第3話【異世界少年とメイド服】
人生初のメイド服を着ることになってしまった。
「着替えはここね!!」
「はあ……」
ハルアに導かれて、ショウはとある部屋に足を踏み入れる。
そこは浴室だった。
綺麗に掃除された浴槽に身体を洗い流す為のシャワーが取り付けられ、さらに壁に備え付けられた棚には
一緒に浴室へ入ってきたハルアは、
「1人で脱げる!?」
「え、あ、はい。大丈夫だと……」
そう答えたショウは、自分の手に小さな壷が握られていることを思い出す。
着替える際に銀髪の魔女――ユフィーリアから渡された軟膏だ。これで火傷と身体につけられた痣を消せるらしい。
壷の蓋を開ければ、花の香りが鼻孔を掠めた。指先で白い液体をすくうと、素早く肌に馴染む。ベタベタとした嫌な感じはせず、むしろ塗った部分が滑らかになった気がした。
指先で壷から軟膏をすくい、試しに手のひらへ塗ってみる。
無数に刻まれた火傷の痕跡は、喫煙者である叔父がショウの手のひらを灰皿の代わりに使ったからだ。ほぼ毎日のように火傷を負わされ、手のひらの皮膚は修復できないぐらいにボロボロだった。
「あ――」
軟膏を塗った手のひらの皮膚が、見る間に再生していく。
数秒と置かずにボロボロの状態だった手のひらは、傷1つない綺麗なものへ変わった。化粧下地のように肌色の何かが塗られた訳ではなく、完璧に傷が治っていた。
凄い効果を持つ軟膏である。これがもし元の世界で流通すれば、爆発的に売れることだろう。
「手のひら治った!?」
「えぁ、あ、はい」
「見せて!!」
ハルアにせがまれて、ショウは自分の手のひらを見せる。
まだ片方しか塗っていないので、いい対比になることだろう。片方は綺麗さっぱり治っているが、もう片方はそれまでと同じくボロボロのままだ。
じっと手のひらの火傷を見つめてくるハルアは、何故か満足げに「うん!!」と頷いた。
「治ってるね!! 反対の手も塗れる!?」
「えと、見える範囲は大丈夫……です」
もう片方の手にも軟膏を塗れば、先程と同じく見る間に傷が治ってしまった。醜い火傷の痕はどこにもなく、ただ綺麗な手のひらだけが残る。
ショウは借りたメイド服を浴槽の縁に引っ掛け、詰襟の
ぷつ、ぷつと順調に釦を外していき、黒い詰襟を脱ぎ捨てる。その下に着込んでいた白い襯衣も脱ぐと、あまり見たくない素肌が晒される。
身体中に刻み込まれた青い痣。それが数え切れないほどショウの身体を支配していて、見ているだけで悪しき記憶が蘇る。
脳裏をよぎった叔父に殴られる瞬間とその痛みを思い出して吐き気を催すが、ポンと優しく肩を叩かれて正気を取り戻す。
「大丈夫?」
心配そうにショウの顔を覗き込むハルアは、小さな壷に入った軟膏を指ですくう。
「背中とか見ていい?」
「あ、はい……お願いします」
おそらく、背中にも虐待の痕跡は残されていることだろう。
ショウは
腹や胸に残された青痣に軟膏を塗れば、手のひらの火傷と同じようにショウの身体から消え去る。やはり何度見ても凄い効果だと思う。
「この軟膏、凄いですね」
「ユーリがこの前作ってたよ!! 勝手にどこかの教室を占拠して、大きな鍋いっぱいに!! 用務員室にはまだ残ってるけど、ほとんどは生徒を相手に高値で売り捌いてた!!」
「へ、へえ……」
ハルアも順調にショウの背中へ軟膏を塗りながら、
「ねえ!!」
「あ、はい」
「聞いちゃいけないんだろうけどさ!!」
ハルアはどこか真剣な口調で、
「どんな虐待だったの!?」
「え――」
「答えたくなかったら答えなくていいんだけど!! でもさ」
ハルアの指先が、ショウの背中を這い回る。
その背中に刻まれた虐待の痕跡を辿るように――あるいはそれらの傷跡が何なのか確かめるように。
「これ、多分殴られて出来た傷じゃないよ」
「ッ」
そう指摘を受けて、ショウは自分の口元を手で覆って迫り上がってくる胃液を我慢した。
脳裏によぎる悪しき記憶が、一時的に再生される。
這い回る叔父の手。粘ついた視線。夜の闇が部屋を支配する中で、眠るショウに覆い被さってきた叔父が言う。
――嗚呼、翔。
――お前はだんだん兄貴に似てきたなぁ。
耳にこびりつく、叔父の声が離れない。
「う、おえッ」
耐え切れなくなって、ショウは堪らず床に胃液を吐き出してしまった。
膝から崩れ落ち、床に吐瀉物をぶち撒けてしまう。碌なものを食べていないから吐き出すものは胃液だけだったが、それでも腹の中で蟠る気持ち悪さが拭い切れない。
身体を這い回る手の温度、肌を舐める舌の感触、熱の篭った視線。それらが瞼の向こうに焼き付いて離れない。
「はーッ、はーッ」
深呼吸をして脈打つ心臓を落ち着かせようと試みるが、滲み出る脂汗と身体の震えは誤魔化せない。目を閉じればあの時の叔父が顔を覗かせ、今も触られているような気になる。
寒い、耳鳴りがする。自分の感覚さえも曖昧になる。
今どこにいて、誰と何をして? これは夢か現実か、それさえも区別できなくなって。
「ショウちゃん!!」
「ぁ、え」
「ショウちゃん、オレの目を見て!!」
グイッと唐突に顔を上げられて、頰を押さえ込まれて固定される。
ショウの赤い瞳と、相手の蜂蜜を溶かしたかのような琥珀色の瞳がかち合った。とても綺麗な瞳だ。
真剣な表情のハルアはショウの頬を両手で包み込み、それから「ごめんね」と申し訳なさそうに謝罪してきた。
「聞いちゃいけなかったね。思い出させてごめんね」
「いえ……すみません、俺も床を汚しちゃって……」
「大丈夫だよ。こんなのはお掃除すれば綺麗になるから」
ハルアは快活な笑みを見せ、浴室の隅にある戸棚へ向かった。数枚の雑巾を取り出すと、手際良くショウがぶち撒けた吐瀉物の掃除をし始める。
上半身裸のまま冷たい浴室の床に座り込み、ショウは自分自身の姿を鏡で確認する。
軟膏を塗ったおかげで綺麗に青痣は治っているものの、背中の部分はまだいくつか傷跡のようなものが残っている。特に肩甲骨の辺りに刻まれた噛み跡と全体に散らばった鬱血痕が、その時に何をされたかを伝えてくる。
膝を抱えて小さく
「こんな汚れた俺に、生きている価値など……」
「え、汚れちゃった!? お風呂入る!?」
「え、あの」
見当違いな提案をしてくるハルアは、不思議そうに首を傾げて言う。
「汚れてないね!! ゲロで汚れちゃったのかと思った!!」
「いや、あの……見た目は汚れていないですけど」
「大丈夫だよ!!」
ハルアはショウをそっと抱きしめて、ポンポンと背中を叩いてきた。まるで泣きじゃくる子供をあやすかのように。
「ショウちゃんはね、汚れてないよ。オレよりもずっと綺麗だよ」
「え……?」
「オレもね、昔に嫌なことがたくさんあったよ。ショウちゃんのように毎日笑えてなかったんだよ」
でもね、とハルアはショウの顔を真っ直ぐに見つめて、
「ユーリが『全部忘れて、楽しいことをしようぜ』って誘ってくれたの。だから今は笑えてるし、楽しいことをしていくうちに昔も忘れちゃったよ」
彼の言葉はどこまでも優しく、温かいものだった。何も知らない異世界に放り込まれて、最初に手を差し伸べてくれた銀髪の魔女と同じように。
今も深く根付いてしまった虐待の恐怖は拭えないが、それも日が経つにつれて忘れることが出来るだろうか?
彼らと一緒に楽しいことをしていれば、いつか自分も笑える日が訪れるだろうか?
「ありがとうございます、あの、ハルさん」
「オレ何もしてないよ!!」
「励ましてくれたので、あの、さっきの言葉も嬉しかったです」
ハルアは「そっか!!」と快活な笑みを見せながら言い、
「あ、オレね。ハルって呼ばれてるけど、ハルアって名前なの!!」
「そうなんですね」
「それとね、オレにも敬語はいいよ!! 多分ね、年齢が近いでしょ!!」
「そうなん――そうなのか? ハルさんは何歳だ?」
「んとね、18歳って設定!!」
「設定」
「ずっと生きてるから分かんない!!」
「アイドルでよく聞く永遠の18歳設定……?」
背中の鬱血痕と噛み跡を軟膏で消してもらい、ショウはようやく借りたメイド服に袖を通した。
長いスカートはショウの痩せ細った足を覆い隠し、綺麗に修復してもらった髪の上にホワイトブリムを乗せる。殴られて腫れた頬も軟膏を使って傷を消し、完璧にメイドさんとなってしまった。
今になって恥ずかしさが込み上げてくる。長いスカートもどこか落ち着かないし、ハルアやユフィーリアと比べれば不格好なのではないかと不安になる。
メイド服に着替えたショウを上から下まで眺めたハルアは、
「可愛いよ!!」
「そうだろうか……」
「ユーリも絶対に褒めてくれるよ!!」
ハルアに「行こう!!」と手を引かれ、ショウは足を縺れさせながらも浴室から引っ張り出される。
本当に可愛いのだろうか。お世辞ではないのだろうか。
だって、こんな痩せ細ってしまった自分には可愛いところなんてないのに。
☆
ところが、他人から見たらそうでもなかったらしい。
「見てユーリ!! 見て!!」
母親に玩具を見せびらかす子供のように、ハルアはショウをユフィーリアの前に突き出す。
元の世界にいたどの女性よりも美しい魔女の前に放り出され、ショウは居た堪れなくなった。彼女以上に可憐な姿になれるはずなどないのに。
透き通るような銀髪は艶があり、顔立ちは高級人形を思わせるほど整っている。白磁の肌には傷跡やシミすらなく、色鮮やかな青い瞳がショウの見窄らしいメイド服姿を映し出す。こんな美人相手に勝てる訳がない。
ショウはハルアの後ろに隠れようとしたが、
「可愛い」
「え」
雪の結晶が刻まれた煙管を咥える銀髪の魔女は、
「いやめっちゃ可愛いんだけど!? どうしたショウ坊、お前は天使か!?」
「あらぁ、頬の腫れもすっかり治って可愛くなったねぇ」
「見違えちゃったワ♪」
「そんな、そんな可愛く、あうあう」
掛け値無しの称賛の言葉に、ショウは泣きたくなった。
こんなこと初めてだった。女装をするのも生まれて初めてだし、これほど褒められたことも生涯でなかった。「可愛い」と言われることもなかった。
でも、何故だろう。とても恥ずかしいのに、ユフィーリアから送られた「可愛い」という言葉が何よりも嬉しかった。
何か魔法でもかけられたのだろうか。こんな感情もまた、ショウにとっては生まれて初めて経験するものだった。
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