ep4.だし巻き卵③

 重箱と反対側に置いてあった鞄を探り、スマホを取りだした。画面を操作してカメラを起動する。それを顔の前で構えてレンズを高森のほうに向け、弁当を食べているところを写真に撮った。カシャリ、と音が鳴った。

 急に写真を撮られた高森は動きを止めて、怪訝そうな視線を僕に向けた。

「何で急に写真なんか」

「母さんに、僕がちゃんと高森と一緒に食べてるか証拠の写真を送れって言われてるんだ」

 説明しながら、今しがた無断で撮った高森の写真をメッセージアプリを開いて母親に送る。面倒なので文章はつけない。写真だけを送りつける。まあ文章がなくても見れば状況はわかるだろう。高森が唐揚げを頬張った瞬間の一枚だった。まあまあよく撮れていると思う。

 高森くんを誘わないで一人で食べちゃうかもしれないし、と母親は言っていたが、さすがにこの量を一人で食べきるのは無理がある。僕もそこまで大食いではない。母親に言われるまでもなく、ぜひとも高森に協力を仰ぎたい。

 それから、それが母親の作戦だったのかもしれないとふいに思い至る。個別の弁当ふたつであれば、分けやすい。つまりどうしても一緒に食べる必要性のある状況とはなりにくい。だからあえてひとつの重箱なのか。

 僕はすっと合点がいったが、そうかといってそれを粋な計らいとは言ってやらない。理由がわかったところではた迷惑なことに変わりはないのだ。

 高森は一度箸を置いた。ズボンのポケットから自分のスマホを取りだす。

「おれも織部の写真撮っていい?」

 そう許可を求めてくる。

「……僕は関係ないだろう」

「でもおれだけ撮られるのも何となくフェアじゃない気がするんだけど。不意打ちだったし」

「無断で撮ったのは悪かったけど、しょうがないだろ。無視するとあとで母さんがうるさくて面倒なんだ。わかるだろ。それなら最初から素直に従っておいたほうが後々面倒にならなくていい。諦めておとなしく被写体になってろよ」

「じゃあ、二人で一緒に撮ろうよ。ちゃんとお弁当も入れて。さっきの、あんまりお弁当写ってなかったんじゃない? それにきっとおれ一人より、織部と二人で一緒に写ってたほうがお昼の証拠写真として織部のお母さんも納得するんじゃないかな」

 高森はそう言うと僕の返答を待たず、体を傾げてこちらにすっと上半身を寄せてきた。突然の至近距離に僕は少し面食らう。きゅっと全身に力が入る。

 嗅ぎ慣れない洗剤のにおいが一瞬ふわりと鼻先を掠めた気がした。僕の家とは違う、高森の家の洗剤のにおいだ。着崩さずに着た制服の白いシャツから香ってくるのだろう。

 高森と僕の制服の肩口がわずかに触れていた。密着したその部分から、高森の体温が僕に移る。布越しだというのにそれは思いのほか熱かった。その熱さの一点に意識が集中して、少しのぼせたような感覚に陥る。高森の静かな呼気が頬を撫でた。血の通った生き物、僕とは違う一個体なのだと当たり前のことを再認識する。

 こうやって互いに体を寄せなければフレームに収まりきらないのは理屈として理解はしているが、他人の熱をここまで近くに感じとれるほど誰かと体を触れ合わせた経験は僕にはなかった。ばかみたいに動揺する。地面に置いた指先に力が籠もり、砂の粒を潰してちりっと痛んだ。

 高森はまるで気にかけたふうもない。内部カメラに切り替え、少し高い位置でスマホを構えている。角度や位置を何度も変えた。そのたびに唇を噛んで、喉の奥で小さく唸る。弁当と僕たち二人がうまく収まる絶妙な構図を探すほうに余念がないようだ。

 悟られないように高森のほうを横目で盗み見ると、つるりとした白い頬が間近にあった。そこに長い睫毛の影が落ちている。校舎裏はほとんど陽射しが入らないが、それでも真上からわずかな光が射していた。

 そういえばこいつ睫毛長いんだよな、これだけ長いと空中の埃とかしょっちゅう絡まってそうだな、などと何だかどうでもいいことを僕は終始考えていた。

 それからしばらくのあいだ、僕は高森が瞼を動かすたびに一緒に動くふさふさと長い睫毛を観察していた。ふわふわと空中を舞う埃がその睫毛の先に音もなく着地する瞬間を目撃してやろうと真剣だった。

「やっぱりお弁当を置いたままじゃうまく入りきらないな」

 突然、高森がぱっとこちらを見る。いつもよりも近い位置から薄緑色の瞳に見つめられる。ふだんよりも距離が近いぶん、その色によけいに目が眩み、平衡感覚を失った。自分の座っている場所にきちんと地面があるのかどうかすらわからなくなる。

「織部、悪いんだけどお弁当を手に持っててもらえない? 下に置いたままだとうまく写真に入りきらない」

「……わかった」

 言われたとおり、僕は三段あるうちのひとつを手に持って胸の前で抱えた。視線は高森の持つスマホのカメラに向けなければならないので、手元が見えずに万が一斜めになってもいちばん中身がこぼれにくそうなおにぎりの段を選んだ。ほかのおかずの段のほうが彩りもあり見映えもするだろうが、このさい気にしていられない。高森も弁当の内容については特に注文をつけなかった。

 そもそも僕にはさほど注意を払っていない。目の前に翳したスマホの角度を数ミリ単位で微調整している。意外にこういうことにまめなのだ。

 ようやく納得のいく構図が決まった様子で、高森はボタンを押して写真を撮った。パシャリ、と軽い音が鳴って一瞬が切り取られる。笑顔をつくりきれていないぎこちない顔をした僕と、対照的に楽しげな表情の高森が写る。

「どう?」

 高森は撮ったばかりの写真を僕に見せてくる。どうと言われてもどうなんだ。

「……いいんじゃないのか」

 よくわからないので適当に答える。

 正直にいえば写真のなかの僕は真顔とも笑顔とも形容できずどっちつかずの途轍もなく微妙な顔をしているわけだが、だからといってリテイクする気にはならない。何度やり直したところで結果は何も変わらないように思えた。

 僕はいきなり笑えと言われて笑えるタイプではない。上辺だけの笑顔もつくれない。だから集合写真などこの手のものはいつも能面のような無表情で写っている。今までそれを悪いと思ったこともなかった。

 しかし高森の横に並ぶと僕のぎこちなさがよく目立ち、今日ばかりはなぜだかそれを疎ましく感じた。

「気に入らなかったらもう一枚撮るけど」

「だからそれでいいって」

「そう?」

 僕は撮影会はもうこれで終いとばかりに、手にしていた重箱をさっさと置いた。もう一枚撮るとなれば、また高森と至近距離に寄って、カメラのシャッターが切られるまでじっとしていなければならない。忘れていた熱を思いだして眩暈のように一瞬視界が揺れて明滅する。あれをもう一度繰り返す気力は僕にはなかった。

 高森はスマホの画面をいじり、撮った写真の出来映えを確かめている。

「待ち受けとかにするのか」

「待ち受けにはしないけど」

「……そうか」

「織部にも送るよ」

 そう言って高森はメッセージアプリで僕に写真を送ってきた。すぐに僕のスマホが振動する。僕はスマホを開くと、高森から送られてきた写真を改めて確認してみた。

 見る機種が変われば発色も多少異なるだろうから、もしかしたら写真の印象も違うのではないかと淡い期待を抱きもしたが、やはり何も変わらなかった。どっちつかずの表情を浮かべた僕と、楽しそうな表情の高森。

 そのまま画面を操作して写真を母親に転送する。それから自分のスマホの画像フォルダにも保存した。あまり写真を撮る習慣はないので、僕のスマホのフォルダの中身は数えるほどしかなかった。

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