」

「へー棘ねぇ……」

「ま、俺がお前より先に最高の香水をつくる一歩を踏み出したわけさ」

「自慢かよ。イヤな奴だな」

「まあね」

 ハハハ! 共に電話越しに笑いながら俺たちは受話器を離した。


 しかし、喜んでいたのは束の間。

 翌日になると花はぐったりと生気をなくし枯れてしまったのだ。

 木之下は頭を抱えた。

 おかしい。

 水はちゃんと与えた。枯れてしまわぬよう根元から摘み取ったのに。

「やっぱり命を育てるのは大変か……」


***


 交遊関係は大事だ。人間誰しも一人きりで人生が完結するなんてことはない。

 仲間や友情などという言葉は小さな頃に夢見る絵空事だと思う。

 現実にそんな美しい関係など存在しない。


 故に木之下が必要とする交遊関係とは決して熱い友情でも尊い仲間意識でもない。

 友人とは、己の位置を確かめる為の指標。

 そいつより自分は幸せか、不幸せか。それを知るバロメーターでしかない。


 木之下は後悔していた。

 幸福ハピネス花束ブーケの第一候補になった花を手に入れた際、ライバルの前田に自慢する為、花を見せる約束を取り付けてしまったことに。


 案の定、自宅に来た前田に枯れてしまった花を見せるとため息を吐いた。

「なんで枯らせるかなぁ、もったいない」

「仕方ないだろ。育て方も分からないんだから」

 木之下が覇気もなく返事をする。落ち込んでる木之下を見かねて前田が「散歩でもするか」と提案した。


「いい天気だな」

 雲一つない晴天の下、木之下と前田はあてもなくふらふらと歩く。

(こいつのこういう所が良いとこだよな)

 前田は落ち込む木之下を心配して共にリフレッシュに駆り出してくれる。

 例え開発を競う競争相手であっても、ライバルの失敗を喜んだりしない。木之下だったら絶対違う反応をしただろう。


 しばらく無言で歩いていると、ふと視界の端に不自然に紅い色が入り込んでくる。

 目をやると、古びた一軒家の庭の片隅、昨日枯らしてしまった花と同じ種類の花が咲いていた。

「お、おい、前田あの花! 俺が枯らしたやつと同じやつだよ 」

「本当か!?」

「さっそく摘みに行こう」

 木之下が紅い花を目指して向かおうとすると、「おい待て!」と前田が急く肩を掴む。

「ここ、立ち入り禁止の場所だろ」

 前田に言われ見ると、そこにはキープアウトと書かれた黄色と黒のテープが何重にも家の回りに張り巡らされていた。

 そういえば近所で一家心中事件があったことを思い出す。

 場所こそ知らなかったがまさかここだったとは……


「やめておいた方がいいって」

「なに言ってんだ。お前は欲しくないのか?」


 幸いなことに花は二輪ある。

 分けあうには調度良い。

 前田は「仕方ない。同罪だからな」と花に手を伸ばすが、


 グサッ!

 前田は軍手をしていなかった為、花の鋭い棘が手に刺さってしまう。

「いって~ッ!」

「はは、棘には気を付けろよ」

 軍手をはめた木之下は血の出る手を押さえる前田を見て笑って注意した。

 木之下は再び花を手に入れ機嫌良く自宅に帰った。


***


翌日になると花は枯れていた。

「どうしてなんだ!」

 木之下は同じく枯れているだろう前田に電話をかけるが驚いたことに、前田の持ち帰った花は枯れていないという。

(くそ……! なんで俺のは枯れて前田のは無事なんだ)

 悔しさに唇を噛む。

 唇からは血が滲み鉄の味がした。


 受話器越しからは前田の奥さんらしき人の声が聞こえた。


『この花ほんと綺麗ね』

『しっ。今電話中だから』

『あら、ごめんなさい……痛っ!』

『気を付けろ。棘があるから』


 ははは、と幸せそうなやり取りが鼓膜を刺激する。


(なんだよ、自分ばっかり良い思いしやがって)

 通話を終え、木之下は一人舌打ちをした。その音は一人しかいない一軒家に虚しく響く。


***


情報というものはありとあらゆる場所で無造作に拡散される。

 限りなく事実に近い詳細から嘘か真か真実を確かめようのないものまで、千差万別ネズミ講のように。


 しかし、これだけ情報に溢れていても自分の望む情報にはなかなか辿り着かない。データの波に乗るにはこちらも上手く検索する術を酷使しなくてはならないのだ。


 どこのサイトを見ても例の紅い花の生息地は記載されていないことに半ば諦め状態であった木之下は思わぬ所で助けを受けることになる。


 図鑑でも何でもない、とある掲示板。

 そのコメントに紅い花の生息地が書かれていた。


「N市の交差点、K市の高層マンション前、M市の大学病院の駐車場……これ、よりによって『噂』の所ばかりじゃないか」

 記されていた場所は、殺人事件、死亡事故、自殺と種類は違えど死亡事件として新聞の欄に載るものばかりだった。

「あまり良い気はしないが香水の為だ」

 木之下は各地を訪れ花を手に入れた。


 しかしその努力は虚しく、採集した花はまたしても全て枯れてしまった。


 どうして自分だけ上手くいかない?

 誰よりも仕事に貢献してきた。

 結婚もせず、調香師という仕事一筋で生きてきた。

 誰よりも真摯に仕事をする自分は誰よりも手柄を立て周囲より高く評価されなければ割りに合わない。


「くそッ! こんな花……!」

 探し求めて手に入れた花が今は何よりも憎い。

 萎れた花を握り締めた手には棘が刺さり血が滲み出る。

 じわ、と刺さった部分は熱く遅れて痛みがやってくる。


 すると信じられないことが起こった。

 先程まで枯れていた花が突然生気を得たように再び紅く毒々しい程鮮やかに返り咲いたのだ。

「もしかして……」

 木之下は赤い血で濡れた己の手を見て呟いた。


***


自宅に前田が訪れた。

 最近職場に来ず欠勤している木之下を心配してのことだった。

「おい、木之下大丈夫か」


 訪れた前田を玄関先で迎えた木之下の酷くやつれ、顔色も青白く生気がない。

 そんな外見とは裏腹に木之下は目を爛々と輝かせ前田に言う。

「聞いてくれ。例の花の育て方が分かったんだ」


 木之下は長袖を捲り腕を見せる。

「お前、それ……」


 見えた腕は傷だらけで何本も赤く腫れた筋が浮き出ている。

「あの花は血を吸うことで成長するんだ。これは大発見だ!」

 木之下は笑う。

 その後ろには成長し大きくなった赤い花たちが鮮血のように紅く不気味に咲いている。

 木之下は果物ナイフを持つとそれで自分の腕を切り刻む。

 腕から赤い雫がボタボタと溢れでた。

 前田は顔を真っ青にして木之下に向かって叫ぶ。

「おい、それは危険だ。下手するとお前が死んじまうぞ!」

 前田は「こんなもの」と木之下を退け紅い花たちを奪おうとする。

「やめろッ」


 木之下は前田を突き飛ばす。

「ついに本性を現したな」

「え……?」

「お前はいつも俺の幸せの邪魔をする。電話の時、この花の成長のことだって本当は知っていたんだろ?」

「おい、何を言ってるんだ木之下……」

「仕事も家庭も俺より優位に立って、本当は見下してたんだろ」


 木之下の瞳から血のように赤い涙が出る。

「俺が一番幸せになるべきなんだ!! お前に邪魔なんかさせるものかッ!」

 木之下は手に握っていた果物ナイフをかつてのライバルに振り下ろした。


***


『奇跡の香水! 幸福の花束』

 そう綴られた雑誌の特集記事を見て木之下は鼻唄を歌いながら紅い花たちに水やりをしていた。

 水とは勿論血液のことだ。

 倒れた前田から溢れ出た大量の血液は花たちの最大の栄養となり、成長を加速させた。

 花は木之下よりも大きくなり、最早樹木といっても差し支えない程育った。


 今日も花たちは紅く輝き血を欲している。

 花が大きくなるにつれ、必要とする養分も多くなる。

 木之下は自分の血管を何度も何度も切り裂いては紅い花の養分にした。

「お前のお陰だよ、前田。俺は最高の香水を作ることに成功したんだ」

 木之下が樹木のように太くなった茎を撫でる。

 すると、紅く輝いた花たちが一斉に枯れ始めた。


「な、どうしたんだ!?」

 花弁は一枚また一枚と散ると、丸裸になった花の先がブクブクと膨らみだす。

 膨らみだした花の先はグニャグニャと形を歪めては伸び縮み、やがて一つの実となった。

「ヒッ……」


 その実。

 樹木に実ったものは前田の顔とそっくりなものだった。


 ブクブクブク。

 他の花たちも同じように実をつけていく。

 実ったものには見たことのない人の顔まであった。


「まさか、これは……」

 木之下は今までの記憶を手繰る。

 血を吸って育つ花。

 花の生息地である死亡現場。

 殺した者の顔の実。

 木之下は大きな勘違いをしていた。この花は血を吸って育つのではない。


 死んだ者の“命”を吸って育つものだったのだ。


「ウァァァア」

 人の形をした果実たちは養分を求め木之下の身体を掴む。

 掴む力は想像以上に強く、木之下の肩はスポンジのように潰れ搾るように出血する。

 自分から出る鮮やかな紅色を見て木之下の意識は遠のいていった。


***


「いらっしゃいませー」

「わぁ、綺麗なお花がいっぱい!」

 訪れたフラワーショップは小さいお店ながらも色とりどりの花が可憐に咲いていた。

 色鮮やかな花たちは日常生活に疲れた心を癒してくれる。

 少しお財布に響くが、ブーケにして部屋を彩るのも良いかもしれない。


「あれ……なんか良い匂い」


 花とは別の方向から流れてきた芳しい香りに思わず声を発してしまうと、フラワーショップのお姉さんがふわりと微笑む。

「わかります? これ、香水なんですよ」

「すごくいい香りですね。どこで売ってるんですか?」

「それがもう売っていなくて、原料になる花の育て方が難しいみたいで」

「そうなんですかぁ、残念」


 落ち込んだ様子で言ってしまうと、お姉さんも静かに目を伏せて呟いた。


「ええ、ほんと残念」

 お姉さんが踏み切りの方を見て寂しそうな顔をしたのでそちらを見る。

「あるべき場所にあるのが一番いいのに」

 そこには何もなかった。


 可愛らしいブーケを見繕ってもらいご機嫌で家に帰る途中、ふわりと良い香りが鼻孔をくすぐる。

 そこには鮮やかに紅く咲く花が一輪ぽつりと佇んでいた。

「わぁ、綺麗な花」

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死、香る花 秋月流弥 @akidukiryuya

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