第7話【異世界少年と深夜のお茶会】
新人を歓迎する為のささやかなパーティーが開催され、豪華な食事をみんなで突き合って、どんちゃん騒いで飲み食いしたその日の夜。
魔法の世界に放り込まれた異世界人の少年に、再び悪夢が忍び寄る。
それは音もなく、意図すら感じさせない。その日を存分に楽しんだはずの少年を痛めつける、精神的な暴力。
――嗚呼、憎たらしい。
――年々、お前は兄貴に似てくるなぁ。
忌々しげに自分を見下ろす冷たい瞳。頬を殴られる衝撃。
崩れ落ちたところへ追い討ちをかけるように、何度も何度も胸や腹を蹴り飛ばす。ボールになったような気分だ。
息が吸えないほど暴力を振るわれて、密かな自慢だった長い髪の毛を掴まれて、押し倒されて、服を剥かれて。
――だから汚してやる。
――兄貴に似たお前を汚してやる。
――いい気味だ。
下卑た笑みを浮かべて痩せ細った自分の身体を撫でる手つきに怖気を感じ、それでも悲鳴を上げることも相手を拒絶することも許されない。
下手をすれば自分の命がない。殺されるのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。
だから我慢する。
声を押し殺して、叔父が好き勝手に自分の身体を暴いていくのをひたすら耐える。血が滲む唇を舐められ、脂ぎった手が肌を撫でようとも、悲鳴をただ飲み込んで時が過ぎ去るのを待った。
黙っていられるのが耐えられずに殴られて何度か演技もしたけれど、それでも死にたくないから我慢した。
――愛している。
――嗚呼、兄貴。愛してる。
組み敷く自分に何を見たのか、叔父は何度も泣いた。痣だらけで痩せ細った自分の身体を抱いて、歪んだ愛を抱く兄を想って泣いた。
彼の頭に手を伸ばし、ボサボサの髪を撫でてやる。
そうすれば痛いことも苦しいことも早く終わるし、相手も満足すると思ったから。
「――私も愛しているよ、×××」
叔父の名前を口にすれば、彼は歪な泣き笑いを見せて。
☆
「――――ッ!!」
悪夢を振り払うように飛び起きたショウは、ドクドクと脈打つ心臓を押さえる。額には脂汗が滲み、まるで全力疾走したかのように呼吸が早い。
薄暗い部屋にはベッドが4つほど並んでおり、ショウが寝ているのは長椅子だった。4つのベッドには先住民たちがそれぞれ眠っており、中には布団すら跳ね除けてベッドから転げ落ちん勢いの最悪な寝相を披露している者もいる。
最初は気を遣って誰かが長椅子で寝るか話し合っていて、ショウが自ら進言したのだ。元の世界ではまともに寝ることすら出来ず、安眠が保証されるのであればどこでもよかった。
それなのに。
「ふぅッ……ふッ……」
カタカタと震え始めた手を握りしめ、ショウは背中を丸める。
眠ることが怖い。あの悪夢が、再びショウを苦しめようとするから。
せっかく叔父夫婦の虐待から逃れられたと思ったのに、何故異世界までやってきて苦しまなければならないのか。
もう嫌だ、こんな悪夢に苦しむのは。
ショウだって安心して朝を迎えたいのに、どうしてそれを許してくれないのだろうか。そんな細やかな願いすら神様は聞き届けてくれないのか。
「助けて……ッ」
祈るように呟けば、その声へ応じるようにポンと誰かの手がショウの頭に乗せられた。
「眠れねえか?」
降ってきたのは、聞き覚えのある優しい魔女の声。
顔を上げると、暗闇でもなお輝きを失わない銀髪がまず目に飛び込んでくる。次いで炯々と光る色鮮やかな青の双眸、そして真っ黒な部屋着から伸びる華奢な手足。
黒い長手袋に覆われた冷たい手のひらでショウの頭を撫で、銀髪の魔女――ユフィーリアは言う。
「怖い夢でも見たんなら、起こせばいいだろ」
「……出来ない」
ショウは否定する。
他人の安眠を妨害できる度胸など、持ち合わせていなかった。
だって、彼らはとても優しいから。迷惑をかけたくない、と心の底から思っていた。
ユフィーリアは「そっか」と穏やかな声で言うと、
「ほら、おいでショウ坊」
ポンポンと軽く2度ほど頭を叩いてから、ユフィーリアはショウに手招きしてくる。
手招きされるがままに部屋を出れば、ちょっと散らかった様子の居間がショウとユフィーリアを迎え入れる。
料理で使われる大皿がひっくり返り、空っぽの酒瓶がそこかしこに転がっている。まるで部屋の中に嵐がやってきたかのような荒れ模様だったが、ユフィーリアが魔法を使ってあっという間に片付けてしまう。
使用済みの皿は流し台に突っ込み、空っぽの酒瓶はひとまとめにして部屋の隅へ。ピンと立てた銀髪の魔女の指が振られれば、彼女の意のままに荒れ果てた部屋が綺麗になっていく。
居間の片付けが終わると、ユフィーリアはショウへ振り返る。
「ショウ坊。お前、紅茶は好きか?」
「……嗜好品の類はあまり飲ませて貰えなかった」
高価な紅茶などお前には勿体ない、という叔父の声が脳裏をよぎる。
ユフィーリアは戸棚から紅茶用のカップと陶器製の薬缶を取り出し、食卓に並べる。魔法で生み出された水を陶器製のポットへ投入し、さらに魔法を使って温度を操作すれば、すぐに紅茶用のお湯が作られた。
手際良く紅茶の準備をしていくユフィーリアは、次いで紅茶のカップに藍色の小さな立方体を入れる。角砂糖にも似たそれはコロンと乾いた音を立ててカップの中を転がり、陶器製の薬缶からお湯を注がれて溶け出す。
指先の動きだけで椅子に座るように促され、ショウは何も言わずに大人しく椅子へ腰掛ける。差し出された紅茶のカップを受け取れば、小さなカップの中に広がる光景に驚いた。
「うわあ……」
花柄があしらわれたカップの中には、満天の夜空が広がっていた。
紺碧の空に散りばめられた白銀の星屑。元の世界でもなかなかお目にかかれない美しい星空が、紅茶のカップの中を揺蕩っている。
これが本当に紅茶なのだろうか。だとしたら、一体どういう原料を使っているのか気になる。
「いつもは高いから開けねえんだけど、今日は不眠症の坊ちゃんがいるからな。特別だ」
ニヤリと笑ったユフィーリアが戸棚の奥から取り出したものは、小瓶に入った琥珀色の液体だった。
蜂蜜によく似た液体はキラキラと輝いていて、明かりのついていない部屋をぼんやりと照らす。この小瓶単体で明かりに活用できるのではないだろうか。
小瓶の液体を匙で掬い上げ、とろみのある琥珀色の液体をショウの紅茶カップに流し入れる。線を引くように流し込まれた液体は、カップの中で揺れる星空へさらなる変化を与えた。
「天の川……」
「
ユフィーリアも自分のカップに琥珀色の液体を流し入れると、星空の紅茶を啜る。
ショウも彼女に倣って、紅茶のカップを傾けた。
温度に注意して星空の紅茶を口に含めば、ふわりと花の香りが広がっていく。今までの悪夢の記憶が途端に薄れていき、ちょっと落ち着くことが出来た。
「どうだ?」
「美味しい」
「ソイツは良かったな」
ユフィーリアは小さく微笑むと、雪の結晶が刻まれた煙管を咥える。
嗜好品の類ではなく、冷気が溜まった彼女の身体から冷気を吸い上げる為に作られた貴重な煙管だ。それがなければ指先から徐々に彼女の身体は凍りついてしまう。
鼻孔を掠めるミントに似た紫煙の香りは、ショウの心に深く傷を残した虐待の記憶を消してくれるような気がする。煙草のような嫌悪感はなく、むしろ心地よさがあった。
「なあ、ショウ坊」
「?」
「これは提案なんだけどな」
ユフィーリアは咥えていた煙管をペン回しの要領でくるんと回し、
「お前と、叔父さんと叔母さんとの縁を切っちまうか」
「え――」
彼女の手には煙管ではなく、銀製の鋏が握られていた。
曇りも錆も見当たらない銀色の鋏は、2枚の刃を雪の結晶型の螺子が留めている。簡単に触れてはいけないような綺麗な鋏だ。
ショキンと鋏を鳴らすユフィーリアは、
「この鋏は髪も悪いものも切れる優れモンだからな、縁も簡単に切れるぞ」
「凄いな。この世界にはそんなものまであるのか」
「昔に拘った逸品でな。似たようなものも世の中にはあるけど、ここまでよく切れる鋏はねえ」
ほら、とユフィーリアが長手袋に包まれた指先を虚空に滑らせる。
そこにはショウの身体に巻きつく、悍ましいほどのどす黒い糸があった。
その糸の終わりは見えず、月明かりを落とす窓を突き破ってどこまでも伸びる。これが叔父夫婦との縁なのであれば、もはや呪いにも似た何かだった。
「ショウ坊」
机越しに手を伸ばしてくるユフィーリアは、やや冷たくなった指先でショウの頬を撫でる。
「アタシがお前を幸せにしてやる。だから、こんな悪い縁は元の世界に置いてこい。嫌なことは全部忘れて、面白おかしく毎日を過ごそうぜ」
「…………」
その力強い言葉は、どこまでも自信に満ち溢れていた。ショウも彼女の言葉であれば信じることが出来るような気がした。
ユフィーリアなら、絶対に幸せにしてくれる。彼女の言う通り、毎日を面白おかしく過ごすことが出来る。あの虐待の日々を忘れて、痛いことも苦しいことも怖いこともなかったことにして、この魔法の世界で新しい人生の始めるのも悪くはない。むしろ最善だ。
でも、
「大丈夫だ、ユフィーリア」
ショウは首を横に振り、縁の切断を辞退した。
「貴女の提案は魅力的だ。忘れてしまえば、俺はもう叔父さんと叔母さんの暴力に怯えていた日々を思い出さないで済む」
それでも、ショウが縁の切断を辞退したのは理由がある。
「この苦い記憶があるから、きっと貴女に出会えたのだろう。だから断たないでいい」
暴力を振るわれ、拭えぬ心的外傷を植え込まれて、それでもなおショウはこの苦い過去を消す方法を選ばなかった。
辛く痛いだけの日々の先に、この優しい魔女との出会いがあったのだ。それはまさに、神様がくれたご褒美か何かに違いない。
きっと、過去以上に苦しいことなどない。少なくとも、彼女の側では決して。
「それに、貴女が幸せにしてくれるのだろう? 苦い過去を消してしまったら、幸せがどういうものか実感できない」
「言うなァ、お前は」
ユフィーリアは声を押し殺して笑うと、鋏を1度だけ振って元の煙管の状態に戻した。雪の結晶が刻まれた煙管を咥えた彼女は、
「なら、もう少し面白い話でもするか」
「何の話をしてくれるんだ?」
「この前あった話なんだけどな、グローリアの奴が――」
深夜のお茶会はまだ続く。
ショウは、2度とあの悍ましい悪夢を見ない自信があった。
すぐ側には、世界で1番優しい魔女がいてくれる。彼女の存在があれば、もう恐れることなど何もない。
今まで起こしてきた悪戯の話を聞くショウは、楽しさのあまり時間を忘れて笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます