ep4.だし巻き卵②
校舎裏にはまるで人影がなかった。外はいい天気だったが校舎の陰になっているためにその恩恵はまったくもって受けられず、頗る陰気な感じがした。ここまでは整備もあまり行き届いていないのか、雑草も鬱蒼と繁り放題だ。
昼食をとる場所として不人気なのも頷ける。おそらくここならばトイレの個室に籠もったほうがまだ快適だろう。ただし特有の淀んだ空気には目をつぶる必要がある。
校舎裏の惨状は、今日の僕が求めていた最適の環境だった。
雑草に覆われるなか、何とか座れそうな石段があったのは助かった。僕は迷いなく歩いていって、すとんとそこに腰を落ち着ける。ようやく人心地着いた気分だ。目の前に胡乱な表情で立ち尽くしている高森を見上げる。
「座れば」
「ここに?」
「ここに」
高森は僕の座っている石段に視線を落とし、わずかに眉をひそめた。手に持ったペットボトルのお茶の泡立った部分がゆっくりとはじけて崩れていく。
「制服汚れないかな」
「そりゃあ多少は汚れるだろうな。でも濡れてるわけでもないし、そんなに気にするほどでもないだろう。けっこう神経質なんだな」
「そういうわけじゃないけど。むしろ織部がまったく頓着しないほうが意外……、ああ、でもそうでもないのか。わりとそういうところあるもんな」
ぶつぶつと独りごちながら、諦めたようにけっきょくはすとんと僕の隣に座る。それでようやく落ち着いたのか、まだ少し泡立ったままのペットボトルの蓋を開けてひと口飲んだ。
僕はもう一度周囲を見渡して、ほかに人がいないことをじゅうぶんに確かめるとようやく通学鞄をそろそろと開けた。ずっと肩からかけていたせいで重みの名残がまだ肩に残っている。
なかからサッカーボールほどの大きさの包みを取りだし、それを僕と高森が座る石段のあいだに置いた。固く結ばれた風呂敷の結び目をほどく。はらり、と風呂敷が地面に広がる。
「お弁当?」
なかから現れたそれを見て高森が言う。僕は頷いた。
「今朝は余裕があったとかで、母さんがな」
今日は直接客先に出向くとかで出勤時間がいつもより遅めだったためだろう。それでも早くから起床して準備をしていた様子だった。
「それにしても、何でこんなひと気のないとこに」
「人の多い場所で堂々と広げたくなかったからだよ。こんなでかいの」
僕は顎をしゃくって風呂敷包みの上のそれを示す。
一般的な弁当箱というより、重箱だった。漆塗りで赤杢目の三段重だ。そう、三段重だった。蓋に桜の模様の蒔絵が金色で描かれている。
「高森と一緒に食べろって。鞄のなかを占領して、まったく今朝から邪魔でしょうがない」
溜息と一緒に僕はぼやいた。
今朝から鞄を開けるたびに、我が物顔で鞄のなかを占領する重箱の風呂敷包みが真っ先に目についた。それだけ存在感の主張が激しかった。おかげで教科書やノートなどの必要なものが鞄の隅に追いやられる始末だ。学生の本分は勉強のはずだが。
「おれのぶんまで作ってくれたんだ」
購買に行く必要がないと僕が言ったその理由を高森はここで理解した。おれのぶん、と繰り返して嬉しそうに瞳をきらきらさせている。ようやく思考が働きはじめたらしい。
「母さん、高森のこと気に入ってるからな。あれからしょっちゅう、高森くん、高森くんって言ってて正直うるさい」
言わずもがな高森が僕の家で晩ごはんを食べて帰った日のことだ。
高森は顔を上げて重箱から僕へと視線を移すと、へらっと締まりのない笑みを浮かべた。
「織部のお母さん公認になれて嬉しいよ」
「……そうかよ」
相変わらず冗談なのか何なのかよくわからないことを言う。
「今度母さんに連絡先教えてやれば。きっと喜ぶんじゃないか」
「それはさすがにちょっと緊張するな」
「まあ、慣れだろう。あんなんだけど、害はない」
「ずいぶんな言いようだな。いいお母さんだったじゃないか」
「それならなおさら高森が相手してやれよ。高森のほうが僕よりちゃんと話を聞くから、張り合いがありそうだったし」
「……いや。やっぱりおれは織部にメッセージ送るから、織部からお母さんに伝達してよ」
「面倒だから嫌だ。何で僕がそんな七面倒くさい仲介をしなくちゃならないんだよ」
そんな伝書鳩みたいな役割はご免だ。最初から素直に高森と母親でやりとりをすればいいじゃないか。高森と母親が「おともだち」になろうが、僕はいっこうにかまわない。いつも僕に送ってくる猫のスタンプでも送ってやれば母親も喜ぶだろうに。
高森は曖昧に笑ってお茶を濁した。
長々と引っ張るような内容でもなかったので僕もその話題を深追いはせず、目の前の三段重に意識を戻した。昼休憩の時間は限られているのだから、よけいなことで時間を潰している場合ではない。
桜の蒔絵が描かれた蓋を開け、石段の空いた場所に一段ずつ並べていった。重箱は一段目に俵型に握られた具材のさまざまなおにぎり、二段目に卵焼きやプチトマト、ポテトサラダや豆類などの野菜、三段目に唐揚げやウインナーなど重めのおかずが詰められていた。
「おいしそう」
並べられた三段ぶんのおかずを眺めながら、はしゃいだ声で高森が言う。先ほどから思っていたが、どうやら相当に弁当が嬉しいらしい。
どうせならふつうの弁当箱に一人分ずつ分けて作ってくれれば、僕もまだここまで苦労しなかったのだが。弁当を作ろうと思い立って、よりにもよってなぜ重箱をチョイスしたのか理解に苦しむ。運動会でもないのにこれを持たせる母親も母親だ。何でもない平日なのにイベントごとが待ちきれないイベント大好き野郎みたいじゃないか、僕が。
朝、母親から、今日はお弁当を作ったからとうきうきとした声で言われてテーブルの上に置かれたこれを見たときに僕はだいぶ絶望的な気分になった。作ってくれたことじたいはありがたいが、これとそれとは話が別だ。こんなものを誰かに見られるわけにはいかない。絶対に死守しなければと誓った。
中身の詰まった重箱は重いし鞄のなかで幅をとるし、少しでも傾けると中身がこぼれてしまいそうで学校に持ってくるまでに実に神経を使った。最悪だった。僕はひいひい言いながら登校した。遅刻したら母親のせいだと思ったが、こんなときに限って遅刻はしなかった。
「ほら」
僕は重箱と一緒に風呂敷のなかに包まれていた箸のうちの一膳を高森に渡した。さすがに割り箸だった。高森は礼を言ってそれを受け取ると、袋から出してきれいにふたつに割った。
「どれ食べてもいいの」
「好きに食べろよ。だいたいおかずは偶数個ずつ入ってるし」
「じゃあ、遠慮なく。いただきます」
両手を合わせて小さく頭を下げる。唐揚げをつまんで口に入れ、咀嚼する。次にポテトサラダを取った。レタスも取って口に入れる。すべて飲みこんでから、嬉しそうに僕を見た。
「何かピクニックみたいだな」
弁当に浮き足立っていた理由はこれだったのだろう。ピクニックで喜ぶのか。
「そうだな」
僕はまだ弁当には手をつけない。箸も用意していない。その前にやることがあった。
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