第六話
梅雨の季節にもなれば、顔も知れ、環境にも慣れ、緊張が解ける頃である。学校行事もそれなりにこなし、関係が深くなり、互いをニックネームで呼び合うようになるといよいよひとり身の者にとっては都合が悪くなる。
永遠なるさん付けや接し方に差が生まれることで、場の空気は言えば水と油の状態。深刻になればなるほど浮き上がり、悪目立ちをするのだ。それでも攻撃的な人間がそこに居なければ問題はあるまいが、世の中はそう甘くない。
このクラスも例外ではなかった。
「お前お笑い芸人になるんだろ?」
隣の席に座る女子生徒は、三人組に囲まれていた。
それまでもポンと体当たりなど、さりげないちょっかいは度々目撃していた。どうやら遂に真っ向勝負を仕掛けられたようである。
「芸名考えてやんよ」
「……ブス子、とか?」
シーンとした教室内にそいつらの笑い声はよく響き渡った。ドキドキと鼓動が高鳴り、緊張で思考が停止する。
あの時の記憶が、蘇っていた。何かしたくても何もできない無力な自分。するとキーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り、攻撃は一時中断される。
標的にとっては救いの鐘の音。授業が始まるも、瑞樹には葛藤が押し寄せていた。
『正しくあれ』と課せられた使命が、再び重く伸し掛かり、息苦しい。この哀れな少女からはもう生気を感じられず、灯が今にも消えていきそうだった。
またか、またこれが始まるのか。悪い奴は何処に行っても、一定数必ず存在する。これが大人になってからもずっと続くのだろうかと考えると、気が萎えた。誰かが必ず生贄にされ、その犠牲から逃れた者だけが、人生を謳歌できる。
そんな世の中、素晴らしくも何ともない。
「では、出席番号二十三番」
と聞こえた途端、ハッとして我に返る。
こんな状況で、学問など入る余地はない。単なるアンラッキーデイで済ますにはあまりにもダメージが大きいこの一日。
少女は立ち上がる。
そして、沈黙した。
「どこか、わかるか?」
どこが何を指しているかもわからず、瑞樹は慌てて教科書と黒板を交互になぞった。
緊迫感に包まれた教室。秒針だけが、静かに時を刻んでいた。
「ちゃんと、聞いていたか?」
苛立ちの声色が生徒を威圧する。
そこでやっと、「……わかりません」とか弱い声が発せられた。いまにも泣きそうなその表情に、心が沈んだ。
放課後は、その子が席を立つまで、待った。知らぬ存ぜぬでそこを去るのは、薄情だと思った。自らも辛い気持ちがわかる分、他人事のようには捉えられない。寂しげな背中を見送ると、そのまま美術部の部室へ向かった。
推薦入試で利用した義理で入部したが、すっかり幽霊部員となっていた。皆思い思いにスケッチブックへ芸術を表している。
それが妙に落ち着いた。
ここではそれぞれが独自の世界に夢中になり、他者に干渉をしない。瑞樹も同じ様に作業を始めた。悶々とした感情を吐き出し、気が済むまで続ける。
辺りはすっかり日が暮れて、人もぽつぽつと少なくなって行く。
筆はいつまでも忙しなく、色を乗せていた。
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