epizoda 3 ノヴァーチェク   2



 

 プリュスミル公爵家に到着したのは、まだ夕刻には早い時刻だった。

 そのため、ラドミールはその館の正面を存分に見ることができた。

 二階建てーー日本だと三階建てーーだろうか。現代的で瀟洒なまだ新しい建物は、公爵家と呼ぶには小さすぎるように窺える。これならば、田舎のヴァフ男爵家とさして変わらない規模だとしか思えず、ラドミールはいささかなりとて落胆した。

 この時のラドミールはまだ、この建物が別館であるということを知らずにいたための感想だった。

 そうして中に踏み込み、彼のまだ野暮ったい印象の強い外套を脱がしてくる執事にある意味で翻弄された彼は、館に蔓延する沈鬱な空気には気づかなかったのだ。

 木を贅沢に使い飴色に照る床に、壁と半円を描いた天井はいっそシンプルイェドノドゥヒーな白漆喰のままである。その一階プルブニー パトローー日本だと二階ーーの外光に照り映える手摺りからこちらを見下ろす目があることに彼は気づいてはいなかった。

 それはいうまでもなくオルドリシュ・アンブロジョヴァであった。今は、姓をメドゥノヴァと云い、イジーク伯爵夫人である。彼女は奥の階段を滑らかに降りると、ラドミールに駆け寄った。

 子ども特有の高い体温が、彼女の腕の中に収まる。

「坊や」

「お父さまの命に逆らうことができずあなたを手放してしまったわたくしを許して」

 事実だった。

 オルドリシュはあの忌まわしい出産の一年後、再び未婚のままで子を宿した。それが、父ゾルターンの逆鱗に触れ、今のこの状況なのだった。 

 それでも、やっと取り戻したのだ−−−と、心の中の空洞が埋められてゆくような思いが彼女を戸惑わせる。

 この子どもを見た瞬間、彼女の心の中に温かな思いが生まれた。

 不思議だった。

 彼女にとってこの子どもは、ただの道具のはずだった。

 かろうじて縁は切られていないもののもう手に入れることができないのかと、諦めることができずにいた、公爵家を取り戻すための。

 こみ上げてきた涙を誰にも見られないようにそっと手指で拭い取り、

「さぁいらっしゃい。あなたを紹介しなくてはね」

 ここがこれからあなたのお家よ−−−とは、決して言わずに微笑むと、手を引いた。


 幼児のようだ−−−と、少し羞恥を覚えながら、オルドリシュに手を引かれて廊下を進んでゆく。

 すれ違う上級使用人は、彼らに気づくたび歩みを止め、淑やかに又は礼儀正しく、礼をとる。最初のうちこそこそばゆさや居心地の悪さを感じずにいられなかったラドミールであったが、いつしかそれを視界の隅に留めるようになった。いちいち相対していては、時間ばかりがかかりどれほども進むことができないと気づいた彼は、オルドリシュと付き従う執事の様を真似たのだった。

 比較的使用人との距離の近かったヴァフ男爵家とは、主家の立ち位置は違うのだとラドミールは理解した。

 そうなってようよう、周囲をじっくりと観察する余裕が生まれたのだった。

 奥に進むにつれて廊下は赤や金が多用され、女性的でいながら派手な内装となっていた。それは全体的に豪奢な、いかにも上級のアリストクラシーアリストクラツィエにふさわしいものと思えた。

 しかし、ふと、到着したばかりの頃に落胆したことを思い出した。

 プリュミスル公爵といえば、田舎の貧乏男爵家でさえ名を聞いたことがあるくらいの大貴族である。

 −−−そう。大貴族なのだ。

 チェキア王国成立以前の分裂王国時代には小国とはいえ王家であったはずだと、来る途中宿泊した宿で紐解いた書物の内容を思い出す。

 領土はその頃から変わっていない。チェキア王国建国によほどの功績があったに違いない。それにもかかわらず、

「小さい………」のだ。

 呟かずにはいられないくらいには、かつての王家としての居城にしては小さく新しい。

 建て替えたのだろうかとラドミールが考えた時、軽い咳払いが二度彼の耳を打つ。わざとらしいそれは、付き従う執事のものだった。

 そうしてようやく、

「さあ、ついたわ。みなそろってあなたを歓迎してよ」

 執事が開けた扉をオルドリシュに背を押されるようにしてくぐった。

 そこはこの館のサロンであるらしかった。

 ゆったりと居心地好さそうにしつらえられたその空間に彼を待ち受けていただろうものたちがいた。

 貴族だと即座にわかるりゅうとした出で立ちは、細身のすっきりとしたものだった。

 ファッションモーダに疎いラドミールでさえ、彼を見るやソファポホヴカから立ち上がった三人を見て、己の身なりを恥ずかしく思ったのだ。

 ラドミールは己でも気を遣ってワードコスティモヴァーローブトゥルフラの中から他所オブレチェニー ナ行きヴィレットを選んだのだ。

 確かに、ヴァフ男爵家は王都からは遠い。カパラチア・・・・・山脈にほど近い鄙びた田舎である。これまではあまり気にかけたことのなかった身支度でその現実を思い知ることになろうとは、考えたことさえなかったのだ。

 自宅でくつろいでいるからこその砕けた服装ゆえの趣味の良さに、彼らには比べるまでもない品格のようなものが加味されている。

 それは、背中を押されるままに踏み込んだ室内の装飾にも現れていた。滑りを帯びたような板張りの床にはこれから厳しくなる寒さを鑑みての毛足の長い織物が敷かれ、窓横に束ねられたカーテンザーツローナドレーププリクリートと調和を描いている。白膠木シュクンパの紅葉めいた壁紙には細い金糸で大ぶりな模様が描かれ、暖炉クルブの白を際立たせている。その装飾的な枠の中では、石炭が物惜しみされることなく炎が贅沢なステップクロークを刻んでいた。

ご機嫌ようドブラー ナアラダ義母上マトカ

「ご機嫌よう、伯爵夫人ハラビエンカ

こんにちはアホイお母さま」

 三人三様の取り繕ったようすに、しかしこの時のラドミールは気づかない。

「ええ。ご機嫌よう」

 そちらにお座りなさい−−−と、ドアドヴェレから遠いソファポホヴカを指し示す。

「わたくしたちにもお茶を」

 ついでとばかりに執事に命じ、ラドミールが座ったのを見計らい、己も腰を下ろす。

「以前話していたでしょう、この子が、次のプリュミスルヴェヴォダ 公爵プリュミスル さまよ」

 にこやかにそう言うオルドリシュに、

レイディダーマ、オルドリシュ!」

 咎めるような言葉が飛んだ。

 それは、

「何か問題でも? イジーク伯ハラビエ イジーク

 カレル・リボール・メドゥナは白い容貌を蒼ざめさせて妻であるはずのオルドリシュをその茶色の瞳で凝視する。きれいに整えられていた金髪の前髪がその苦渋に満ちた額に幾筋かこぼれ落ちる。

公爵ヴェシェ閣下ツティホドゥノスティはまだ生きていらっしゃられる!」

 吐き出すように怒鳴る声も、力ない。

「時間の問題でしょう」

 それを少しも脅威に感じることなく、オルドリシュがするりと躱す。

「不謹慎ですよ」

 若い声が、そっと呟く。

「チェスラフ。あなたの意見など必要ではありませんよ」

 十代半ばほどの金髪の少年を見やるオルドリシュの声は硬い。

これはオムロヴァム

 肩を竦めるチェスラフは石を投げつけられたかのように痛そうな表情をした隣の少女の手を握り締めた。

「ヴァネサ、大丈夫だよ」

ええアノお兄さまムイ ブラタラ

 その四人のやりとりを、ラドミールはただ見ているしかなかった。




********




豆知識


アリストクラシー 貴族、貴族社会、貴族制など。 なので、以前の社交界もこちらの表現に変更しました。


伯爵 Count / Earl の違い。一般的に伯爵は Count イギリスでだけ Earl が用いられる。ちなみに、女性名詞? の Contess に該当する Earl の変化形はないので、Contess が用いられるそう。


公爵閣下 に ヴェシェ ツティホドゥノスティ とルビを入れてますが、元来閣下と言う意味です。

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