辰飯(たつめし)、卯(うさぎ)残さず

第1話


『蛇に睨まれた蛙』という言葉がある。

 彼女――竹寅たけとら卯月うづき――は今、正にそんな状況だった。


「……誰?」


 目の前の人物が低く、わずかに険のある声で問いかける。

 同学年女子の中でも170cmと飛び抜けて身長がある卯月よりも更に高い180はある長身の男性。

 女性にとってはそれだけでもう恐怖を感じるのに、それに加え切れ長の目に無造作に伸ばした髪を首の後ろで纏めた金色の長髪がより一層荒々しさを際立たせている。

 今この場で彼女が泣き出さないのはこれまでの人生で少しでも『品行方正』であろうと培ってきた数々の努力の賜物だろう。


「何の用だ、あんた?」

「ええっと、わた、わたしは……」


 その長身に違わない低い声がさらに恐怖を煽り、声帯が引きつって上手く言葉が出てこない。

 それもそうだ。

 こんなはずでは無かったのだから。


 現在、卯月は高校進学を期に親元を離れ、叔母の家に居候させてもらっている。

 その叔母についさっき「知り合いの子が一人暮らしを始めたから自分の代わりに引越祝いを持って行ってってくれないか?」と頼まれたのが運の尽き。

 当初は、叔母が仕事終わりに自分で持って行く手はずになっていたのだが、予想以上に仕事が忙しく、指定した時間に行けなくなってしまったのだ。

 同性の自分に頼むのだから、その『知り合いの子』とやらもまた女性なのだろう。

 場所は近いが、時間は既に夜8時を越えている。ともすれば祝い品を渡してお仕舞いだろう。

 住まわせてもらっている身として、家主の助けになればと引き受けた卯月だったが指示されたアパートの部屋を訪ねれば出てきたのは『いかにも』な風貌の大男だったのだから。


 と、つい10数分前の出来事を現実逃避の如く回想をしている内に男の眉間に刻まれた皺が更に深くなる。

 怒っている。

 間違いなく。

 それもそのはずだ、この部屋のチャイムを鳴らして出てきた彼に驚き、「す、すいません!間違えました!!」とドアを閉じたのがほんの30秒前の事なのだから。

 アルバイトの後ということもあり自らの疲れで部屋を間違えたと疑ってメモを見直す。

 だが、無情にも叔母から渡されたメモには間違いなくこのアパートの住所とこの部屋の番号が記されており、頭がフリーズしてしまった。

 そして、震える指で再び同じ部屋のチャイムを鳴らし、今に至る。


 男の鋭い視線がつま先から頭の先へゆっくり昇る。

 その視線に合わせて肌があわ立ち、胃が竦み上がった。

 築数十年はするであろう古めかしいアパートの廊下。

 ちらつくライトの下で佇む卯月と男の間を夜風が一つ通り抜けた。

 そんな春先のまだ冷たい夜風でさえ生温かく感じるほど卯月の身体は恐怖で冷え切っていた。


「お前……」


 彼の機嫌を損ねた自分はこれから一体何をされるんだろう。

 その思いで頭がいっぱいになり、揺れる視界から雫が零れそうになった瞬間、


「タケ――」


 グゥウウウウウウウウウウ……


 お腹が鳴った。盛大に。


 火山の噴火のように、お腹の中に溜め込んだ空腹が――今が何のタイミングと思ったのか――一気に溢れ出したかのように盛大なヤツが、卯月の腹部から高鳴った。


「……」

「……」


 緊張の糸を無造作に断ち切った腹の虫に、暫しの沈黙が二人の間に流れる。


「……ッハ!?」

「なんだ、ハラへってたのか」

「い、いえ!?確かにお腹はすいていましたが、それほどでも無く、ただの偶然で――」


 グゥウウウウウウウウウウ……


(もおおおおお!何でこんな時に鳴ってしまうのですかああああああ!!?)


 会話の流れを断つほどの盛大な腹の音の絶唱に彼女は心の中でそれと同じくらい叫んでいた。


「……飯まだなのか?」

「へ?」

「晩飯、まだなのかって聞いてんだ」


 眉間に寄せた皺を少し緩め、男は聞いてきた。


「は、はい。まだですけど……」

「親御さんは?」

「ええと、仕事が忙しくて……」

「そうか……」


 すると、男は小さくため息をつき部屋の中に引っ込む。

 暫くして戻ってきた彼の手には一つの巾着袋があった。


「ほらよ、『竹寅』」

「へ?」


 無造作に突き出された巾着に卯月は思わず呆けた声を上げてしまう。


「これは……?」

「やるよ。帰ってそれ食え。いらなきゃ捨てても構わん」


 突き出された巾着を勢いのままに受け取るとほんのり温かい巾着から少しだけ美味しそうな匂いがした。


「ちょっ、ちょっと待ってください、何なんですかいきなり!?それにどうして私の名前を」

「『竹寅卯月』だろ。お前」


 卯月は男の口から自分の名前が出てきたことに目を見開いた。


「うちのクラスでお前知らないヤツはいないからな。今年の入試で過去の記録を大幅に塗り替え1位で合格した主席で、勉強も運動もトップクラス。おまけに美人で謙虚。クラス委員長にも任命される。トレードマークのストレートの黒髪。困ってる人を放っておけない慈悲深さでついたあだ名は『学園の天女様』の『竹寅卯月』、だろ?」


 思わず絶句してしまう。

 なぜなら彼の言ったことはほぼ正解だったから。

 確かに、卯月は今年の入試を主席でクリアした。そのことでクラスでも委員長という纏め役を任されいる。

 その上見た目も並のモデルとは比べものにならない程整っている彼女を周囲の生徒達が『天女様』等と呼んでいることも含めて、彼の言葉に間違いは殆ど無い。

 ただ、『困っている人を放っておけない程慈悲深い』というのは少し違った。それは、卯月がやりたいからやっているだけのこと。

 だが、何故それをこの男が知っているのだろうか。

 

(何故彼が私の学校での事を?うちのクラス……うん?)


 ちょっと待て、と自身の脳内回路を巡らす。

 そう言えば金色の髪をした長髪の男性で、卯月の学校での様子を知る人物……その条件に合致する人が、たった一人いた。

 まさかと思いよくよく目の前の人物を観察してみると。

 背丈はさることながら、鋭い目つきと乱雑に伸ばされ首の後ろで纏められた『金色』の髪には確かに見覚えがあった。


「ま、まさか『御山みやま辰巳たつみ』くん……?」

「おぉ……知ってるって事はやっぱり竹寅か……」


 そういって少し口角を上げる彼に思いっきり表情筋が引きつるのが分かった。


(な、なんと言うこと……まさか、御山くんの家に突撃してしまったというのですか……私は……!!)


 卯月の通う高校は基本的に治安の良い街に作られたごく普通の学校だ。

 程良く風紀が行き届いた過ごしやすい学び舎。

 しかし、そんな学園――しかも、卯月のクラス――には一人の素行不良の生徒がいた。

 その名は『御山辰巳』。

 まず目につくのはどこで染めたのか、片目が隠れるほど伸びたムラのない金色の頭髪。

 更に遅刻、授業中の居眠りは勿論、時折どこかで喧嘩でもしたのか顔面に痣や制服を汚したまま学校に来る等の素行の悪さ。

 噂では、どこかで仲間と共にスクーターの危険運転をしているとも聞く。

 入学早々そんな態度であるためほぼ毎日教師達からの注意、説教を受けているのだが、一向に改善する余地は無し。

 クラス委員長である卯月も日々注意しているが、その度に睨み返すのが教室内での日常と化しつつある。

 

 それが『学園の天女』と賞される『竹寅卯月』と対極に位置すると言われる生徒、『学園の独眼竜』こと『御山辰巳』だった。


「こ、こここ、ここ御山……くんのお家だったんですか?」

「……え、ああ。まあな」


 卯月の問いに辰巳はどこかボンヤリとした返事をする。


「なんだ、何も知らねえで来たのか」

「は、はい。叔母様から引越祝いを持って行くようにとしか……」

「引越祝い?ああ、今日人が来るってそういうことか……」


 辰巳は腕組みをしたまま、入り口にもたれ掛かると卯月の持っている引越祝いの入った紙袋に目を落とした。


「あ!そ、そうでした。これ、叔母から預かった引越祝いです。叔母は仕事が忙しくて来れないので今日は私が代わりに来ました」

「そういうことか。わかった、ありがとな」


 当初の目的を思い出した卯月だったが緊張や恐怖や驚きがごちゃ混ぜの震えで身体が動かない。

 だが、そんな卯月の手から辰巳がするりと袋を受け取った。


(え?)


 一瞬だったが、さり気なく、それでいて丁寧なその立ち居振る舞いに少しだけ違和感を覚えた。


「で、用事ってのはそれだけか?」

「え?ええ、そうです」

「家、遠いのか?」

「い、いいえ。それほど遠くないですが」

「そうか。もうすぐ9時だし、気をつけて帰れよ」


 そう言うと辰巳はそのままパタン、と静かに部屋の扉を閉めた。

 1人廊下に残された卯月は呆然と立ち尽くす。

 彼は本当にあの『御山辰巳』なのだろうか?

 これまでの彼の印象とあまりにもかけ離れてる彼の対応に卯月は拍子抜けする。

 少し粗野ではあったが、周りを寄せつけない空気を纏っていた学校とは反対のどことなく柔らく、穏やかな雰囲気。

 それは短いながらも今日まで彼の対応をしてきた者として、自らの中で不動のものとなっていた『御山辰巳』という人物の印象、その根底を少しだけ動かすような衝撃を与えた。

 唐突な印象の乖離に脳の処理が追いつかず暫し呆けてしまっていると再び肌寒い夜風が吹いた。

 思わずブルッとしてしまうがお陰で正気に戻る事が出来た。未だ冷たい夜風に晒されたままでは風邪を引いてしまう。

 その場を後にしようとしたその時、


「竹寅」


 背後から声が掛けられた。

 振り替えれば再び辰巳が部屋の扉から顔だけ出していた。


「あー、そのなんだ。かみ」

「カミ?」

「髪の毛。いつもと違うんだな。新鮮みがあって良いじゃん」

「へ?」

「じゃ」


 卯月の呆けた声と共に辰巳は扉を閉めるとそれっきり出てくることは無かった。

 再び理解できない辰巳の行動に思わず再度呆けてしまう。


(何を言いたかったんでしょう?)


 そんな疑問に首を傾げながら卯月は家路に着いた。




 その後、卯月がアルバイト時の格好であるメイド服に眼鏡とツーサイドアップのツインテールのままだった事に気付いたのは帰宅してから45分後のことであった。

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