第二話


 止まない雨はないと言うが、中学二年生になれば転機が訪れた。瑞樹の描いた絵が学校で表彰されたのだ。 日頃の『芸術活動』が功を奏したのだろう。

 目立ちたがらぬ本人にとっては、不愉快なだけであったが、意に反して母は大いに喜んだ。

「良かった。本当に良かったね、瑞樹」

 中学校の授業で描いた絵が表彰された子供に対するその賞賛の仕方は、一般家庭と比較すれば、度を越えている。瑞樹の両肩に熱めに手を置き、ゆらゆらと揺らした。

 久し振りに間近で見るその表情は、少し窶れていた。口をギュッと噤み、泣かぬよう堪えている。

 その潤ませた涙の向こうに、近頃の様子が思い出された。


 父親の仏壇を前に、眠る姿を見かけていた。傷が癒えないのは瑞樹だけではない。明るく振舞おうが、暗く振舞おうが、心がその傷を癒す時間は、変わらない。

 自分が父親の代わりになる。

 明朗快活で、太陽のように照らしてくれた人。今度は自分がその役を担わなければ、と必死だった。

 母もやる、そして父もやる。

『きっと大丈夫』

 その言葉を信じて。

 癌で死ぬ人間、そして死なれる人間を、職業柄幾度となく見届けて来た。誰よりも熟知していた筈なのに、何故気づけなかったのか。私がいながら、何故あの人をこんなにも早く逝かせてしまったのかと、自責の念に駆られた。

 日増しに衰えるその様子から、時の迫りを予感した。

「どうしよう。どうすればいいのかわからない、わからないよ……」

 溢れ出る悲しみと恐怖を抑え切れず、病床に縋りつく。肩に触れる手の感触が、とても温かい。

「きっと大丈夫。大丈夫だよ」

 子供を諭すように囁かれる声が心地良く、どこか調べのようで落ち着いた。

『お父さん、あの子を守ってください。どうか、お願いします』

 こうして仏壇を前に手を合わせることが、日課になっていた。そっと目を閉じると、傍にいてくれているような気がした。

 だがその祈りとは裏腹に、息子は遠く離れ、暗闇の底まで落ちていく。

 あの日以来、口を利かなくなった。そこにあるのは怒りではなく『無』。それまでのあの子は、跡形もなく消えてしまった。生きる人形も同然の姿に、胸を締め付けられる。

 大切な我が子を不幸にしてしまったのは自分のせいだと、己を憎んだ。憎んで憎んで、その先に待っていたのは、失意。父親になることはできない、という厳しい現実を突き付けられるのだった。

 学校で良からぬことが起きている。それは十分に察していた。自信を失った自分に何ができる。焦りばかりが押し寄せるが、心を閉ざし続ける息子に、どう接していいのかわからない。怒りに任せてぶつかって来られた方が、まだ対処の仕様があるのだが。それでも下手に動くことはできない。凶と出れば、より息子を苦しめてしまう。これ以上あの子を傷つけることは許されない。

 考えろ、考えるんだ。

 夫の遺影に向かい、絞り出した案について、『作戦会議』をした。そしてそのまま眠りに落ちることもあった。

 背中にはブランケットが掛けられていた。優しい子。父の血がしっかりと受け継がれている。あんな良い子が、どうしてこんな目に遭わなければならない。神などやはり、いないのか。そんな時に舞い込んだ吉報であるからこそ、人一倍嬉しかったのだ。

 そこに希望を感じた。きっとこれから、全てがうまくいく。お父さんがこうして見守ってくれているから、などと期待が膨らんだ。

 一方で息子は、無のままであった。母が喜ぶ様子を認めると、すぐ部屋に戻ってしまう。頼りない母親で本当にごめん、と閉められたドアに向かって、投げかけた。

 表彰状を手に、一体どんな絵を描いたのか、と思考を巡らせた。瑞樹は一切教えていなかった。


 あの時の教室は、真面目に取り組む生徒などおらず、雑談に花を咲かせていた。テーブルには色とりどりの果実が盛られ、その周りを取り囲んで座る様子が物珍しいのか、皆興奮気味であった。

 そんな喧騒の中にそっと佇むひとつの林檎。自然とそれに惹き付けられた。

 手慣れた黒塗りの背景、そこに真っ赤な林檎はとても象徴的で、どこか不気味さをも漂わせる。背後にある額縁の中には、半分に切られたその中身が描かれていた。

 それは林檎の背後を映し出す鏡。暗がりの中に浮き出るその林檎の表と裏。

 部屋に戻った瑞樹は丸められた画用紙を開き、じっと眺めた。視線の先にあるのは、額内に描かれた林檎の中身。種に見える部分は全て虫だった。中心から外を抉るかの如くその黒い芋虫は果肉を蝕んでいたのである。

 中二の作品としては意味深く、鑑賞者をゾッとさせるものがあった。

 瑞樹はそのまま紙を、グチャッと握り潰した。

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