三  養生主

第19話 養生主 1

吾生也有涯,而知也无涯。以有涯隨无涯,殆已;已而為知者,殆而已矣。為善無近名,為惡無近刑。緣督以為經,可以保身,可以全生,可以養親,可以盡年。


 人間の生命には限りがあるが、知の働きには限りがない。つまり知の働きとは元々人間の限界をいくらでも突破しうるものであるから、そんなものをいつまでも転がし続ければ、そこに安らぎはない。あるがままの状態を受け入れ、過ごすことで、初めてやすらかで充実した生涯を全うできる。

 ……これはあれですね、荘子、一回考えに考えるだけ考えてパンクしてますね。元儒者だったのかもしれない、という説もあるし、そこはまぁ不自然でもない。孔子への言及を思えば、儒者として考えに考え抜いたあげく「駄目だ、この方向性で考えていくと心が死ぬ」って思ったのかもしれない。



庖丁為文惠君解牛,手之所觸,肩之所倚,足之所履,膝之所踦,砉然嚮然,奏刀騞然,莫不中音。合於桑林之舞,乃中經首之會。

文惠君曰:「嘻,善哉!技蓋至此乎?」

庖丁釋刀對曰:「臣之所好者,道也,進乎技矣。始臣之解牛之時,所見无非全牛者。三年之後,未嘗見全牛也。方今之時,臣以神遇而不以目視,官知止而神欲行。依乎天理,批大郤,導大窾,因其固然。技經肯綮之未嘗,而況大軱乎?良庖歲更刀,割也;族庖月更刀,折也。今臣之刀十九年矣,所解數千牛矣,而刀刃若新發於硎。彼節者有間,而刀刃者无厚;以无厚入有間,恢恢乎其於遊刃必有餘地矣,是以十九年而刀刃若新發於硎。雖然,每至於族,吾見其難為,怵然為戒,視為止,行為遲。動刀甚微,謋然以解,如土委地。提刀而立,為之四顧,為之躊躇滿志,善刀而藏之。」

文惠君曰:「善哉!吾聞庖丁之言,得養生焉。」


 魏の恵文王の元に現れた名料理人、包丁。彼に牛をさばかせると実にするすると、美しく解体され、しかもそれでいて刃こぼれ一つ起こさない。恵文王が感動して「そ、それはいったいいかなる業なのだ!」と聞けば、「業というか、もちろん初めのうちは業として意識もしてたんですが、牛を見てるうちに外形が消え失せ、骨や筋肉の筋道が見えるようになってきたんです。更に解体していくうち、もう感覚に頼ることもなくなりました。そこにある道筋に従う、みたいな感じです。もちろんそんな中でもやや道筋が見えづらい箇所もあります。そういう箇所では確かに緊張もしますが、それでも集中を続けると、やがてストッと肉が落ちる。その瞬間がなんとも言えず気持ちいいのです」

 へ変態だー!



 包丁のこのエピソードは、きっと実際にあったことなのだろう。しかし包丁の境地が本当にこういうものだったかどうかを伺うことは出来ない。それは、外面的には斉物論にあった昭文の鼓琴、師曠の枝策、惠子の據梧みたいなもの、つまり余人にとっては「到底真似しようのない、とんでもない業」としか映らない。

 となると荘子にとっては、「あっけどわかる、自分もこんな感じだ、あるがまま、なすがままに任せるって大切だよね」と同意できた話なのでしょう。


 逍遙遊が「世界がとにかくトンデモネーもんだ」と示し、次の斉物論が「そんなトンデモネーもんを人間なんぞの尺度で測ろうとしてどーする、無駄だ無駄だ」と語り、そしてこの養生主で「そんなトンデモネーもんの中にぷかぷか生きる俺たちはどう過ごすべきか」が語られるか、って感じなのでしょうかね。


 そうなるとここまでの編名解題は

逍遙遊:

 無限遠の世界にぷかぷかと遊ぶ。

斉物論:

 全てのものはこの無限の世界の中でぷかぷか浮かぶものでしかなく、究極的には斉しい一要素でしかない。

養生主:

 そんな世界の中でどう真宰、つまり“自分の主”を健やかに養うか」となるのかな。

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