キャンパスのカオリ
三文字
第1話
大学の自習スペースで、僕は社会学のレポート課題となっている本を読んでいた。時折欠伸をしながら、ずり落ちそうになる、半透明の青縁の眼鏡を指で戻しながら、その見慣れない文字の羅列と眠気に耐えつつ格闘していた。
その頃の僕はまだ大学の一学年で、春の頃だった。そしてそのひと時の出来事が、全ての始まりだった。
「あ、さっきの授業の江口君じゃーん、何してるの?」
三十分程前に、午前中の二コマ目の授業を終えたばかりだったのだが、その授業内でグループ別のディスカッションをして、僕と同じグループにいた学生の一人が、そんな風に声を掛けてきた。だが僕はその子の名前を思い出そうと頭を巡らしたが、それが中々出てこなかった。
「何、ボーっとしてるの? ハハッ、さっきの授業であったばかりでしょー?」
そのディスカッショングループ内で僕は同じ組だった。ろくな意見を僕は何一つ言えず、対してこの学生は積極的に議論し、果てはグループ代表として発表もしてくれた、ありがたい存在だった。
にも関わらず、名前が思い出せないのだ。彼女のえも言われぬ官能的で大人びた、何ともまったりとした香水のクセになる香り。そしてそれとは正反対に、「香水」の言葉の意味も知らないかのような天衣無縫、明朗会計いや違う明朗快活なあのはしゃぐような喋り方。
その途方もないアクセントに、授業での僕はすっかり酔いしれてしまい、再び今その魅力に心を囚われそうになっていた。だから頭がボーっとして、名前が思い出せないのか?
いやそんなことはどうでもいい。早く名前を思い出さないと。ああ分からん、えーっと、えーっと……。
「えーっと誰だったっけ、えーっt……」
「エエトじゃないよ、香織だよ」
この矢継ぎ早な声、やっぱりそうだった!
「そうだ、畑中だ! 畑中香織d……」
「っだから香織でいいってばハハッ! おかしいな!」
そんなおかしいことをしているつもりもないのだが、それはともかく何故か絶妙なタイミングで僕の悪いオツムに香織のフルネームが浮かんで言うことが叶ったので、香織の方もさぞ喜んでくれたのだろう。何だか沢山笑っている。
「江口君って、本を読むのが好きって言ってたよね。この本も趣味の?」
「いや? これは心理学のレポート課題で使おうと思って読んでるだけだよ」
「ふーん……あ、私も心理学受けてた!
やばいレポートのことすっかり忘れてたよおー……(驚いた顔)
この本全部読み終わったら貸してくれない?(懇願するような悲しそうな顔)
私もレポート書くから(毅然とした顔)」
「え? 全部読み切るつもり最初からないけど、まあレポートが終わったら貸してもいいけど」
「じゃあさじゃあさ、読み終わるの待つからさ、借りる時の連絡用にね、ライン交換しようよ!」
そして僕は何だか悪徳業者に多額の預金を下ろすような従順さで香織とライン交換をしたのだが、それから徐々に悪夢が始まっていった。
その悪夢とは何か?
と言うと、端的に言って僕は衣・食・住の三つの要因で香織から金を巻き上げられるようになったのだった。
それは一つ目に、衣。これは、一言で言ってしまえば、服屋である。
有無を言わさず、デートという名目で行きたくもない若者に有名な安物の服屋に連れて行かれ、そこから香織サマの長い長いファッションショーが幕を切ることとなる。
そして僕はと言えば、あれが良いかな、これが良いかな、と自らの服のチョイスにダラダラと香織が悩んでいるのを、ひたすら見せつけられることになるのだ。
ファッションのフの字もない僕としては、何の感慨も面白みもない。ただ早く終わればいいと願うばかり。
とはいえ、それだけならまだ良かった。問題なのは、香織が自分のショッピングに飽き始めると、徐に僕の普段着を見回し、
「あなたのその服、自分ではイイと思ってるんでしょ。
けど、正直ダサ過ぎだよ。特にその赤と黒のチェックに青のジーパンの組み合わせなんかただのオタクじゃない」
とか言いやがる訳であって、それからすぐに僕へドンドコ試着させる服と言えば、発色性のありそうな緑のズボン、紫色のキャップ、薄手で透けている黒色の上着の様な訳分からんもの等、まるで僕はセルロイドの着せ替え人形みたいな扱いとなるのだった。
そんな「着せ替えごっこ」で見事ランクインした服たちを、僕は香織サマの命に従い、粛々と自分のクレカを使って、つまりは自腹で支払わなければならなくなる。全くもって腹立たしいことである。
二つ目に、食。これは、一言で言ってしまえば、ファミレスである。
僕は香織に「フレンチを一緒に食べたいなー」なんて言われて、絶体絶命、砂上の楼閣、まさに風前の灯的サスペンスフルペシミスティックな気分に襲われながら途方に暮れて、純和風裏町人情的昭和歌謡性にどっぷりとつかっている実家近くの商店街をのたりのたりとどうしたものかと思いつつ歩いていたものだ。
が、そこで「あなたの斧は銀ですか、金ですか、それとも本当のゴホービの斧はワ・タ・シ?」とでも言わんばかりの艶めかしい神話の女神の様な商店街のハイカラーアイドルに僕は出逢ってしまったではないか!
ファミレスである。諸葛孔明の天下三分の計以来の名案、フランス料理と偽りファミレスの料理をおごるという計画を、久しぶりに実家に帰ったついでに香織を誘い出しいざ実行に移すと、香織の方もまんざらその空間を居心地が悪くないと感じた様子だった。きっと香織はこのファミレスを街の小さな本格フレンチで、知る人ぞ知る通好みな名店だときっと思い込んでくれたのだと思った。そう思わせる程に香織は一緒に食事をとる時に喜びはしゃいでいたのだった。
しかし、そんな僕の細やかな満足を崩していくように、香織が頼むものと言ったら! ステーキとチーズハンバーグと、カットビーフがセットになっているらしいプレートに、赤ワイン白ワイン、エスカルゴ、三種フリットの盛り合わせと来ている。それに季節限定のパスタも頼んで、(どれが香織の分なのかも知らんが)香織の食べきれなかった分は有無を言わせずこの少食な僕が食べることを強要されると言うものだから、とても余裕をもって喜べたものではない。万事休すだ。
そんな香織の飯テロゲリラ戦における猛攻撃の結果、わが胃袋は名誉の玉砕、そんな中で僕が頼んだものと言えば!
もはや完食叶わぬドリンクバーのカフェラテと、グリンピースのサラダを前に、又今回もこのザマになってしまったかとガックリため息をつく、アンニュイでデカダンスな休日なのだった。
三つ目に、住。これは、一言で言ってしまえば、下宿先である。
僕は、わずかばかりの親の仕送りと、月五万にも満たない塾講師のバイト代の金でもって日々を細々と暮らしていた。そんな僕の慎ましやかな生活にも関わらず、前述のファミレスで味を占めた香織は、もう僕の生息区域さえも侵食しようというのだ。
前述の暴飲暴食のあと、カラオケにも行って疲れた体を香織はあろうことか僕の下宿先に横たえてグーグー寝息を立てていた。時々目がカイーだのうるさいのでシャワーでもしてくればいいだろ、そこの風呂場にあるからと言ったら本当にシャワーをしだした。
香織のシャワー音を聞きながら、僕はけしからん妄想に四方八方から取り囲まれて四面楚歌の状態にあった。もはや何の手立てもあるまい。秦の始皇帝もきっと今の僕と同じような寂寥感を心の中に湛えていたにちがいない、と言いながら僕は一方で香織のスタイルの良さについて深い瞑想にふけっているのだった。
と思ったらシャワーをしていたはずの香織の手が僕の目を塞いだ。すかさず僕の頬に唇を当ててきて、一瞬呼吸が止まった。僕はゆっくりと顔を動かしながらその唇に唇を重ねていく……。
僕は時々、そのような香織との荒廃した日々のあれこれや、それに基づく自身の悄然たる苦悩とを、所々を言葉の綾という名のオブラートに包みながら、慎重に、落ち着き払った様子を取り繕いながら、けれども切々と同級生の友人に語ってみせるのだが、その際直ぐに、あんなに心を分かち合ってくれると思っていた彼らは突然大きな声を立てて僕のことを笑い飛ばし始める。果てには、ある者曰く、「幸せな奴だな」、またある者曰く「それのどこが悩みなんだよ」等々。何と孤独なる我が身なりや、若人なる我より出づる悩み深く、その心の影の中へ我落ち込みて誰の知る由もあらず、これ救うべからざるや!
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