日常は非日常を呼ぶ

荒野 夏

第一章 日常

 「お前の写真は綺麗だけど深みが無いよ。今しか見てないみたいだ。」

教授はいつも同じことを言う。

「どんなものにも過去がある。その歴史や背景を想像するんだ。そして、どんなものにも未来がある。お前が切り取った今は、過去の上に成り立ち、未来に繋がっているんだよ。」


 今日も授業で言われた言葉を頭の中で反芻しながら家に帰る。俺が大学で写真を勉強し始めてから半年以上が経った。教授の言うことは言葉の意味は分かるけれど、俺の心には入ってこない。いつも他人事のように感じてしまう。それが写真にも現れているのだろう。教授は授業の度にこの話をするから、俺は一言一句すっかり覚えてしまっていた。


 アパートに着くと、金木犀の甘い香りが漂ってくる。俺は大学から二駅離れたワンルームのアパートで、一人暮らしをしている。金木犀はアパートの階段横に植わっていて、俺は階段を使うたびに、写真の中に匂いも一緒に閉じ込められたらいいのにと思っている。ただの風景写真から雨の匂いがすればなんだか神秘的な感じがするし、焼肉の写真から焼肉の匂いがしたら、それだけでご飯が進む。そんなことを考えていたら腹が減ってきた。鍵を開けて部屋に入り時計を見ると、十七時を回ったところだった。今日は一限から授業があったから急いで家を出たので、部屋には朝脱いだスウェットが転がっている。俺はスウェットを見なかったことにして壁際に追いやりながら、ベッドに腰掛けた。一息つこうと思ったその時、スマホが鳴った。

――プルルルル

「もしもし」

「進二、元気?」

「元気だよ。母さん毎週かけてこなくても、俺大丈夫だから。」

「けど、心配で。ちゃんとご飯食べてる?」

「食べてるよ。じいちゃんばあちゃんは変わりない?」

「おじいちゃん、一昨日腰やっちゃったの。」

「また、無茶して重いもの持ったりしたんだろ。」

「そうなのよ、だから年末年始帰ってきたとき、代わりに運んでくれる?」

「分かったよ。じゃあ、切るね。」

「お願いね。またかけるわ。」


 俺の母はこうやって毎週水曜日に電話をかけてくる。その度にもうかけてこなくて良いとは言っているけれど、一向にやめる気配がないので、最近の俺は諦めつつあった。高校時代の俺はクラスに馴染めず行ったり行かなかったりだった。だから母が心配する気持ちも分かるが、それにしたって過保護すぎるだろうと思う。心配するあまり何でもかんでも把握しておこうとするのは母の悪い癖だ。

「きっと知らない方が幸せなこともあるよなぁ」

そう独り言を言いながら、煙草とライターを手に俺はベランダに出た。空はちょうど赤く染まりはじめている。十月にもなると風が涼しくて、Tシャツ一枚では少し肌寒い。

――もう、秋だなぁ。

いつもよりも赤く燃えるような夕日が眩しくて、俺は夕日に背を向けてベランダの柵にもたれかかった。箱から煙草を一本取り出す。煙草は滅多に吸わないが、母と電話をした日は時々吸いたくなるのだった。ふと窓の方を見ると、そこには冴えない顔をした俺が映っていて、俺はその俺と目が合った。その瞬間、突然フラッシュのような強い光が見えて、俺は咄嗟に目をつぶった。そのまま意識が朦朧とし始め、立っていられずにその場に座り込む。助けを求めたかったが、上手く声が出せなかった。何もできずに意識が遠のいていく中、風に漂う金木犀の香りが微かにした。

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