Cookie in the Aquarium

桂花陳酒

Cookie in the Aquarium

 私の人生というのは、なんだか乾いている。水分が全くと言っていいほど無い。ぱさぱさしている。梅雨の湿気ですら私を潤すことはできない。

 別にそれを嫌だと思ったことはない。けれど、乾いた私はクッキーみたいに脆くて、今にもさらさらと音を立てて崩れ落ちてしまいそうだ。

 そんな私の日常はある日突然変わった。具体的には、彼女に出会ってからだった。彼女は、いつも一人で教室にいた。誰も寄せ付けないようなオーラを放っていて、友達なんて一人もいなかった。

 そのくせ、誰よりも綺麗で、頭が良くて、運動神経だって抜群だった。神様は不公平だとつくづく思う。

 どうして彼女みたいな人間がこの世にいるんだろうと、何度も思った。でも、それは私には関係のないことだと思っていた。どうせ彼女とは関わることの無い人間なのだから、そう思っていた。

 それなのに、気が付いたら私は彼女の隣に座っていることが多かった。私が話しかけたわけじゃない。彼女が勝手に私の隣の席に座ったのだ。最初は戸惑ったが、慣れると意外と悪くなかった。彼女はよく喋る人だった。話題が豊富で、会話していて退屈しなかった。

 ただ、彼女の話は少しだけ難しくて、ついていけないこともあった。それでも、不思議と彼女と話すことは苦ではなかった。むしろ楽しかった。

 ある日、彼女は私のことを好きだと言った。

 当然、嬉しかった。けれども、その時はまだ、本当に彼女の全てを知らなかったのだと、今になって思う。

 彼女の独占欲が人並み以上だということをその時の私は知らなかった。

 彼女が私に執着し始めたのは、それからすぐのことだったと思う。彼女は私が彼女の知らないところで誰かと話していたりすると不機嫌になっていた。

 どうして機嫌が悪いのか聞いてみたことがある。そしたら彼女は「嫉妬してるの」と言っていた。その時に気がついた。彼女は私という存在のことが好きなのではなく、ただ単に、愛する対象を見つけて、それを束縛したいだけなのかもしれないと思った。

 彼女の束縛はそれだけではなかった。彼女は次第に私に要求することが多くなっていった。例えば、メールにはすぐに返信するように言われた。他にも色々あったが、大体こんな感じだ。

 普通の人間なら、うんざりしてしまうかもしれない。けれど、その時の私は違った。彼女に束縛される状況を無意識に愉しんでいた。

 私を縛る時の彼女は、じっとりとしている。それが、私の乾ききった人生を潤してくれると思った。 

 だから、私は彼女を拒まなかった。彼女に縛られる度、彼女に魅了されていった。

✳︎✳︎✳︎

「ねぇ」

 電話越しの声を聞いて、思わず口元が緩む。

「なぁに?」

「私と別れて帰った後、どこにも寄らずにちゃんと帰った?」

「もちろんだよ。 寄り道なんかしないって」

「本当? 嘘ついたら許さないよ?」

「ほんとうほんとう」

「……分かったわ。信じるね」

 あぁ、やっぱり愉しい。

 彼女の声を聞くだけで心が満たされていく。もっと聞いていたくなる。もっともっと私を求めて欲しい。そして、ずっと縛りつけて欲しい。

「他の誰かと話しちゃダメだからね?」

「分かってるよ」

 そして、彼女だって私が何よりも従順であることを分かっているはずだ。

 要は確認作業である。告白みたいに愛を口に出して確かめ合っているだけだ。

 3大欲求の中には性欲とあるけど、あれは間違いで、それは本当は愛欲という名前なんじゃないかと思う。何かを愛したい、愛情を受け止めて欲しいという根源的な欲が人間には備わっているのだと思う。受け止めてくれさえすれば、誰でもいいんだと思う。

 私の場合は、相手に従う素振りを見せることが愛着の表明なのだと自己分析してみる。

「もう切るね。また明日学校で会おうね」

「うん。お休みなさい」

 通話を切ると、途端に静寂が訪れる。自分の部屋なのに、妙に落ち着かない。ベッドの上でごろんと寝転んで天井を見上げる。

 私は彼女のことが好きなんだろうか。いや、どちらかと言えば“依存”と言った方が正しいかもしれない。彼女の言うことに従っていれば私は満たされる。私は潤う。そうすることでしか、私は乾いた人生に水を注ぐことはできない。

 そんなことを考えながら眠った。

✳︎✳︎✳︎

「ねぇ、私達、もう次の段階へ進んでも良いと思うの」

 彼女は唐突にそう言った。

 それはあまりに突然過ぎて理解するのに時間がかかった。

 彼女が何を言っているのか分からなかった。いや、分かりたくなかった。だって、それはつまり、そういうことなんだろう。

「どうしたの?そんな顔して」

 彼女が首を傾げる。いつも通りの無表情でこちらを見る。その瞳からは感情を読み取ることができない。

「いや、なんでもない。それで、どういうこと?」

「もう付き合って二ヶ月経ったでしょ?そろそろいいかなって思って」

 彼女が淡々と続ける。まるで事務連絡でもしているかのような調子だった。

「そう……」

「今日の放課後、私の家に来てくれる?」

 彼女は有無を言わせないような口調で言った。

「良いよ」

 私には断る理由などあるはずもない。

「じゃあ、また放課後に」

 これから起こることに想像を巡らせると、その日の授業は全く頭に入ってこなかった。

 午後の授業が全て終わった後、私は素早く帰宅の準備をして、席を立ち、彼女の席へ向かう。その間に私に構う人はいない。彼女は私が近づくと、鞄を持って立ち上がった。そのまま二人で教室を出る。

 その間、会話らしい会話は無かった。

 廊下を歩いている間も、下校中も終始無言のままだ。けれども、不思議と居心地の悪さはなかった。

彼女についていく形で歩いていき、学校から出る。

 そこからさらにしばらく歩いたところで、彼女の足が止まった。そこは閑静な住宅街の一角にあるマンションの前だった。

「ここが私の家」

 彼女は短く呟くと、エントランスを抜けてエレベーターに乗り込む。私もそれに続くようにして乗り込んだ。エレベーターの中で二人きりになると、彼女はおもむろに口を開いた。

「今日は誰もいないから安心してね」

「え?」

 思わず聞き返す。彼女はそれには何も答えず、代わりに満足げに微笑んだ。エレベーターが止まると、彼女はさっさと歩き出した。私はその後に続くように歩く。部屋に着くまでの間、私たちの間に言葉はない。

 私は“次の段階”と言う言葉について考えていた。普通に考えれば、キスくらいだろうか。

 部屋に入ると、彼女は私に向かって手招きをした。

 それに誘われるようにして、彼女の近くまで行く。

「おいで」

 言われるがままに彼女の胸に飛び込む。

「やっと捕まえた」

 彼女は嬉しそうな声で囁きながら、私の頭を撫でる。

「ずっとこうしたかった。こんな風に独り占めしたかった。

 彼女の吐息が耳にかかる。まるで、巣に誘い込まれた獲物のような気分だ。

「好きだよ」

 彼女の唇が触れる。柔らかく湿った感触。舌先が絡み合う。

 彼女の手が制服の下に潜り込んでくる。背筋にぞわっとした感覚が走る。

 身体のラインを確かめるようにゆっくりと這い回る。指先一つで操られるマリオネットのように私はされるがままになっている。

「ねぇ、このままベッドに連れて行ってもいい?」

 彼女は少しだけ荒くなった呼吸の合間にそう言った。

「うん」

 私が小さく答えると、彼女は私の手を掴んで寝室へと引っ張っていく。そして、彼女に押し倒されるような形でベッドの上に倒れこんだ。

こうなるのは予想外だった。けれど、悪い気はしない。むしろ、待ち望んでいた展開と言っていい。

 彼女が上に覆い被さってくる。

 彼女の瞳の奥に宿っている熱を感じ取る。それは紛れもなく情欲の炎だった。

 彼女が私の首元に顔を埋める。熱い息遣いを感じる。

 それから、鎖骨の辺りに鋭い痛みを感じた。彼女は私を逃さないというように強く抱きしめてくる。

「大好き」

 彼女は何度もそう繰り返しながら跡を私に刻みつけていく。その度に、私は彼女に支配されていく。

 彼女に愛される中で、私は私の中で、欠けていたものが再生していく感覚を覚えた。

 乾ききった私を濡らしたのは、彼女が初めてだった。

 彼女には愛する相手が必要で、私には愛してくれる相手が必要だ。だから、私たちはこうするしかないんだと思う。

 そこに、間違いと言う言葉はなくて、あるのはただただ必然だけだった。

✳︎✳︎✳︎

 彼女と出会って二年が経った。もう既に学校は卒業していて、今は大学に通いながら同棲している。

 彼女に抱かれたあの日から私たちの関係は変わっていない。

 彼女から愛情を享受する日々。彼女はそれを惜しみなく注いでくれる。

 それがとても心地良くて、私はもう抜け出せないところまで来ている。

 彼女の存在は、私にとって都合が良すぎる。まるで、神様がくれた贈り物みたいだ。

 ふと、そんなことを考えてしまう。

 彼女は私を愛してくれる。私はそれを受け入れるだけで良い。無尽蔵に湧き出る富を食い潰しているみたいだ。

 その幸福の絶頂を疑った時、初めて彼女が異常であることに気がついた。

 だが、気がついたところで何かが変わるわけでもなかった。彼女の異常な愛情を受け入れる私もまた異常であり、私と彼女だけの世界の中ではそれが正常だからだ。

 私達のような異常者を外の世界は受け入れない。だから、私達は私達で独自の世界を築くしかなかった。

 最初は、私の欠けたものを埋めてくれるなら、誰から注がれる愛情でも良いと思っていた。けれど、今は違う。彼女から注がれるものでなくては駄目な気がした。

 私は彼女の胸に顔をうずめるようにして抱きついた。

「どうしたの?今日は珍しく甘えたさんだね」

 彼女が優しく髪を撫でてくれる。

「ちょっとね」

 私はそれだけ言うと、何も言わずに目を閉じた。

「嬉しいな。こんな風に甘えてくれるなんて」

 意識が段々と混濁していく。周りの雑音は取り除かれて彼女の声だけが聞こえる。

「もう寝ちゃった? 」

「……」

「私ね。最初に__を見た時、直感したんだよ。この人は絶対に私を裏切らないって。私の愛情を全部受け止めて、咀嚼して、飲み込んでくれるって分かった。それで、思ったんだ。この人を誰にも渡さずに、私の愛情だけを与えたいなって」

「……」

「本当に、やっと手に入れたんだもん。絶対離してあげないよ」

 彼女の言葉を聞きながら、私は眠りに落ちていった。深い深い水底へと溺れていくような感覚だった。

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