永遠にはまだ遠くても -スノウ・ドーム第三部-

おおきたつぐみ

第1話 私の運命

 私には運命の人が二人いる。

 和貴かずきと、佳海よしみ

 亡くなった祖母が生涯で一番愛した人の孫たち。

 この運命が私をどこへ連れて行くか、まだ私にはわからない。


 *


 成海なるみさんは祖母が愛した千佳さんの娘だ。

 彼女は祖母の生前から数年に一度は会いに来てくれて、死後も祖母のお墓参りに来てくれる。息子の和貴と娘の佳海を連れてきた時もあったけれど、やがて成長した和貴は母の旅行に付いてこなくなり、佳海とふたりだった時期を経て、ひとりになった。

 祖母は成海さんのことを「ばあばの一番の親友の娘さん」と私や私の両親に説明していた。祖母が元気だった頃からたまに電話をかけてくれたり、地元の美味しい物を贈ってくれていた(祖母もまめに贈っていた)から、祖母を大切にしてくれる優しい人なのだと思ってはいたけれど、親友の娘とはいえ、世代が違うふたりがどうしてそんなに仲良くなったのかよくわからなかった。

 ただ、祖母はすごく成海さんを信頼し、実の娘のように思っていたのは確かで、自分に何かあったら必ず成海さんに連絡して、大切にしていたラベンダー色の箱を渡すようにと私に何度も言った。

「その時になるまで、このみもこの箱の中は見たらだめよ。ばあばとの約束」

 祖母は優しい顔をしていたけれど、それは切実な願いとして私に響いた。

「わかった。その代わり、スノウ・ドームは私がもらってもいい?」

「もちろん。ばあばが死んじゃったらふたつともこのみが持っていてね。必ずふたつ一緒にしてね」

「うん。必ずね」

 私は生真面目に祖母と指切りげんまんをした。


 あの薄紫の箱と二つのスノウ・ドームの中に、祖母は心の全てをしまっていた。

 箱の中から手紙を取り出して読んでいる少女のような横顔。リビングで常に祖母の手のひらに愛おしげに包まれていたスノウ・ドーム。

 最初にひとつだったドームがもうひとつ増えたのは私が五歳の頃だった。

 それは千佳さんが祖母とお揃いで持っていたものだと後に聞いた。千佳さんが亡くなって十年後に、成海さんが届けてくれた。

 ふたつになったスノウ・ドームを祖母は本当に嬉しそうに見つめていた。私はその時まだわからなかった、祖母がどれほど深くそのドームの持ち主を愛していたのかを。

 出会って二十五年後に千佳さんが突然亡くなり、さらに十九年経って祖母が旅立つまで、祖母の心から愛する人が消えることはなかった。


 年を重ねるにつれて、祖母はくうに向かって――まるで見えない誰かに話しているかのように呟いたり、遠くを見つめて微笑んだりするようになった。きっと千佳さんの姿を見ていたのだろう。

 そんな時は祖母がどこかへに行ってしまう気がして、怖くなった。

 私は、幼稚園や小学校から帰ると自宅マンションの一階下に住む祖母の家で寝る時間まで過ごしていた。たまにそのまま泊まることもあった。父母は一人娘の私を何不自由なく育ててくれたけれど、共働きで忙しく、あまり余裕がなかった両親に代わって、こまごまと世話を焼いて慈しんでくれた祖母は私にとって誰より大切な存在だった。だからここにいないのに祖母の心を占め、どこか遠くへ連れ去ろうとする何者かを私は感じ取り、恐ろしかった。


「このちゃんもいつか好きな人ができるのかしら」

 と祖母が言ったのは私が小学生になった頃だった。

「ばあばと、田中先生と、ひなちゃんと、そうちゃんが好きだよ」

「うん、好きな人がいっぱいいていいね。でもいつか、心の底から大好きでどうしようもないくらい、寝ても覚めてもその人のことばかり思い浮かぶような恋をする時が来ると思うの」

「そんなのわかんないよ」

 私はその時祖母が、また私ではなく遠くの誰かを見ているような気がして少し怒りながら言った。

 きっと祖母は私がなぜ突然むすっとしたのかわからなかっただろう。慌てて私の手を優しく撫でながら言った。

「たったひとりの人をこのちゃんが見つけたら、どんな人でもばあばは必ず味方するからね」

 そして私もわからなかった、祖母がどのような思いを込めてこう言ったのかを。

「……私はばあばが一番好きだよ」

 私はぎゅっと祖母を抱きしめた。どこにも行かないでと願いながら。

「ありがとう、ばあばもこのちゃんが一番大好き。一番大切」

 抱きしめるたびに祖母の体は小さくなっていくようだった。日ごとに大きくなる私と、少しずつ小さくなっていく祖母。まるで自分が祖母の生命力を吸い取って成長しているようで、それも怖かった。

 しかし祖母は私が中学生になってさまざまなことを受け止められるようになるまでそばで見守ってくれた。私が十四歳の秋、祖母は半年の入院の末に亡くなった。

 

 祖母のお葬式に成海さんが来てくれなかったらどうなっていただろうと今でも思う。

 父母は葬儀会社やお寺との段取り、親族の接待に忙しく、私は一人ずっと祖母の亡骸についていた。生前好きだった紫の花々に囲まれた祖母は化粧をしてもらって綺麗だったけれど、もうそこに祖母の魂はないのだとはっきりわかった。祖母の形をした空っぽの身体。生まれた時からずっと私を守り、愛情を注いでくれた祖母がいない世界でこれから生きていかないといけない。低く続くお経の声、線香の香りと共に立ちのぼる細い煙が消えていくように祖母が離れて行ってしまう。心細くて心細くて私は祖母に自分も連れて行ってと心で叫んだ。

 成海さんが葬儀会場に現れた時、私はどれだけほっとしたことか。

 遠くから私を見て励ますように何度も頷く成海さんを見て、祖母の死に足をすくわれそうだった私はようやく息ができた気がした。

 葬儀のあと、両親や親族が会食をしている間に私は祖母の自宅に成海さんを招いた。成海さんは千佳さんの水色の箱を持ってきてくれていた。私は祖母の寝室から紫色の箱を出し、一緒に開けた。

 そこには何百もの手紙が詰め込まれていた。その一通一通に、祖母と千佳さんが二十五年間、互いに心から恋し、愛し合った記憶が閉じ込められていた。


 わかっていた。物心がついた頃から、祖母がいつもここにいない誰かを求めていることは気づいていた。窓辺に置いたスノウ・ドームを特別大切にして、時折話しかけていたことも。その相手が、よく昔の親友として話に出ていた千佳さんだったのだ。

 既婚者の女性どうしの恋だったので、千佳さんの娘である成海さんにはなかなか受け入れられない事実だったと言う。

 私の誕生後まもなく亡くなった祖父の記憶が私にはないからか、既婚者どうしだとか女性どうしだとかよりも、これほど長い時間、ほとんど会えない人を愛し続けることができた祖母と千佳さんの想いの強さに心の底から驚いていた。

 これが恋なのか。本物の恋なのか。

 私にもいつか訪れるものなのか。

 成海さんもそんな恋を経験したのか聞いてみると、微笑んで首を振った。

「夫と結婚するまではしていると思っていたけれど、お互い父母になると一つの家を共同で経営する相手、って感じになっていったから、母達みたいにこんなに思い続ける経験はしていないな」

「共同で経営……、多分、うちの父母もそんな感じです」

「だいたいの夫婦がそんなものだと思う。家族愛ね。そして私はそこに何も不満はないし、自分は幸せだと心から思っているよ。だから、このみちゃんも大丈夫。おばあちゃんたちみたいな大恋愛をしても、私みたいにしなくても、どっちにしろ幸せになれるから」

 頷きながらも、私に生じた不安は消えることはなかった。


 恋はしてみたい。祖母のような大恋愛までいかなくても、誰かを心から愛し、愛されたい。周囲はとっくに初恋を経験し、恋人がいる子も多いのに私は一度も誰かのことを好きだと自覚したことはなかった。このまま死ぬまで誰のことも好きにならず、愛されることもなかったらどうしようかと思った。

 同時に恐ろしかったのは、祖母と千佳さんはお互いに本当に愛し合っていたのに、結局ふたりで幸せになることはできなかったという事実だった。

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