ep3.ポークジンジャー①

 ばたん、と大きな音を立てて玄関の開く音がした。その瞬間、僕は思いきり顔を顰めた。面倒なことになったなと思う。

「あら」

 どたどたと騒がしい音を立ててリビングに入ってきた母親が、そう言ってぴたりと動きを止める。僕の向かいに座っていた高森が顔を上げて母親と僕の顔を交互に見比べ、少し戸惑ったように二、三度瞬きをした。

「……お友達?」

 今日は珍しく仕事を早く上がると連絡があったが、予想以上に早かったようだ。早いといってもどうせ一時間かそこいらくらいだろうから支障はないだろうと踏んでいた僕は、母親からのメッセージに了承の返信だけをして、高森にはそれを伝えていなかった。

 高森は今日も放課後僕の家にやってきて、僕たちは二人でいつもどおり宿題などをして過ごしていた。

「お邪魔してます」

 高森はその場に立ち上がると、母親に向かって礼儀正しくぺこりと頭を下げた。

「真咲くんのクラスメイトの、高森総一郎です」

 たどたどしく自己紹介をする。声音が硬い。いきなりの母親の登場でおおいに緊張しているのだろう。何か助け船を出すべきだろうかと思いつつ、それも何だか少し億劫に感じて、結局僕は事の成り行きを静観することにした。テーブルに片肘をつき、手に顎を載せて二人の様子を生温なまぬるく見守る。

 母親は僕と高森を茫然とした様子で見比べながら、実にたっぷり一分間は沈黙していた。そのあいだ一度も瞬きをしなかった。仕事用のバッグの肩紐を握る手にやや力がこもっている。今日も仕事が忙しかったのか、朝きちんとセットしていったはずの髪の毛は少し乱れていた。

 高森は緊張した面持ちでその場に棒立ちになったまま、母親が何か喋るのをじっと待っていた。高森にとっては長すぎる沈黙だったろう。

「お友達!」

 やがて母親は悲鳴に近い声を上げて、どたどたと僕たちの傍まで駆け寄ってきた。高森がびくりと小さく肩を震わせた。無理もない。僕だって、たとえば外を歩いていていきなり向こうから見も知らぬ大型犬が僕めがけて全速力で突進してきたとしたらおおいに驚く。今の母親はそれと似たようなものだ。

 ふだんのどこか飄々とした態度と違い、母親の前で緊張して縮こまっている高森の様子に僕は憐憫と愉悦を同時に覚える。可哀想だが面白い。まあ、こうなったのはそもそも僕が母親のことをきちんと高森に伝達していなかったからで、つまりは全面的に僕のせいなわけだが。

「こんにちは、高森くん? 真咲と同じクラスなのね」

「はい」

「今日は真咲がうちに呼んだの?」

「あ。何回か遊びにこさせてもらっています」

「そうなの。家、近いの?」

「最寄り駅は同じです」

 母親の質問に、高森はひとつひとつゆっくりと答えていく。

 何回かどころじゃなくてほとんど毎日入り浸っているけどな。昨日も一昨日もその前の日も来たし。僕は心のなかで突っこみつつ、口には出さずにおく。

「一緒に勉強してたのね」

 母親はテーブルの上に広げられた教科書とノートに視線を落とした。高森はこくこくと小さく何度か頷いた。まるでやましいことは何ひとつしていないと主張しているかのようだ。

「あ、立ってないでどうぞ座って、座って」

 はっとしたように母親が身振りで椅子を示す。促されて、高森はようやくすとんと椅子に座った。糸の切れた人形のようだった。安堵したように小さく細い息を吐いたのが僕の位置から聞こえた。

「やだ、もう。真咲ったら何も話してくれないんだから」

 恨めしげな声と咎めるような母親の視線を、僕は無言で受け流す。

 たしかに僕は、これまでずっと母親に高森の話をする機会を逸していた。そもそも僕のなかでは改まって話をするようなことでもないだろうという位置づけだった。だから食事のときに最近どうだというようなことを訊かれてもすぐには思い至らず、たとえあとから思いだしたとしてもわざわざ話題を蒸し返すまでもないと判断した。結果そのまま今日まできた。

「そう。高森くんね」

 母親はしっかりと頭に叩きこむように高森の名前を反芻はんすうする。それから急ににやにやとひどく気持ちの悪い笑みを浮かべて僕を見てきた。何ごとかと思っていると、わざとらしく何度も大きく頷いて、ばしばしと音が鳴るほどの力で思いきり僕の肩を叩いてくる。ものすごく痛い。何なんだ。

 僕が抗議の目を向けると、母親の笑みはさらににやついたものになった。僕は思いきり唇をひん曲げた。だから何なんだ、その反応は。絶対に間違っている。高森だぞ。別に恋人を家に連れてきたわけじゃないんだぞ。

「着替えてくるから、ちょっとだけ失礼するね。あ、私のことは気にしなくていいから、どうぞゆっくりしていって」

 高森に満面の笑みを向けると、母親はくるりと向きを変えてどたどたと二階に上がっていった。相変わらず動作が騒がしい。ありがとうございます、と高森がその背中に律儀に声をかける。

 母親の上機嫌な鼻歌が、どたどたという足音とともに階段の向こうへ遠ざかっていった。急に頭が痛くなり、僕は指の腹でこめかみを揉んだ。

 高森はしばらく母親が消えていった二階のほうをじっと見つめていたが、やがてゆっくりと視線を僕に移した。

「……びっくりした」

「ああ。今日は仕事から早く帰るってちょっと前に連絡があったんだけど、ここまで早いとは思わなかったんだ。どうせ高森が帰ったあとだろうから支障はないだろうと思ってた。伝えてなくて悪かったな」

 高森は眉根を寄せて、咎めるような上目遣いになった。

「……あんまり悪いと思ってなさそうな感じだけど、」

 悪いとは思っている。僕にだっていちおう良心はある。だが、母親相手にまごついている高森を見るのが思いのほか面白く、うっかり楽しんでしまったのは事実だ。それを言うとさらに批難ひなんされそうだったので、口には出さないでおく。あくまで殊勝な態度を貫く。

 高森は全身の力を抜くようにもう一度ゆっくりと大きく息を吐いた。ようやく緊張がほぐれてきたのだろう。

「まあ、でも織部んちにはしょっちゅう来てるし、挨拶するいい機会だったかもな」

「立ち直りが早いな」

「……やっぱり織部、さっきの楽しんでただろ、」

「まさか。人聞きの悪い」

 高森が薄緑色の瞳で胡乱げに僕を見てくる。僕の言葉をいっさい信用していない目つきだ。ここまで露骨だといっそ清々しい。

 そこで、場違いに上機嫌な様子の母親がどたどたと階段を鳴らして戻ってきた。

 仕事用のパンツスーツから部屋着に着替えているのはいつもどおりだが、何だかいつもよりきれいめの服を着ている気がする。ふだんはたいていTシャツにウエストがゴムになっているズボンを穿いているし、上下の組み合わせにすら頓着せず上も下も柄物という目に痛い仕様の日もあるくらいなのに、今日はロング丈のワンピースだった。乱れていた髪の毛もしっかりとセットされ、化粧もばっちりと直してある。さっきまでテカテカにおでこを光らせていたくせに。あとは食事と風呂を済ませて寝るだけだというのに、何をそんなに浮かれているのだろう。また頭が痛む。

「ねえねえ。私、この部屋にいても大丈夫かな? 邪魔? 違う部屋に行ってたほうがいい? あ、お菓子。お菓子食べる? お茶も淹れようか?」

 矢継ぎ早に質問をしてくる。高森はそれに無言で微笑み、ゆっくりと僕に視線を向けた。僕の判断に委ねるということだろう。僕は溜息をついた。しかたがない。

「別にリビングでテレビ観ててもかまわない。お菓子と飲み物はあるから大丈夫」

「そう?」

 母親は少し不服そうに唇を尖らせた。

 それからいったんは引き下がり、リビングのソファに座ってリモコンを取り上げるとテレビをつけた。しばらくザッピングしていたがあまり興味の惹かれる番組はなかったようだ。テレビを消してリモコンを置いた。

 次に新聞を広げて読みはじめたのだが、それも飽きたのかすぐにやめて放りだす。合間にちらちらとこちらに視線を投げてくる。どうやらよほど僕たちの様子が気になるらしい。本人は僕たちに気づかれないようにさりげなさを装っているつもりのようだが、どう見ても不自然でばればれだった。

 僕は宿題の続きを再開しようとしたものの、母親の行動にどうにも気が散ってしまい集中できない。高森も苦笑している。……やっぱり違う部屋に追いやればよかった。

「あ。そうだ」

 突然、母親がそう言って胸の前で両手を合わせてぽんと叩いた。少し芝居がかったしぐさだった。立ち上がると、何かとびきりいいことを思いついたというような表情を浮かべて再びいそいそと僕たちの座るテーブルの前までやってくる。悪い予感しかしない。

 笑顔で僕たちの顔を交互に見ると、テーブルに両手をついて高森のほうにぐいっと身を乗りだした。高森が少し驚いたように肩をすくめた。

「ねえ、高森くん。よかったら、晩ごはんうちで食べていったら?」

 うきうきとした調子で言う。言われた高森はぽかんとした顔になった。僕もまじまじと母親の顔を見つめる。いったい急に何を言いだしているんだ。

「え。でも……、」

「うち、お父さんは仕事が多忙でいつも深夜近くまで帰ってこないから平日はほぼ家でごはん食べないの。だいたい私と真咲の二人きりの食事だし、真咲はこんなであんまり喋らないから物足りなくて。だからもしよかったら、高森くんも一緒にどうかな。今日は金曜日だし、明日はゆっくりできるでしょ? それとも何か用事があるかな。もし無理そうだったら、遠慮なく断ってくれて全然かまわないから」

「……ちょっと家に連絡してみます」

 何かしら理由をつけて断るかと思いきや、意外にも高森はそう言うとスマホを操作して電話をかけはじめた。

 ……ほら、やっぱり面倒なことになった。

 僕は二人のやりとりを眺めながら唇を噛む。母親と高森が鉢合わせた最初から、このまま何ごともなく終わるわけがないと思っていたのだ。僕と違って母親は社交的だし、もっと言うならお節介だ。物事に介入しすぎるのだ。そしてさっきさり気なく僕のことをこき下ろした気がする。物足りない息子で悪かったな。

「あの、」

 電話をしていた高森が顔を上げ、母親に声をかける。

「母が、電話を代わってほしいって」

 持っていたスマホを差しだす。

 高森からスマホを受け取った母親は電話口から顔を背けてごほんと一度咳払いをし、声の調子を万全に整えてから電話に出た。

「もしもし」

 いつもより二段階くらい高いトーンで電話口の向こうに話しはじめる。しばらく高森の母親と何ごとか話していた様子だったが、いえいえこちらこそ、だの何だの言っておほほほほと笑った。

「母さんに付き合って無理しなくていいんだぞ。強引だろ。嫌だったら断れよ。もしも断りづらかったら僕から言ってやる」

 僕はテーブル越しに少し身を乗りだすと、電話をしている母親に聞こえないように声を低めて高森に耳打ちした。高森は小さく微笑んで首を振った。

「全然、嫌じゃないよ」

「……ならいいけど、」

 それじゃあ失礼します、と母親が電話口の向こうに言って、スマホを高森に返した。高森はそれを受け取ると再びスマホを耳に当て、うんうんと何度か相槌を打ってから電話を切った。

 母親の顔を見上げる。

「母が、くれぐれもよろしくって言ってました」

「私こそ急に誘っちゃってごめんなさいね。そうと決まったらすぐに準備するから、高森くんは真咲と一緒に向こうで待っててくれる?」

「はい。ありがとうございます」

 ぺこりと高森が会釈する。

 どうやら高森は今日、うちで晩ごはんを食べていくことになったらしい。二人の会話を聞きながら僕はそう察した。本当に面倒なことになったものだ。伝達を怠った自分自身の行動を今さらながら後悔する。

 母親はキッチンに向かい、ふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開けて食材を確認した。

「今日はポークジンジャーにするね」

 振り返り、にこにことした笑みで僕たちに言う。

「……客がいるからって何を恰好つけた言い回ししてるんだよ。いつもそんなふうに言ってないだろ。豚肉の生姜焼きだろ」

「高森くんはポークジンジャー好き?」

「あ、はい。好きです」

 僕の話なんか聞いちゃいない。

 僕と高森はテーブルに広げていた教科書とノートを片づけるとソファに移動した。ふだんであれば僕も夕食の準備を多少手伝うのだが、今日は高森がいるのでおとなしく一緒に待つだけだ。母親からもそうするように言われたし、高森を一人ほったらかしにしておくわけにもいかないだろう。テーブルの上を台ふきんで拭いて人数分の箸を並べるところまではやった。

 宿題がまだ途中だったが、何だか気もそぞろになってしまったので中断することにする。

「どうする。何かテレビでも観てるか?」

 高森はふるふると首を振った。

「大丈夫」と言う。

「観たい番組とかないのか」

「特に決まって観てるようなのはないよ。織部こそ何かないの」

「僕も別に」

 空いた時間は読書をしていることが多い。しかしそれでは結局高森をほったらかしにすることになる。

 それで僕たちは何をするでもなく、母親が料理をする音を聞きながらぽつぽつと取り留めもないことを話して待った。会話はときおり途中で途切れて長い沈黙を挟んだりもしたが、けっして気詰まりではなかった。母親はいつにも増して張りきって食事の準備をしていた。

 家族や親戚以外の誰かと家で食事をともにした経験など、これまで僕にはなかった。誰かの家に招待されたり、反対に誰かを家に招待したりなど考えたこともなかったし、今後あるとも思っていなかった。高森と関わるようになってから、僕にとって今まで想像もしていなかったような初めての経験ばかりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る