最後に食べたいものは

モモザワシマ

最後に食べたいものは

 好きな人に手作りのものを食べてもらいたい、それ自体はよくあることだろう。だがそれが手作りのラー油、というのはあまりないことではないだろうか。手島真子にとって初めてのことだった。手渡しではなく『こっそり手作りの食品を食べさせる』のも初めてだった。

 真子は彼の名前を知らない。通学に使う駅のホームで見る姿以上の情報がないのだ。背は180センチくらい、年齢は……大学生くらいか、それより少し上。アウトドアっぽいジャケットにがっちりしたブーツ。服装がいかついせいか、顔立ちや体つきは対称的にほっそりと、はかなげに見える。真子は彼の白いうなじが好きだった。伏せた眼差しも、機嫌悪そうに結ばれた唇さえ好きだった。見た目しか彼のことを知らないが、私は彼のことが好きなのだ。誰にも文句は言わせない。

 彼とはホームで別れてしまうので、真子はそれ以上の情報を持っていなかった。それもこの1ヶ月前までの話だ。真子は彼と運命的な再会をしたのだ。場所はホーム下階の立ち食い蕎麦屋だった。

 真子は女子高生なので、わざわざ立ち食い蕎麦屋で買い食いをしようと思ったことはない。買い食いしてもドーナツやバーガーショップだ。だから立ち食い蕎麦屋にいる彼に気づかなかった。たまたま視線を上げたら、見覚えのあるアウトドアジャケットの背がカウンターに向かっているのが見え、真子は心臓が止まりそうになった。衝動的に店に入ると店員にうろんな目を向けられる。まず食券を買わなければならないと気づいて、店外にある自販機に五百円玉をつっこんで見もせずボタンを押した。出てきた食券を店員の前に置く。

 出てきたのは肉そばだった。こんなに食べられるか不安になった真子は次の瞬間、有頂天になった。彼も肉そばを食べていたからだ。たまたま同じメニューを選ぶなんて、ますます運命的だ。彼は黙々とそばをたぐっていたかと思うと、目の前の容器を開け、中身をどさっとそばの上にのせた。容器には『当店特製・食べるラー油』とある。揚げたニンニクの香りが真子の鼻腔をくすぐった。真子は真似して自分のそばにも同じくらいの量をのせた。とんでもなく辛く、涙が出た。

 彼はやがて食べ終わると店を出て、ホームへゆっくりと上がっていった。今日こそいつもと違う展開になるのではという真子の期待は裏切られ、彼はいつも通りホームから去っていった。でも今日は彼の好物を知ることができた。一歩前進だ。

 それからしばらく幸せな時間が続いた。彼の隣で過ごせる時間が増えたのである。しかも身を寄せあって食事をしている。これはもうデートだ。店員は一人で来店する女子高生に不審の目を向けていたが、真子は気にしなかった。だが幸せも続くと日常になる。真子は彼に好意を求め、それを容易く得られるものに嫉妬するようになった。具体的には『当店特製・食べるラー油』への嫉妬である。

 彼が視線を向けるのはあのラー油の容器だけ、興味を示すのはラー油だけなのだ。あの『当店特製』と言いながら市販の食べるラー油を詰め替えただけのラー油にである(真子は研究のため、手に入る限りのラー油を試食していた)。あんなものが彼に食べられるなんて。せめてもっと美味しいものを食べてほしい。そう考え、真子はラー油作りに手を染めたのだ。

 幸い、現代は『レシピサイト』というものがあり、真子は容易にラー油作りを学ぶことができた。真子は台所に立ち、材料のニンニク、唐辛子、ネギ、ピーナッツ等々を見渡した。材料をみじん切りにし、鍋で油を熱する。具材を入れると鍋は香ばしい香りを上げた。その香りが彼を思い出させ、隣にいるかのような心地にさせた。

 彼が店に入る時間は決まっていたので、真子は先回りし、ひそかに容器の中身を入れかえた。やがて彼が入ってきて、真子の隣に立った。いつもと同じにそばをたぐり、いつもと同じに容器をあけ、中身をそばにのせた。

「……さくさくする」

 彼はぼそっとつぶやいた。真子は彼の声を初めてきいた。彼はそのままそばを食べ終わると、店を出てホームに上っていった。真子はあわてて後を追う。彼の背に呼びかけた。

 「ねえ、今日のおそば、いつもと違いませんでしたか」

 返事はない。

「いつものより、さくさくしたんでしょう」

 彼はまっすぐ階段をあがっていく。真子は降りてくる人波をかいくぐりながら呼びかけた。

「いつも最後に食べるのより、おいしかったでしょう!」

 周囲は奇異の目を向けたが、真子は気にしなかった。ホームに上がると彼の背はいつもと同じく、ホーム端へと遠ざかっていくところだった。

「あんなおそばで本当にいいんですか? 私ならもっとおいしいものを最後に食べさせてあげられるのに!」

 真子は彼に駆け寄る。背に伸ばした指は宙を切った。

「一緒に連れて行ってくれてもいいんです! だから、私と」

「最後に食べるものは」

 彼は初めて真子の目を見て言った。

「まずいものの方がいい。未練になるから」

 彼はホームを蹴り、路面に身を投げた。特急がそこを通過し、一瞬紅い霧が舞う。真子は車両が去るまで立ち尽くした。いつも通り、そこには何もなかった。誰も、彼が身を投げたことに気づかない、いつもの朝だった。ただ、真子が作ったラー油の香りだけがそこに残っていた。

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