無色

 久しぶりにこの日記を手にした。

 あれからどれくらいの時間がたったんだろうか。


 毎日が穏やかに、でも確かに忙しない日々を過ごしている。

 僕がまだここにいること、ここに存在していることに自分自身でも驚いている。


 そしてこの日記を再び手にすることはないと思っていた。

 あの一週間の日々はいまだに信じられない。


 僕自身が信じられていないのだ。他の人に言って誰が信じてくれるだろうか。

 あの日本が誇る大女優、『無色の女優』と一週間共に過ごしたなど言っても、心が追い詰められた人間の妄言だと一蹴されてしまうだろう。


 心の整理もついてきて、こうやってあの一週間のこと、そして……あの日のことも思い返せるようになってきた。



 あの日、彼女と一緒に海へと出かけた。

 そこは『海の向こうへ』のロケ地でもあり、彼女と出会った場所から見えた景色。


 ずっと無表情で無気力な様子を見せていた彼女だったが、海につきその景色が目に入るとその表情が幾分か優れたようにも見えた。


 それは僕の勘違いなどではなく、事実彼女はテンションが上がっていたようで海と地面を隔てる塀の上を歩きながらいろいろな話をしていた。


 そして彼女は足を滑らせて、決して本人が意図して落ちてしまったのだとは信じたくないから、偶然その塀の上で足を滑らせて海へと落ちてしまった。


 それまで僕は海に来て正解だと思った。彼女が楽しそうだったから。

 でもそれは間違いだったのだと気づかされる。


 いつも通りスーパーに行って買い物をしていれば彼女が海に落ちることはなかった。

 海など行かなければ彼女が救急搬送されることなどなかったのだ。


 そこからの記憶はあいまいだ。

 多数の見知らぬ人たちに囲まれたこともあったし、目覚めぬ彼女の傍で長すぎる時を過ごしていたような気がする。 


 マスコミというのは鋭い生き物で、少しでも情報がそこに落ちているとどこからかその情報をかぎつけて、どこでも駆けつけてくる。


 その時に初めて彼女が普通の生活を送るというのがどれほどに難しいことなのか、理解できた気がする。きっとそれは彼女の一部分でしかないと思うけど。


 マスコミの対応も落ち着いてきて、彼女の傍にいることも慣れてきたころ僕の心は擦り切れながらも大分落ち着きを取り戻していた。

 そしてふと彼女が言っていたことを思い出したので、ここに書き残しておこうと思う。


 それは塀の上を歩いているときに彼女が話してくれたこと。

 なぜ彼女が女優を引退したのか、その真実。


 医者からは一種の『職業病』だと告げられたらしい。

 彼女は一つ一つの役を全身全霊で挑んでいた。


 主役、メインのときはもちろん、街中を歩くエキストラを演じる時ですら全力だった。


 それこそ彼女ではない別人の人生を投影するような女優生活を送ってきた。

 人気が出れば出るほどその負担は大きくなる。


 そして彼女に異変が生じた。彼女の自我が失われつつあったのだ。

 このまま仕事を続ければ自我が崩壊する。


 そういわれても彼女は演じ続けた。その人の生涯を。

 自分自身に投影させて。

 そして猶予がなくなったころ彼女は引退をした。


 自我が崩壊してしまえば、新しい命すら演じることができないのだから。

 生きがいをなくし絶望していた時、そんなときに彼女は僕に出会った。


 僕が感じたように彼女も僕と似た雰囲気を感じたらしい。

 そして一週間過ごすこととなった。


「あなたがこの一週間過ごした私は、すでに私ではなかったかもしれない。でも私にとっては何もない普通で当たり前のことが、そんな一週間がとても特別で私自身が楽しかった。おかしなことを言ってると思うかもしれない。でもそれだけはあなたに知っておいてほしかった」


 彼女はあの日塀の上から微笑みながら僕にそう伝えてくれた。

 僕も同じだということを伝えたかった。


 あなたが特別であるということ、僕自身普通の生活を取り戻せて感謝していること。


 でもそれを伝える前に彼女は僕の前から姿を消した。

 僕の想いを伝えることができないまま、彼女だけ伝えることを言ってから、いなくなってしまった。


 そんな彼女は僕の隣でただ横たわっている。

 日記を書いている僕を見つめて、時折微笑んで見せるが何を伝えようとしているのか、そもそも何かを伝えようと意思を持っているのか僕には判断できない。


 海に落ちたのが原因なのか、元々限界だったのか長い長い昏睡状態から目覚めた彼女は、すでに彼女自身ではなくなっていた。


 人が本当に死ぬときはその人のことが忘れられた時だというのはよく聞く話だ。

 僕は彼女のことを覚えている。テレビの向こうにいた時の彼女、一週間色んな表情を見せてくれた彼女、そして最後の日の本当の彼女の姿、どれも鮮明に覚えている。


 でも彼女は自分のことを覚えていない。

 自分が何者であるかも分からない、考えもしないという。


 こういう場合はどうなるのだろうか。その答えはまだ出ない。

 でも今後もこうして僕は彼女の隣に居続けるのだろう。


 彼女に微笑みかけられるたびに、悩みながら、悔やみながら、たとえ苦しんだとしても、それでも、失いたくないと願いながら、隣にいるのだろう。 


 特別な彼女も、普通の彼女も、何もない彼女ですらも。


 僕は愛してしまったから。


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null 葵 悠静 @goryu36

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