呼び込むのは

秋月流弥

呼び込むのは

「……これ、足跡でしょうか?」

 牧野智子まきのともこは隣で新聞を読む同じ病室の倉田さんに訊ねた。

 赤い絵の具がべったりとリノリウムの床に付着したような足跡。

 それがいくつも智子のベッドの周りの床に散らばっている。赤い色をしているせいか気味が悪い。

 同じ感想を求めて隣のベッドにいる倉田さんに聞いてみたが、彼女から同意の意見は貰えなかった。

「え、 足跡? どこにも見えないですけど」

 不思議なことに赤い足跡は倉田さんには認識されなかった。

 彼女がからかっているのかと思い、智子は食事を配膳しにきた看護師にも同じ質問をしたが、看護師も倉田さんと同じ返答だった。

「自分の足跡じゃないですか?」

 倉田さんはそう言ってきたけれど、智子は赤いペンキなど使った覚えはない。

 ただ、得体の知れない足跡が不気味だった。


 初老の医師から告げられた入院期間はあまりにも長いものだった。

 全治三ヶ月。

 仕事先で右足を骨折した智子は救急車で搬送され余儀なく入院をさせられる。

 病院での生活は退屈に過ぎる。

 読書やテレビを見る生活は一週間で飽きがきた。唯一の楽しみの病院食も一ヶ月を過ぎればメニューのレパートリーもローテーションの繰り返しで新鮮味がない。いつもの日常が恋しい。


 そんな退屈を壊すように足跡事件は起こった。

 この赤い足跡、奇妙なことに、日が経つ程に足跡の数が増えているのだ。

 しかも最近はキーキーと甲高い音まで聞こえるようになって耳から離れない。耳鳴りだろうか。


 今日も床にべったりと付着する痕跡を見て智子は辟易する。

「なにもこんなミステリー風味に起きないでほしい……」

 智子がため息を吐くと、隣の倉田さんが興味深そうに声をかけてくる。

「その足跡、本当に智子さんには見えるんですか? 気のせいとかじゃなくて?」

「霊感なんてないはずなんだけどね」

「なんか、職業病とかであるじゃないですか。看護師さんたちがナースコールの音が ずっと耳から離れないって。音に関しては智子さんもお仕事で金属音とかの聞きすぎで耳からそれが離れないとか」

「建設現場の金属音がってこと?」

「意外ですよね。智子さん華奢なのに建設の仕事してるなんて」

「倉田さんも華奢じゃないですか」

 彼女の包帯が巻かれた左手首の細さを見て言う。

 そこから少し足跡事件から話がそれていつの間にか倉田さん自身の話に話題が移行されていた。

 終わりが見えない彼女のトークに頷きながらも智子は退屈しのぎに窓の外の景色を見ようとした。

 あ。また変わってる。

 窓際には花瓶が飾られていて、その中に生けられた花の種類が変わっていた。

「いったい誰が変えているんだろう」

 自分には見舞いに来てくれる人物など見当たらない。だからこの花瓶を見るたびに不思議な気持ちになっていた。


***


 キー、キー!

 甲高い音が夜中の病室に響き渡る。

 いや、響いているのは智子の鼓膜にだけか。

 耳障りな高音は日に日に大きくなる。智子は夜も安眠出来ないでいた。

 夜の間も爛々と目を光らせ天井の汚れをずっと見つめている。こんな無意味なことなどしてないで快適な眠りの世界に飛び込みたい。

 しかし、音は鳴り止んでくれない。それどころかキーキーという音がより自分に近づいてきているような気がする。

「一体なんなのよ……ひっ」

 姿勢を変えようと起き上がるとベッドの下の床が目に入った。

 そこには血のように真っ赤な足跡がいくつも重なるようにベッドの脇で止まっていた。

 まるでそこで眠る智子を見下ろすかのように。

 智子は誰かわからない視線を感じとっさに身構えた。嫌な汗が吹き出る。

 結局その夜も一睡も出来ず朝日を迎えた。


 ぼーっとした頭で昨夜のことを考える。

 どんどん近づいてくる足跡と甲高い雑音。

 雑音に関しては以前どこかで聞いたことがある。

 高くて不愉快な音。建設現場での機械音とは違う。

 じゃあ、あの音は何の音?

 智子が覚醒しきらない頭で考えていると、

「智ちゃん」

 すぐ横から声が聞こえてきた。

「……! モモちゃん。どうしたの?」

 ベッドのすぐ隣に立っていたのは隣の病室に入院している雛野モモだった。

 モモはこの病棟患者の最年少で今年の四月で小学一年生になるという。

 幼い黒目がちの瞳を光らせ腕の中に抱え込んでいた物を智子の備え付けの机にどかっと置く。

 モモは興奮したように言った。

「折り紙、教えて」


「へー、智子さん器用だね」

「そうですか?」

 隣のベッドから倉田さんが感心したように智子の折った作品たちを眺めている。鶴に花駒、奴さんと様々な作品が出来上がった。

「なにか習っていたの?」

「いえ、前の職業が幼稚園の先生で少しかじってたくらいで……」

「 へぇ、建設業の前は先生かー。人生経験豊富なんだね」

 倉田さんが相槌をうつ。モモはご機嫌で完成した代物に夢中だ。

「智ちゃんが先生だったら毎日幼稚園が楽しいのに!」

 嬉しいことを言ってくれる。

「私もモモちゃんみたいな子が生徒だったらよかったなぁ」

 そんなほのぼのとしたやり取りをして智子は幼稚園教諭時代のある生徒のことを思い出した。

(琴乃さんも良い子だったなぁ)


 佐伯琴乃さえきことの

 唯一智子の言うことを聞いてくれた生徒。やんちゃで指示を守らない生徒が多い中、琴乃だけはちゃんと大人しく智子の言うことを守ってくれた。

 自己主張も控えめでクラスでも存在感のない子だったけれど、智子にとっては一番可愛い教え子だった。

 生徒がみんな、琴乃や桃のような子だったらよかったのに。

 そう思いながら折り紙を折っているモモの姿を見ると、智子はあることに気づいてぎょっとした。

 智子の背中からは冷や汗が垂れる。


 各々に満足し解散をするともう夜になっていた。

 智子は眠れない夜が訪れたことの憂鬱感も吹き飛ばして今日の出来事を振り返っていた。

 ベッドの隣の足跡。

 モモが立っていることによってわかった。

 あれは子供の足跡だ。モモとそう変わらない足のサイズ。幼稚園児くらいだろう。

 幼稚園児というフレーズを頭に浮かべて智子は凍りついた。

 もしかして、あの耳障りな音は……。


「せんせい」


 キーキーと甲高い音。

 まだ幼い高い「声」だ。

 ベッドの脇。

 恐怖で硬直した首を捻る。

 そこには幼稚園の教え子たちが血だらけの姿でこちらをじとっと見ていた。


***


『幼稚園遠足でバス事故・十二名死亡』

 そんな記事が新聞の一面に大きく綴られていた。

 忘れもしない。

 幼稚園教諭をしていた頃、この事故をきっかけに智子は教職を辞めることになった。


「……え? 熱が出た?」

 そうなのー、と鼻の詰まった声で電話に答えるのは智子が副担人を勤める『花組』の担任・竹内だ。時々ずずっと鼻を啜る音も聞こえる。

 竹内は申し訳なさそうに智子に謝罪する。

『ごめんねぇ。今日は智子さんだけで花組の子たちの面倒みることになるけど、よろしくね』

「そんな……」

 いつもなら「はい」の一言で承諾する一件だが、今日だけは勘弁してほしかった。

 今日は幼稚園全クラスでの遠足。

 普段とは違う非日常のイベントなのだ。

『智子さんももう立派に一人前の仕事が出来るんだから大丈夫よぉ』

 そんな無責任なことを言う竹内だが、これでも問題クラスの園児たちをまとめる頼りになる担任だ。

 自分一人であの獰猛な園児たちを引率出来るか不安だった。

 智子が副担人をする花組は問題児の集まるクラスだ。幼児に問題児も何もあるかと思うかもしれないが、花組の生徒たちは群を抜けて聞き分けの悪い子が多かった。現に智子という副担人の教師がついているのもこの花組だけだった。

 遠足バスは年長・年中・年少と三学年三クラスずつの計九つという大所帯で遠方の動 物園まで行くコースだ。

 運転手に挨拶もなしにギャーギャーと早速騒ぎ始める花組の生徒たちを見て智子は不安しかなかった。

「こら! みんな大人しく乗って」

 バスが出発して数十分間、園児たちは好き放題に場所を離れたりふざけたり収拾がつかなくなっていた。

 一人を元の席に座らせれば目を離した隙に他の一人が遠くの友達の席へ移動する。

 たったの十二人。

 数だけで言えば少ない生徒数だがそれでも、とても智子一人では手に終えなかった。


 事態が急変したのはそれからすぐ数分後。

 動物園の近くのトンネルでのことだった。

 一人の生徒が勝手に運転席の方へ行ってしまい運転手の帽子を取りあげたのだ。

「こら! やめなさいッ!!」

 智子は今まで出したことないくらい大きな声で怒鳴った。怒鳴られた生徒はびっくりした後慌てて帽子を運転手の頭に戻した。だがそれがよくなかった。

 タイミングが最悪だった。

 ただでさえトンネルで視界が暗かったのと同時に戻された帽子が目を覆ってしまい、運転手のハンドルが乱れた。

 バスは激しく揺れ、物凄い勢いでトンネルの壁に衝突した。


 この事故は十四名中十二名の死者を出し、智子は園児たちの保護者から怒濤の叱責を受けることとなった。


***


「せんせい……痛いよぉ」

「たすけて、せんせい」

 血だらけの教え子たちは寝ている智子をベッドから突き落とす。

 血がべっとりと付いた手で智子の腕を引っ張る。

 なにこれなにこれ!

 智子は恐怖で混乱していた。

 これは夢か?

 この子たちはバス事故で亡くなったはず。生きて病院へ来るなんてことはあり得ない。

 じゃあ、この子たちは幽霊?

 信じられない出来事に体が震える。

 血まみれになった生徒たちは爪が食い込む程に智子の腕を強く掴みどこかへ連れて行こうと智子を引っ張って行く。

「せんせいも僕たちのところへおいでよ」

「いっしょにあっちの世界へいこう」

 いつの間にか廊下へ引っ張り出されていた。

 真っ暗な長廊下はいつに増してどす黒く闇に染まっており禍禍しく、その出口のように一つの扉が開いていた。この病棟では見たことのない扉だった。

 智子は直感でわかる。あの扉を潜ってはいけない。

 あの扉はあの世への入り口だ。

「離して!」

 智子は必死に叫び、扉へ連れてく亡霊たちを引き剥がそうとした。

 しかし亡霊たちの力は恐ろしい程に強く智子の必死の抵抗は敵わない。

「どうして僕たちは死んだのに、せんせいは生きてるの?」

「どうして私たちは死ななきゃいけないの?」


 どうして。

 智子だってずっと考えていた。


 生徒たちの親に毎日責められ「子供を返せ」と叫ばれ、叱責される日々を繰り返し、こんな自分がどうして生き残ってしまったのか苛まれる毎日だった。

 自分が死ねばよかった。そう思わなかった日なんてない。

 挙げ句の果て自分の教え子たちに地獄へ連れて行かれる。それが自分への報いなのか。

 智子は抵抗するのを止め、静かに目を閉じた。

 掴まれた右腕は引っ張られ、体がどんどん扉の方へ引き込まれていった。


 その時ーー。


 反対側の腕から引力を感じた。

 亡霊たちのような力強さはなく、ただそっと引っ張るくらいの優しい力。

 智子は新たに逆方向に加わった力の方を見た。

 そこには、涙を流しながら智子の腕を掴む一人の看護師がいた。

「先生」

 その声はどこかで聞いたことのある懐かしい声だった。


***


 自分がどうしてあのバス事故から生き残ったのかわからなかった。

 大人しく地味な自分は花組のクラスでも浮いていて、暗いヤツなんて言われて惨めだった。

 いてもいなくても同じ存在。

 そんな自分だからあの事故でも真っ先に死んじゃって、それから死亡したことも誰にも気づかれない、そんな存在だと客観的に認識していた。

『幼稚園遠足でバス事故・十二名死亡』

 新聞の一面が当時のバス事故について綴られていた。

『事故で死亡したのは運転手一名と幼稚園の生徒十一名。引率の教師と生徒一名が奇跡的に救出された』

 新聞記事に煽られ様々なメディアから不躾な質問を幾つも投げかけられた。


『たった一人の生き残りの生徒』として。


***


「あの時先生が助けてくれたお蔭で、私はバス事故から助かったんです」

 青空が広がる昼下がり。

 看護師の琴乃が花瓶の花を取り替えながらベッドに横たわる智子に話しかけた。

「どうして私だけ……最初はそう思いました。でも、先生は咄嗟とはいえ私を守ってくれた。おかげで私は助けられた命でたくさんの命を助けています。繋がっているんです」

 だから、どうか自分の命を粗末にしないで。

 か細い声で琴乃は言った。

 この閉鎖病棟に入院してから十数年が経つ。

 智子はバス事故の件で幼稚園教諭の仕事を辞め、子供と一切関わらないような建築業に就いた。力仕事だったが何か体を無理にでも動かしていないと責任で押し潰されそうだった。

 それでもその責任からは逃げ切れず、智子はノイローゼ状態になってしまい、事務所のオフィスの三階から飛び降りた。

 全治三ヶ月。

 運良く命は助かったが危うい精神状態の中、いつまた自殺を図るかわからない智子はそのまま閉鎖病棟へ入院することを余儀なく決断された。

 琴乃は亡くなった生徒の親づたいからその事を聞き、自分が看護師になることを決めたという。

「それなら会った最初に言ってくれてもいいのに」

 すっかり大人になってしまって誰だかわからなかったわ。

 智子が言うと、琴乃は困ったように微笑んだ。

「当時の関係者に会ってしまうと先生は混乱してしまうと思ったんです」

 かつての教え子たちの亡霊に連れてかれそうになったあの日、智子は初めていつも病室に訪れてくれる看護師が琴乃だということを知った。


 琴乃の話によると、智子は夜中の病棟の廊下で一人で叫んでいたらしい。

 きっと今まで抱えていた責任が亡霊という幻惑となって智子の前に現れたのだろう。

 本当の幽霊ではなかったのだ。


 ただ考えてしまう。

 もし、あのまま教え子の亡霊たちに連れて行かれたら自分はどうなっていたのだろう、と。


 今こうやって琴乃と話しているのはもしかしたら奇跡かもしれない。

 だから自分は、琴乃が助けてくれたこの体をもう粗末に捨てることは出来ないのだ。

 いくつもの奇跡に支えられ自分はこの世界で息をしている。

 智子は意味もなく思いっきり深呼吸をした。

 窓からは爽やかな風が流れてきて、花瓶に飾ってある花がそよそよと揺らめいた。

 足跡はもうなくなっていた。

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呼び込むのは 秋月流弥 @akidukiryuya

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