第18話 本音


「ごめん、ちょっと熱くなっちゃったね」


 少し声を落として花恋かれんが言った。


「あいつは私の為、そう言って夢を諦めた。私はショックだった。蓮司れんじが私をそんな風に使うだなんて、思ってもみなかったから。

 でも私はその時、そうなんだ、としか言えなかった」


「どうしてですか? どうして自分の気持ち、ちゃんと伝えなかったんですか」


「どうしてだろうね。私にも分からない。でもね、それでも蓮司れんじのこと、やっぱり好きだった。ずっとこの人といたい、そう思ってた。

 大好きなあいつが唯一の夢を諦めた。そのことに私が口を挟んだら、二人の関係にひびが入るかもしれない……そんな風に思ったからかもしれない。私にとって、蓮司れんじはそれくらい大切な人だったから。その筈なのに……

 その時の感情が、いつまで経っても消えなかった。何かある度に思い出して……蓮司れんじに対して、やるせない気持ちが積もっていった。

 だからね、自分から連絡を取らないようになっていったの。顔を合わせば何か言ってしまいそうで……それにあいつね、作家になることを諦めてから、変な笑い方をするようになったんだ」


 れんの脳裏に、全てを諦めきったような蓮司れんじの笑顔が浮かんだ。


「そんな顔見たくなかった。私を見て優しく微笑んでいる。でもね、笑顔を向けられる度に、『お前のせいで夢を諦めたんだ』って責められてるような気がしたんだ」


「……」


「それからはまあ、あいつの言った通りかな。連絡を取り合うことが少なくなっていって、いつの間にか自然消滅」





 花恋かれんの言葉に、れんは心をえぐられるような感覚を覚えた。

 花恋かれんの言っていることも分かる。夢を諦める口実に使われた、そのことに憤る気持ちも理解出来る。

 でも、それでも。

 れんには納得出来なかった。

 今、自分の中に怒りの感情はない。

 寂しくて哀しくて、ショックでいっぱいだった。


 花恋かれんの怒りは、一体どこから生まれたんだろう。

 もしかしたら既に気持ちは冷めていて、断筆はただのきっかけにすぎないんじゃないだろうか。

 真実が知りたい、そう強く思った。


花恋かれんさん、正直に答えてほしいことがあるんですけど、いいですか」


 そう言ったれんの視線に、花恋かれんは動揺した。


「な、何かな。ちょっとだけ目、怖いんだけど」


「これから聞くこと、それは私にとっても大切なことなんです。だから誤魔化さず、正直に答えてほしいんです」


 れんの視線。

 それは紛れもなく自分のものだと花恋かれんは思った。

 相手と本音でぶつかりあいたい。そう思った時に多分、自分はこんな目をしてるんだ。

 そしてそんな目をしたのはきっと、蓮司れんじが最後だった筈だ。

 私はあの日から、人と真っ直ぐに向き合うことをやめた。

 でも目の前にいる10年前の自分は、まだそれを失っていない。

 若かった。でも、楽しかったな。

 そんなことを考えてると、知らぬ間に花恋かれんは笑顔になっていた。


花恋かれんさん?」


「いいよ。自分相手に嘘ついても仕方ないし。と言うかれんちゃんの目を見てたら、とてもじゃないけど誤魔化せる気がしないよ」


「……花恋かれんさんは今、蓮司れんじさんが小説をやめてしまった、それが別れた理由だと言いました。でも、本当にそうなんですか」


「……」


蓮司れんじさんが夢を捨てた。とても寂しくて哀しいです。もしれんくんから言われたら、私は泣いてしまうと思います。でもそれがきっかけで別れる、そんなことには絶対なりません」


「……だろうね」


「実はその前から、蓮司れんじさんへの気持ちに変化があったんじゃないですか? 不信感と言うか、寂しさと言うか」


「流石私だね。最初に不信感って出してくるなんて。きっとれんちゃん、そう感じたんだよね」


「はい。うまく言えないんですけど、不信感って言葉が一番合ってるような気がしました」


「間違ってないかな。れんちゃんがそう思うのって」


「じゃあやっぱり、何か」


「私ね、処女なんだ」


「…………え?」


 花恋かれんの口から出た言葉。それはれんの思考を停止させた。

 つい数時間前、初めてキスをしたばかりのれんにとって、花恋かれんの放った言葉はそれくらい衝撃だった。

 自分にとっては、手を繋いで歩くだけでも大変なことだった。

 友人から初心うぶだとからかわれていたれんは、同年代の女子と比べても、思考が幼いと言えた。

 自分にとって初体験は、遠い未来のことだと思っていた。

 いずれそういう時は来るのだろう。そして勿論、相手はれん以外にありえない。

 そんなことを思い、何度となく家で枕を抱き締めていた。

 その言葉を今、10年後の自分が口にした。

 そしてはっきりと聞こえた。処女だと。


 10年後の未来。

 10年後の自分はまだ、経験をしていない。


 目をパチパチさせるれんを見て、花恋かれんは苦笑した。


「あのその……花恋かれんさん、今なんて」


「私は処女。そういう経験をしてないって言ったの」


「え? え?」


 思考が追い付かない時に、目をパチパチさせる癖。ああ、やっぱりこの子、私だな。

 そんなことを思いながら、花恋かれんが言葉を続けた。


「私はこの10年、蓮司れんじとそういうことにならなかったの。そりゃまあ、いい雰囲気になって、そうなっちゃうのかなって思ったことはあったよ。でもね、結果は言った通り。蓮司れんじと関係を持ったことは一度もない」


「10年経っても私、れんくんと」


「残念だけどね」


「でもどうして」


れんちゃん、それは聞く相手を間違えてるよ」


「え?」


「そういうことは、蓮司れんじに聞かないと」


「……」


「初めてキスした時のこと、今でもよく覚えてる。あいつ、震えてたよね。それなのに目だけは真剣で、私、ちょっと怖かった。蓮司れんじもこういう時、男の目をするんだなって思ったよ」


「……私もそう思いました」


「告白の時だって、半分べそをかきながらだったけど、本当に頑張ってた。そしてその時思った。こんなに蓮司れんじを追い込んでたんだ。こんなことなら、私から言えばよかったって」


「そう……ですね」


「でもこういうこと、私からする訳にはいかない。はしたないって思ってた」


「私もそう思ってます。はしたないって思われたくないし、幻滅してほしくないから」


「だから私は待ってた。蓮司れんじの方から来てくれるのを。私を求めてくれるのを、ずっと待ってた」


「……」



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