第14話【転生者、誠一】前世の傷を乗り越えた先へ
気づけば、中田誠一は第二の生を受けていた。
神と呼ばれるような超常的存在とは会っていない。
転生者専用の特殊な掲示板を見るに何人かは神と対話をした経験があるようだが、自分のように「気づけば転生していた」というケースのほうが多いのだという。
神の気まぐれか、またはただの超常現象のひとつか。
どちらにせよ、もしもこの転生を仕組んだ何者かがいるのなら、誠一は是非とも尋ねたかった。
どうしてよりにもよって官能小説の世界に転生させた? と。
転生者専用の掲示板は通常のネットワークとは異なる、脳内に繋がった特殊な異空間だ。
思考に直結しているのでわざわざ手で文字を打つ必要はない。リアルタイムでの実況も容易だ。
すなわち掲示板の住人たちが誠一に望んでいるまぐわいを子細に伝えることも不可能ではないということだ。
誠一は住人たちと約束していた。
相談に乗ってくれたお詫びに、恋人ができたらその行為を実況すると。
……なんという不義理だろう。
そんな約束、守る気もなかったというのに。
隣人の四人を救うことができれば、もう転生者限定の掲示板は使うことはないと思っていたから、つい浮かれ気味に出任せを言ってしまった。しばらくしたら忘れられるだろうと思っていた。
誠一は決めていた。
今世では決して恋人を作らないと。
できる限り早く自立して、ひとりきりで生きようと。
べつに今世の両親に不満があるわけではない。
むしろ自分には勿体なさすぎるほどに人間ができた優しい両親だ。
……それゆえに心苦しい。
どうあっても、自分では彼らに孫の顔を見せることができない。
前世でもそうだった。
自分を引き取ってくれた心優しい叔父夫婦。
結局、ろくに恩返しもできないまま、自分は短い生涯を終えてしまった。
「お前は私たちの息子も同然だ」と本当の親のように、自分を愛してくれたというのに。
……そう。前世の誠一は、実の両親のもとで育ったわけではなかった。
少なくとも小学生の頃までは。
醜悪。
誠一が生まれた家庭は、そのひと言に尽きた。
父は毎日のように母を殴った。
母はその鬱憤を晴らすように息子の誠一に厳しく当たった。
愛情のカケラなど、その家には微塵もなかった。
お前さえ生まれなければ。
お前もどうせ大人になったらあの男と同じようになる。
お前の身体にはあの男の血が混ざっているのだから。
母はまるで呪いのように誠一にそう言い続けた。
とうの昔に母の心は壊れていたのだろう。
息子の中に流れる父の血が忌々しかったに違いない。
「この遺伝子を残してはならない」とでも思ったのか、母は何度も誠一を去勢させようとした。
ハサミを持った母に寝込みを襲われかけたこともあるが、幸か不幸か気が立った父に無理やり寝室に連れて行かれたので、そのときは難は免れた。
だが誠一に気が休まる暇はなかった。
両親の寝室から毎晩のように聞こえる、父のケダモノのような笑い声や、母の悲鳴が恐ろしくてしょうがなかった。
父の矛先がいつまでも母だけに向くとは限らない。
母にいつ去勢されるかもわからない。
逃げなければ。この地獄から逃げなければ。
誠一は勇気を出して大人に助けを求めた。
証拠になるものは常に用意していた。
結果、父は逮捕され、母は精神病棟から出られなくなった。
身寄りの無い誠一を、叔父夫婦が引き取ってくれた。
彼らは誠一の生い立ちに心から同情し、慈しみ、守ってくれた。
しかし、幼い誠一に刻まれた心の傷はそう簡単には癒されなかった。
その心の傷は、肉体にも影響を与えた。
日常的に見てきた家庭内暴力。
母の精神的な追い詰め。
何度も去勢されかけたというショッキングな経験。
それらが要因となったのだろう。
家庭を作る。子を作る。
それに関わる潜在的な恐怖を植え付けられた誠一は、ある機能を失った。
誠一は、心因性のEDになっていた。
それは、転生した現在でも完治していない。
心が関わっている以上、どれだけ健全な新しい肉体を手に入れようと、過去の記憶を持った魂が悪影響を与え続ける。
EDのまま、官能小説の世界に転生する。
なんという皮肉か。
性的なことが是とされるこの世界で、これほどのバッドステータスはないだろう。
だからといって、恋人を作らないというのは極端ではないのか?
いくら官能小説の世界だからといっても、プラトニックな恋愛だって成立する筈だ。
そういう意見もあるだろう。
誠一も、前世ではそう信じていた。
誠一は何とかEDの治療を試みた。
EDだからといって、べつに性的なことに対して関心がないわけではなかった。機能しないというだけで、人並みに興味はあった。
心因性である以上、ふとした拍子に治る場合もあると医師に伝えられた。
数々の官能小説を読みあさっていたのはその頃だった。
結局、どんな療法も意味は無かったが。
それでも誠一は何とか治りたかった。
将来を誓い合った恋人がいたからだ。
誠一はいっとき本気で画家を目指していた。
絵を描いている間だけは、辛い過去の出来事も忘れられた。
自分の絵で誰かが幸せな気持ちになってくれたら、それは素敵なことだと思った。
彼女とは予備校で出会った。
人物デッサンのモデルになった際に意気投合し、そのまま交際を始めた。
誠一は彼女の絵の才能に圧倒された。
自分は凡人だと認めざるをえないほどの差があった。
世界で活躍するのなら、それは彼女の絵だと断言できた。
やがて彼の夢は、彼女の夢を支える方向に変わっていた。
もともと莫大な学費のかかる美大に進学することへの後ろめたさはあった。
叔父夫婦は誠一の夢を本気で応援してくれていたが、やはり成功するかもわからない修羅の道に進んで負担をかけるわけにはいかない。
美大の道を諦めた誠一は、堅実に勉学に勤しみ、それなりに優良な企業に勤めた。
自分が経済的に彼女を支え、画家としての成功を応援するつもりだった。
プロポーズの際、誠一は素直に自分の身体のことを打ち明けた。
たとえ結婚しても子宝には恵まれない。それでも構わないか、と。
彼女は肯いてくれた。
「私がこれから描く絵が、あなたとの子どもみたいなものだよ」
そう言ってプロポーズを受けてくれた。
幸せな日々だった。
彼女は家事をこなしつつ絵を描き続け、徐々に大きな結果を出していった。
やがて誠一の稼ぎよりも遙かに多額の資金が彼女の功績によって集まっていった。
家はどんどん裕福になっていった。
あなたが支えてくれたおかげよ、と彼女は誠一に感謝した。
きっとこの先も、自分たちには素敵な未来が待っている。
そう確信していた。
誠一は証明したかった。
自分でも幸せな家庭を築けることを。
血の繋がりなど関係ない。自分は決して父のようにはならない。
この先も妻を慈しみ、愛し、支えていくと誓おう。
彼女との間に子どもを作れないことは残念ではあったが、それでも強い精神的な繋がりが幸福を約束すると信じていた。
どうしても子どもが欲しければ養子を考えればいい。
何も問題ない。
自分は素晴らしい家庭を築いている。
そう思っていた。
だが……。
彼女は
お腹にはその男の子どもがいた。
誠一は思い知った。
精神的な繋がりだけでは、愛する者を繋ぎ止めることはできないのだと。
誠一は裁判を起こさなかった。慰謝料も要求しなかった。
とにかく完全に関係を絶ち、すべてを無かったことにして忘れたかった。
誠一は無為に日々を過ごしていった。
何かに取り憑かれたかのように必要以上に仕事に没頭した。
余計なことを考える隙が生じないように、自らを多忙へ追い込んだ。
それしか逃げ道はなかった。
最愛の人に裏切られた辛さ。それからの逃避ではない。
自分の隠された本性から誠一は逃げたかった。
不義理を打ち明けられた夜、誠一は言いようのない衝動に襲われた。
血が滲むほどに拳を握りしめ、溜め込んだエネルギーがいまにも弾けそうになった。
なぜ? 自分は夢を捨ててまで君の夢を……。
口にしてはならない言葉の数々が頭の中で反響した。
脳内に浮かんだのは、母を殴る父の幻影。
そのとき、誠一は怖気が走った。
いま、自分は彼女に何をしようとした?
違う。違う。違う。
自分は父とは違う。
そんな真似、する筈がない。
嘘をつくな。
と、母の幻影が亡霊のように誠一に囁いた。
ほら見たことか。お前もあの男と同じだ。
やはり血は争えなかった。
思い知れ。お前もあの男と同じ末路を辿るんだ。
違う。違う。違う。
自分は、父のようにならないために、幸せな家庭を築こうと頑張ってきただけなのに。
なのに、どうして……。
信じていた幸福は幻想だった。
だがなによりも悔しかったのは、わずかでも自分の気質に父の翳りが顔を覗かせたことだった。
それは最愛の相手に裏切られたことよりも、辛い事実だった。
この血は呪われている。
自分は、家庭を築いてはいけない人間だったのだ。
もう、いい。
自分は一生ひとりでいい。
誰かに裏切られるくらいなら、誰かを傷つけてしまうくらいなら、このまま無意味に人生が終わってしまえばいい。
そうして誠一はますます仕事に逃げ道を求め……過労で短すぎる生涯を終えた。
誠一はそんな己の前世を掲示板で明かした。
隠せるものなら、隠し通したかった。
決して聞いていて気分の良い話ではないから。
だが、もはや明かさない限りは理解を得られない。
自分がどうしてあの母娘たちの思いに応えられないのか、その理由を。
反応は様々であった。
想像もしていなかった過去に動揺する者。
安易に過去を聞いてしまったことを詫びる者。
そんな過去があったのでは仕方がないと納得する者。
過去に囚われるなと叱咤する者。
その上で、本心はどうなのかと問う者。
正直なところ、誠一自身、もうどうすればいいのかわからなかった。
四股という特殊な関係。
原作小説を読んだことで根付いてしまった彼女たちへの憐憫。
……だが、そんなことはもはや大した問題ではない。
いまも尚、拭いきれない前世の記憶と障害。
女性不信とまでは言わない。
だが、異性と特別な関係を結ぶことに対して及び腰になっているのは事実だ。
あの四人をかつての『彼女』と重ねることは、ひどく無礼な考えだと百も承知している。
彼女たちの思いが嘘偽りのない途方もなく大きく重いものであることは鈍感な誠一でも、すでにわかっているのだから。
それでも、恐ろしいのである。
自分の身体では、女としての悦びを与えてあげられない。
ここが官能小説の世界だと思えば思うほど、彼のコンプレックスは強く刺激される。
確かに彼女たちを官能小説の世界の住人ではなく、現実に生きる人間として見ると決めた。
……それでも、この世界が快楽を秩序とした肉欲に支配された世界という印象は付きまとい続ける。
運命は本当に残酷だ。
生きることを半ば諦めていた自分がなぜ第二の生を得たのか。
なぜよりにもよって官能小説の世界なのか。
隣人の母娘を救えれば、それで十分の筈だった。
見て見ぬフリはできなかった。当然だ。死よりも尚惨い生き地獄を味わうとわかりきっている人たちをどうして無視できようか。
だから彼女たちが救われた時点で、表面上の付き合いだけに留めるべきだったのだ。
なのに……深く関わってしまった。絆を育んでしまった。もうただの他人同士に戻れないほど、親密な仲になってしまった。それはなぜか?
……認めよう。
もはや善意だけでは説明しきれない感情を、自分は彼女たちにいだいてしまっている。
不純なのは承知だ。
だが感情までは嘘をつけない。
あの夜、雛未に打ち明けた答えがすべてだ。
『俺は、君たちが──好き、なんだと思う』
心のどこかで誠一は希望をいだいていた。
もしかしたら、彼女たちだけは、自分を受け入れてくれるのではないかと。
肉体の欠陥など関係なく、自分と未来を歩んでくれるのではないかと。
そう都合良く考えてしまう自分を恥じていた。
彼女たちに告白されるまでは。
たとえここが官能小説の世界でも、自分たちは歪な関係を結ぼうとしている。
それでも良い、と彼女たちは豪語している。
皆で幸せになる。それが自分たちにとって最善の道だと。
もうお互いの気持ちはハッキリしている。
だから本当に……あとは誠一の決断次第なのだ。
ずっと女手一つで頑張ってきたエレオノーラを支えてあげたい。
ずっと男性に怯えていた杏璃に愛情を捧げたい。
ずっとお嫁さんに憧れていた夏希の夢を叶えてあげたい。
ずっと自分と家族の幸せを第一に考えてきた雛未の思いに応えてあげたい。
それが誠一のまぎれもない本心なのだ。
だが……どうしても怖い。
彼女たちに見捨てられることがではない。
いま尚、誠一の悪夢に現れる幻影……前世の実父と実母が恐ろしいのだ。
誠一が夜にうなされるのは、原作小説の記憶を呼び起こしているからではない。
もっと、もっと恐ろしい悪夢だ。
悪夢の中で、実父は門原家の女性に暴力をふるっている。
自分はそれを止めようとするが、実母がしがみついてそれを止める。
そして耳元で囁かれる。
転生しようが意味はない。血の運命からは逃れられない。
お前はきっとあの男と同じになる。
そして気づくと、彼女たちを殴っているのはいつのまにか誠一自身になっている。
いつもそこで悲鳴を上げて目を覚ます。
わかっている。
これは自分自身の心の問題だ。
生まれ変わった時点で、あの忌々しい両親による血の呪縛からは解き放たれている筈なのだ。
……だが、どこかで悪魔が囁く。
魂に刻まれたものは、いつまでも残ると。
本当に、自分は彼女たちと一緒にいていいのだろうか?
ただでさえ、困難が付きまとうであろう特殊な関係だ。
精神的な繋がりだけで、いつまでも五人揃って幸せになれる保証がどこにある?
身の内に、得体の知れない黒い爆弾を抱えたままだというのに?
そんな本音すらも、誠一は掲示板で明かす。
彼女たちを信じられないのか? と尋ねられる。
そんなことはない。
一番信じられないのは自分自身だ。
怖いのだ。どこかで、衝動的に、彼女たちを傷つけてしまう自分がいるかもしれない。その可能性が。
《……なら、その苦しみも一緒に背負ってもらえ》
いつも自分にアドバイスをくれる存在が、そう言う。
《どちらかが一方的に与え、一方的に与えられるだけの関係は確かに間違っている》
《喜び苦しみも、すべてを分かち合ってこそ、本当の信頼関係が築ける》
《ひとりで抱えるのではない。全員で背負う。手と手を取り合って未来を生きる》
《……それこそが、お前が夢見ていたものじゃないのか?》
誠一は涙を流した。
その通りだった。
本当は、前世でもわかっていた。『彼女』の心が徐々に自分から離れていることを。
自分はそこから目を逸らして、理想的な未来ばかりを見ていた。
良い旦那を演じ続けた。
すべきことは、そうではなかった筈だ。
意固地にならず、互いの心を裸にして、真正面からぶつからなければならなかった。
そうすれば、まだ、自分たちはやり直せたかもしれない。
本当の夫婦になれたかもしれない。
今世でも、同じ過ちを繰り返したいか?
否だ。断じて否だ。
彼女たちはこれまで、自分と真正面に向き合ってくれた。
向き合った上で、秘めた思いを告げてくれた。
ならば今度は、自分の番ではないのか?
誠一は深く息を吸う。
覚悟は固まった。
誠一は掲示板の住人たちに深い感謝の言葉を送った。
ありがとう。ようやく決意ができた、と。
もう逃げない。目を逸らさない。
打ち明けよう。さらけ出そう。
自分の裸の心を。
* * *
「皆に、言わなくちゃいけないことがあるんだ」
門原家のリビング。
四人の女性の前で、誠一は決意を固める。
彼女たちに明かそう。
自分が抱えるすべてを。
もちろん、前世のことやこの世界のことまでは話せないけれど、可能な限りは話そう。
自分の肉体のこと。自分のトラウマのこと。そして……彼女たちに向ける思いを。
エレオノーラが慈しみ深い顔で見つめてくる。
どんな答えでも貴方の意思を尊重します、と笑顔が告げていた。
夏希が緊張した面持ちで手を組む。
少女にとっては、一世一代の大勝負のようなものだ。
雛未が幼さを感じさせない包容力に富んだ笑顔を向けてくる。
大丈夫だよ? ゆっくりお話してね? と優しく温かな思いやりが伝わってきた。
杏璃が発情した顔で鎖付きのチョーカーを装着し「いつでも準備はできています」とばかりに鼻息を荒くする。
彼女の背後にはモザイクをかけざるをえない道具で溢れかえっていた。
見なかったことにしたかったが、彼女たちと真っ直ぐ向き合うと決めたばかりなので、気合いで目を逸らさなかった。
四人の女性の前で誠一はこれまでのことを思う。
まさか、自分がこのような決断をするとは考えもしなかった。
でも自分がこの世界に転生し、彼女たちと出会ったのは、きっと意味がある。
いまならそう思えてくる。
どのような結末に至るか、それはわからない。
だがどんな未来でも、それが運命だと受け入れよう。
いまは、ただ、この思いを伝えたい。
彼女たちに、感謝したい。
また、こうして誰かを愛おしく思える日が訪れたことを。
「俺は、君たちのことが……」
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