清廉なる殺人計画

妹蟲(いもむし)

第1話

「殺そうと思うんだ」


 何気なく、八坂はそう言った。

 口の中に流し込んだビールが口の端からだばだばと落ちて、グレーのスーツに大きな染みができる。

「え?」

「もう殺しちゃっていいと思うんだよね」

 目の前にいる美丈夫は、目の前のねぎまから一番上の鶏肉を口に押し込む。

 俺は口をぱくぱくとさせて八坂の横顔を見る。ビールを煽る、微かに伏せられた瞳に長い睫の影が落ちた。

「……誰、を、だよ」

 喉が、引きつるように震えた。天井の低い安居酒屋のカウンターの上に置いた肘が滑り落ちそうになったがなんとか耐える。

 八坂の目がちらり、とこちらを見る。きれいな弧を描く二重の美しい黒い瞳がまっすぐ俺の細い目を射抜く。

「翔平の父親に決まってるじゃん」

 なんとか持っていたビールジョッキが、がたん、と音を立ててカウンターの上に落ちた。バランスを失ったジョッキが倒れ、半分ほど残っていたビールがみるみる広がっていく。

 三十年間聞きなれた『翔平』という音が、自分のものだと理解するのに一瞬以上の時間を要した。

 八坂はそれに気も向けず、自分のジョッキをまたぐいと一口煽った。細く白い首が小さく音を立てる。それからふ、と息を吐き出し、手に頬を乗っけてこちらを見てにっこりと笑った。

「これでも俺は、お前の親友だからね」



 ***



 けたたましく音を立てる携帯のアラームで目が覚めた。

 身体を起こした瞬間、ぐらり、と頭の芯がバランスをとれずに傾く。ああ、昨日の酒がまだ体中を巡っている。どうやって帰ったのかすら覚えていない。

 鳴り続けるアラームをなんとか止める。今日が平日だということを信じたくないが、開かない瞼をなんとか持ち上げた先にある携帯の画面は6月5日金曜日という文字を浮かべていた。


 ベッドから身体を無理やり引きはがし、ワンルームの狭い部屋の端から端へと移動する。なんとかたどり着いた冷蔵庫から水を取り出して喉に流し込んで一息つくと、少しだけ頭が軽くなった気がした。

 もう一口水を流し込んでからゆっくりと息を吐き出す。自分でもわかる程度には、呼気に酒の匂いが混じっている。八坂と飲んだ次の日は毎度この調子だ。わかっていたのに木曜日に飲み会をセッティングした先週の自分を恨むしかない。

 飲みかけの水が入ったペットボトルをダイニングテーブルに置いて、そこにあった一枚のメモに気が付いた。

「Dear翔平 タクシー代は勝手にもらったよ。それと例の件、考えといて 八坂拓未」

 名前はない。けれどその筆圧の低い細い字は見慣れたものだ。メモを手に取って、その文字を追いながらベッドに腰を下ろす。

 深酒をしたとは言っても、さすがに一件目の会話を忘れるほどではない。それに、内容が内容だった。

「あいつ」

 起き抜けのベッドの上にそのメモを放って天井を見上げた。

 八坂拓未は、本気なのだろうか。



 ***



 一時間の通勤ラッシュを超えても体内の酒は抜けてくれなかった。今日に限って部長のテンションが高く、朝一番のミーティングから目標についてせっつかれた。今月まだ見込み客を得ていない俺は当然その怒号を一身に浴びる。

「お疲れさま」

 机の上に缶コーヒーが置かれた。

「ありがとう」

「朝から大変だったね。明日支社長くるから部長も必死なんじゃない?」

「ああ、だからか」

 もらった缶コーヒーを開けながら、紺色のパンツスーツを着た浅香雫を見上げた。浅香は俺の机に寄りかかるように、自分のコーヒーにも口を着ける。

「でも珍しいね、澤木がまだ見込みゼロっていうのも」

「珍しくもなんともない。でもトップセールスにそう言ってもらえるのは嬉しいね」

 ふふ、と浅香はにんまりと笑った。

 不動産販売を手掛けるうちの会社の中でも、営業において浅香は常にトップ成績を取り続けている。女性社員として揶揄されてきたこともあったが、入社九年目にしてその地位を不動なものとしていた。

 同期として悔しい部分ももちろんあるが、それ相応の努力を見ている身としては尊敬の念の方がずっと強い。


「で、まぁ、話はそれじゃないんだけど」

 と言いながら彼女はくい、と首を出口側に向けた。その瞬間に何を言いたいのかを察し、俺はこくり、と頷く。フロアの中にいる数人が興味深げにこちらを見てきたがその視線は一切無視し立ち上がる。

 浅香は、この会社の中で唯一俺の内情を知る人物の一人でもある。浅香は立ち上がった俺を確認してから、足を出口に向ける。コーヒーを手に俺は浅香の後ろについてフロアから出る。

 喫煙室に人がいないことを確認してから、浅香は身体をその中に滑り込ませた。俺もそれについて喫煙室の中に入る。浅香は何も言わずに、静かに俺に視線を向けた。


 喫煙室の中に漂う煙草独特の苦い匂いに鼻の奥が小さくひくついた。

「妹さん、どうなの」

「……変わらず、だ」

 俺の言葉に、浅香は小さく息を吐き出す。

「手伝うって言ってるのに」

「何をやっても、無駄なんだよ」

 胸ポケットから煙草を取り出して、ゆっくりとその先端に火を灯した。深くその煙を吸い込むと、ざわつく胸の中が少しだけ落ち着くような気がする。

 浅香は俺の横顔を見て、苦い表情を浮かべて口を一文字に引いた。

「心配してくれてるのに、悪いな」

 浅香とは高校時代からの付き合いだ。浅香はずっと変わらない。同じクラスでバカをやっていた頃からそのままだ。就職して再会したときには本当に驚いたが、浅香が持つ芯の強さは高校時代のイメージと違わない。

 大学が違ったためその距離も遠くなったが、こうしてまた同じ会社に入ってからは高校時代と変わらずの友人付き合いをしてくれている。

「力になれなくてごめん」

「力になろうとしてくれるだけで十分だよ。それに、これは俺の家の問題だから」

 ふ、と煙を吐き出す。煙草の先端から上る煙と吐き出した煙が混ざり合って換気口から吸い込まれていく。

 浅香の沈んだ顔を見るのは心苦しい。けれど、これは俺がどうにかしなければいけない問題だし、人に話してどうにかなる問題ではない。

「何かあったら、言ってね」

「もちろん。助かってる」

 に、と歯を見せると、逆に浅香の表情は暗くなった。毎日のように繰り返すこの問答に、俺の心が小さく痛む。

「そうだ浅香。昨日お前も来ればよかったのに」

「あ、結局飲みに行ったんだ」

「八坂もお前に会いたがってたぞ」

 俺の発言に、浅香は小さく首を横に振った。

「嘘。八坂くん、私のこと嫌いだもん」

「そんなことないだろ」

 数口吸っていらなくなった煙草を消しながら、浅香を見る。困ったような表情を浮かべて、喫煙室の端にあるパイプ椅子に腰を下ろした。

「お前ら3年のとき同じクラスだっただろ」

「同じクラスだけど仲良くなかったし」

 この押し問答もいつものことだ。浅香は何故か八坂に会いたがらない。八坂と飲むときには必ず浅香にも声をかけるが、いつも答えはノーだ。

 俺は浅香と八坂が同じクラスだったとき、隣のクラスの住人だったがために二人の関係がどういうものだったのかを垣間見る機会はほとんどなかった。

「八坂が人を嫌うのなんて想像つかないんだけど」

「そりゃそうだろうね」

 ふ、と息を吐き出しながら、ちびり、と一口手に持っていた缶コーヒーを飲んだ。

 浅香は八坂の話が話題に上る度に痛みを伴うようなちょっとつらい顔をする。どれだけにあいつに苦手意識を持っているのだか。

「澤木」

 浅香が固い声で俺の名前を呼んだ。同期の中で、俺のことを名前ではなく名字で呼ぶのは浅香だけだ。

 でも俺は、浅香から呼ばれるその響きは心地よい。

「私は澤木の仲間だから」

 それだけは忘れないで、と付け足して浅香はにこり、と笑ったか泣きそうなのか、その中途半端な表情だけ浮かべて喫煙室を後にした。

 最後に残る、ハイヒールの高い足音が煙草の煙と一緒に消えていった。

 喫煙室のガラス戸越しに見える浅香の高く結い上げた黒髪を見て、俺は首を捻る。



 ***



 心地よい温度がいつでも味わえるモデルルームの中で、俺はパンフレットをぼんやりと眺めながら椅子の背もたれに身体を預けた。

 朝から客は1組だけ。それもこのマンションを買う予定もないような冷やかし客だ。

 土日の人入りはそれなりなものだが、平日となればその客足は一気に遠のく。受付の町村さんは、暇そうにリビングのソファに腰を下ろしてスマートフォンを操っている。

 人が来なければ俺の営業相手もいない。町村さんの後頭部を見ながら、ダイニングの机で俺も肘をついた。

「翔平さん」

 町村さんは緩やかなカールのかかった髪をふわりと浮かせて振り返った。目だけを向けてその声に応える。

 彼女は俺より7つも下だ。短大を卒業してこの会社に入った二年目社員。浅香を見慣れすぎているせいか、事務職の彼女は年齢より幼く見える。

「浅香さんと本当に付き合ってないんですか?」

「しつこい」

 軽く笑って返すと、町村さんは大きな瞳を一回り小さくして頬を一回り大きくした。

 160センチに届かない身長も相まって、なんだかリスのように見える。小さなソファに膝立ちし、後ろにいる俺を見る。

「今朝だって二人でいたし」

「仕事の話だよ。俺が紹介したお客さんの話」

「ならフロアで話せばいいじゃないですか」

「込み合った話があってね。そもそも俺の友達だから担当を浅香にしてもらったくらいだし」

 浅香と話すときの常套句として使わせてもらっている言葉だ。実際に浅香の今抱えている顧客には俺が紹介した友達がいるし、嘘にはならない。

 しかし町村さんはこの言葉に納得がいかないように、さらに眉を下げた。こういう仕草や表情がおさなく見えるのだろう。後輩社員の間では絶大な人気を博しているらしいが、俺にはよくわからない。確かにかわいらしいとは思うけれど。

「男女の友情なんてないんですよ」

 町村さんがまっすぐ、俺を見据えながらそう言う。

 聞きなれすぎたその言葉に、俺は適当に頷きながら「そうだね」と答える。

 俺の反応が気に入らなかったのか、町村さんはふてくされたようにソファに座り直し、スマートフォンを再び指先で小さくいじり始めた。

 その後ろ姿を見送ってから、口には出さずに町村さんの言葉を繰り返す。

「……あるわけねぇだろ」

 俺の言葉は、マンションのチャイムを鳴らす音にかき消され、どうやら町村さんの耳には届かなかった。

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