ep2.ラズベリーリコッタマフィン②

 もちろんその日の放課後も高森は僕の家にやってきて、僕たちはいつもどおり一緒に宿題などをして過ごした。

 高森が家に来たらまず水槽のエンゼルフィッシュの様子を見るのも、もう習慣になっている。ネオンテトラはすべていなくなってしまったので、空になったボトルアクアリウムは五つとも片づけた。今後使う機会があるかはわからない。ボトルアクアリウムぶんの空きができた棚の上は、少し簡素だ。

 エンゼルフィッシュは特に変わった様子もなく至って健康で、今日も悠々と水槽内を泳いでいた。水槽の傍に近寄ってゆらゆらと手を振ると、動作は鈍いがいちおうは反応を示してこちらを向く。高森はそれが嬉しいようだ。僕の家に来ると毎度のようにやっている。

 一匹きりの水槽は少し広く感じる。もう一匹くらい増やそうかと思いつつ、ずるずるとそのままになっていた。新しい熱帯魚を買うなら一緒に見にいきたいと高森は言う。僕はそれに曖昧な返事をしたが、そのうちに高森を連れてペットショップへ行くことになるかもしれない。

 僕たちはまず真面目に宿題を済ませ、それが終わるとたわいもない話をぽつぽつとしたり菓子をつまんだりしながらゆっくりと過ごした。そうやって二、三時間あまりが経ち、じきに高森は帰っていった。僕は玄関先で高森を見送った。じゃあまた明日ね、という高森に短く相槌を打つ。これがもういつもの見慣れた光景になっていた。高森はいつの間にか僕の日常に当たり前のように入りこみ、すっかり溶けこんでいる。

 高森が帰宅したあと、母親が仕事から帰ってくるまでのあいだ手持ち無沙汰だった僕は、自室で読書をすることにした。母親はフルタイムで働いているため帰宅はいつも遅い。だから夕食の時間も自然と遅くなる。父親の帰りはさらに遅いので、あまり一緒に夕食をとることはない。顔を合わせるのは朝のほんの少しの時間くらいだ。家にはほとんど寝に帰ってきているようなものである。いずれは僕もそういう大人になるのだろうか。

 ベッドに寝転がって小説を読み進める。きりのよいところでいったん中断し、ふと思いついて横に投げだしてあったスマホを確認した。高森からの連絡はなかった。今日の礼とか送ってきてもよさそうなものだが。代わりに母親から、仕事を上がったのでじき帰宅するとの連絡があった。

 ご飯を炊いておいてほしいと頼まれ、僕は米を研いでタイマーをセットすると炊飯器のスイッチを押した。冷蔵庫を開けてみたが、今日使う食材がどれかよくわからなかったのでよけいなことはしないでおく。そもそも献立を知らない。そうかといって、わざわざ母親に連絡をして訊くつもりもなかった。扉の横のポケットから水のペットボトルを取りだし、コップに注いで飲んだ。

 それからしばらくしてから母親が帰宅した。僕は自室からまたリビングに移り、ソファに寝そべって小説の続きを読んでいた。玄関のドアが開き、次いでどたどたと床を鳴らす大きな足音が響いてきて、母親が帰ってきたことに気がついた。母親はいちいち動作が大きく、いつも何かと騒がしい音を立てながら行動するのですぐにわかる。

「ただいまー」

 少し疲れたような声とともに母親がリビングに入ってくる。僕は読んでいた文庫本を置いて顔を上げた。

「おかえり」

「ただいま。ごめんね、真咲。遅くなっちゃった」

「いや。大丈夫」

 母親はまたどたどたと音を立てて部屋を移動すると、荷物を置いて着替えを済ませた。忙しなくすぐに食事の準備に取りかかる。僕も母親と並んでキッチンに立つ。ニラを洗って切り、卵を溶く。今日の献立はニラ玉炒めだった。僕がニラと卵を炒めているあいだに、母親は手早く味噌汁を作っていた。

 食事の準備が終わると、二人で食卓に着いた。

「今日はどうだった?」

 ごはんを食べながら、母親がそう訊ねてくる。何が、とは言わない。それでも僕は、それが学校の首尾であることは承知している。

「別にふつう」ニラ玉炒めを食べながら僕は答える。

「そう」

 母親は短くそれだけ言うと、また食事に戻った。

 昔はもっと根掘り葉掘り学校のことを訊ねてきていたのだが、僕があまりに話そうとしないのでいつの間にか深くは訊いてこなくなった。

「真咲の学校のお友達は、」という母親の言葉に、「そんなものはいない」と答えてからかもしれない。あのとき母親は何か傷ついたような顔をして黙りこんだ。僕ではなく母親が傷つくのだな、と、どこか他人事ひとごとのように僕は思った。

 母親は、今も食事のたびにいちおうは学校のことを訊ねてきて、それに対して僕はいつも「別にふつう」と答えるのだ。そういえば僕は、まだ高森のことを母親に話していない。

 僕のことを深く訊いてこなくなった母親は、代わりに自分の職場での出来事をよく話すようになった。

「そういえばね、」と思いだしたように明るい声を出して今日も話をはじめた。

 母親は広告関係の会社に勤めている。次のプロジェクトのチームリーダーになったとかどうとかいう話は、このあいだの食事のときに聞いていた。今日はそのプロジェクトの進捗具合についてを熱心に話し、僕は味噌汁を啜りながらそれに小さく相槌を打った。はっきり言ってそこまで興味のある話題ではなかったが、半分くらいは真面目に聞いた。やがて食事を終えて僕が席を立つと、母親の話も途切れた。

 食べ終わった食器を下げ、シンクへ置く。母親が食べ終わったら、あとでまとめて後片づけをしなくてはならない。

 仕事が忙しいようなら弁当でもかまわないと僕は毎度言うのだが、育ち盛りなんだからちゃんと食べなさいと言って母親は毎度キッチンに立つ。食後はソファでうたた寝をしていることが多い。今日もそうだった。ちょっと休憩、と言ってずるずるとソファに寝そべったかと思うとすぐに意識を手放した。リビングに響く母親の高い鼾を聞きながら僕は食器を洗って拭いて、食器戸棚に片づける。疲れたような姿しか見ないが、仕事は楽しいらしい。

 食後の後片づけを一段落させると、僕はテーブルの端に置いていたスマホを確認した。インストールしているアプリゲームのイベント開催のお知らせなどがきていたが、高森からの連絡はなかった。

 ふごっ、と母親が突然大きな鼾を掻き、僕は驚いてびくりと肩を震わせた。しばらく様子を観察していたが母親が起きる気配はなく、気持ちよさそうに口元をもごもごさせながら眠っている。僕は深く溜息をついた。

 就寝前にも僕はスマホを確認した。しかしやはり高森から連絡はなく、僕のスマホはしんと沈黙したままだった。

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