第65話 やがて、白は混ざり合い、解けていく
日曜日、朝。
晃晴は前にひまりと練習したこぢんまりとした公園のコートに1人で立っていた。
6月に入る前の晴れ渡った空が見下ろす中、気合いを入れるように靴紐を固く結び直し、「よし」と呟く。
身体の調子を確かめるように軽くストレッチをこなしてから、転がしていたボールを拾い、リズムよくタタン、とドリブルをついてみる。
手に吸い付くような感覚の時は大体調子がいいという証拠だ。
その感覚に従い、ミドルシュートから慣らすのではなく、いきなりスリーポイントラインの外側に立った。
一呼吸置いてから、膝を軽く曲げ、力まずに構えたボールをジャンプともに手首のスナップを効かせて放つ。
綺麗なバックスピンがかかったボールは綺麗な放物線を描き、リングに掠ることすらなく、パシュッと気持ちのいい音を立ててネットを潜り抜ける。
「……うん」
打った瞬間から入ることはなんとなく分かったが、実際に入って自分の調子がいいことが間違いないことは確認出来た。
(まあ、今日の主役は俺じゃないし、俺の調子が良くても仕方ないんだけど)
変に調子が悪くて縁起が悪いよりはマシだろう。
しばらく身体を動かし続けて、息が少し上がり始めた晃晴はシャツの裾で汗を拭い、スマホで時間を確認した。
「……そろそろか」
時刻は9時45分。
画面を確認した晃晴が呟き、スマホをポケットにしまうと、それを見計らったように足音が近づいてくる。
足音がした方に肩を向ければ、視界に映るのは絹のようにさらりとした白い髪。
待ち人である姫川ひまりが、元々の目つきのせいで、眠たいのかそうでないのか分かりづらい瞳をぱちりと瞬かせていた。
「わたし、時間間違えた……?」
申し訳なさそうな表情をするひまりに、晃晴は首を振る。
「いや、俺が早く来て練習してただけだ。急に呼び出したりして悪いな」
「……別にいいよ。暇だったし。でも急にお母さんから日向から電話って言われた時は驚いた」
一昨日の夜、晃晴が電話をかけたのは侑の叔母であり、ひまりの母親である姫川雪だった。
ひまりの連絡先を知らないので、雪を経由して連絡を取ったのだ。
さすがに明日というには急だったので、明後日10時頃に話があるからあの公園に来てほしいという旨を伝えると、ひまりは訝しんでいたが、こうして来ることを約束してくれて、今に至るというわけだった。
「それで、話ってなに?」
「……ああ。それなんだけど」
区切った間を埋めるように、タン、と1回ボールを跳ねさせる。
「侑のことなんだけど」
「お姉ちゃんの……?」
「……前に侑のことどう思ってるのかって聞いたよな?」
「うん……?」
なぜこんなことを聞くのか、話の要領を得ないのだろう、ひまりは胡乱な目をこっちに向けつつも相槌を返してきた。
「侑のことを嫌いになりたくないから、自分から距離を置いた。本当は昔みたいに仲良くしたい。けど、自分から距離を取っておいて、今更どんな顔をして会えばいいのか分からない。そう言ってたよな?」
「言った、けど……」
「……無遠慮に踏み込むことになって悪いけど、聞かせてくれ。姫川は本当にこのままでいいと思ってるのか?」
ここまで聞くのは躊躇ったが、晃晴は少し逡巡し、言葉を投げかけると、ひまりの眠たそうな蒼い瞳がピクリと揺れる。
それから自信が無さ気に胸元で、右手をきゅっと握った。
「……いい、とは思ってない。……けど、どうすることも出来ないよ。これも言ったよね。そんな都合の良いことは出来ないって」
「ああ。言ってたな」
「お姉ちゃんだって、今更そんなこと言われても困るだけだと思う。急に態度がぎこちなくなって、よそよそしくなったわたしのことなんか、きっと嫌いだろうから」
晃晴がなにも返さずにいると、ひまりもそれきり黙ってしまう。
当然、2人の間には沈黙が降りたが、風が木々を揺らすザーッという音が、沈黙を攫っていった。
「……姫川がなにを考えているのかはよく分かった」
「こっちは日向がどうしてこんなことを聞いてきたのか分かってないんだけど」
疑問が晴れないままの表情で眉根を寄せたひまりが、「このことを聞く為だけに呼んだの?」と問いかけてくる。
怒ってるというよりは、ただただ疑問に思ってるという口調だった。
「半分正解」
「半分?」
ひまりが首を傾げたのを合図にするように、晃晴はポケットからスマホを取り出し、
「——ってわけなんだけど、ちゃんと伝わったか?」
ひまりではなく、スマホに向けて喋る。
そんな晃晴の行動を見ていたひまりが「え、え?」と戸惑っていると、足音が近づいてきた。
「『——はい。確かに』」
聞こえてきた声はスマホとコートの入り口からの2重。
晃晴とひまりが入り口の方へ視線を向ければ、そこにはスマホを片手に持っている侑の姿。
「な、なんでお姉ちゃんがここに……!?」
「今の会話を通話を通して侑に伝えること。それが今日の目的のもう半分だったんだ」
片手に持ったスマホをひらりと振りながら、唖然としたままのひまりに説明してみせる。
「どうしてこんなこと……」
「当たり前だけどさ。自分がどう思ってるかなんて、言わないと伝わらない。そりゃ、言っても伝わらないことだってあるけど、お前らはそうじゃないだろ」
侑とひまり。晃晴は2人の気持ちを知っている。
でも、晃晴が2人の気持ちを知っているとしても、なんの意味も持たないだろう。
晃晴が侑とひまりにそれぞれの想いを伝えるのは簡単だが、それでは根本から仲直りとまではいけない。
2人の間に隔たっている壁を完全に壊すには、2人が直接顔を突き合わせて、自らの想いを声に出して、話すしかない。
だから、晃晴は自分が友人に使われた手法から、この手段を、内緒で繋いだ電話越しに気持ちを聞かせる、という強引な手を使うことにしたのだった。
近づいてきた侑と入れ替わるように、少し後ろに下がる。
「俺、席外してようか?」
「……いえ。ここにいてください」
動揺したままのひまりに侑が向き合う横で、晃晴は「……分かった」と呟き、静観する姿勢を取った。
居心地が悪そうに伏し目がちになっているひまりと、ひまりを見つめてはいるが、不安そうに腹部のあたりで右手で左腕を掴んでいる侑。
やがて、どこかで車のクラクションが聞こえてきたのを皮切りに、
「……ごめんなさい」
侑がひまりに頭を下げた。
「な、なんでお姉ちゃんが謝るの……!?」
「私、気がついてあげられませんでした。一緒に住んでいるのに、お姉ちゃんなのに……ひまりちゃんが苦しんでたことに全然気がつきませんでした」
侑が太ももの辺りに置いた両手をぎゅっと握る。
「それどころか、ひまりちゃんが私を嫌ってるんだと決めつけて、私も距離を取ろうとしていたのです」
「ち、違うよ! お姉ちゃんはなにも悪くない! 全部わたしが……わたしが悪いんだよ!」
頭を上げない侑に、ひまりが大きく頭を振った。
「お姉ちゃんのこと、本当に尊敬してて、大好きなのに、それなのにわたし、お姉ちゃんに嫉妬して……! 嫌いになりたくないなんて、それらしい理由つけて、お姉ちゃんから逃げたのはわたしの方なんだよ!」
ひまりが顔を悲痛に歪め、胸元を掴み、叫ぶ。
「どう考えたって悪いのはわたしで、謝るのもわたしだよ! だから、だから……お姉ちゃんが謝らないでよ……! わたしがどうしようもなく、バカだっただけなんだから……!」
ひまりの瞳から零れ落ちた雫が、ぽたり、ぽたりと地面に染みを作っていく。
見ているだけの晃晴でさえも、胸が締め付けられるように痛みが伝わってくるのなら、2人の痛みはどれくらいなのだろうか。
けれど、この場を作った自分が目を逸らすわけにはいかない。
嗚咽混じりのひまりの本心を懺悔を聞いた侑は、顔を上げ、
「そんなこと、ないですよ」
そっと、ひまりを抱き締めた。
「私が頑張れていたのは、ひまりちゃんのお陰なのですから」
侑に抱き締められたひまりが肩をピクリと揺らす。
「ひまりちゃんは凄く頑張り屋さんでしたから、私も姉らしく、ひまりちゃんの見本になりたかったのです。凄く努力家のあなたが、私は自慢だったのですよ?」
侑が涙を流すひまりの頭を、言い聞かせるように、優しく撫でる。
「ですけど、私が、ひまりちゃんを追い詰めていたのですよね。だから、やっぱりごめんなさい」
「そん、なの……わたし、わたしだって……! ごめんなさい……ッ!」
「はい。許します。ひまりちゃんも、私を、こんなダメな姉を許してくれますか?」
ひまりは侑の肩に顔を埋め、何度も何度も、頷いてから、大きな声を上げて泣き始めた。
「……こんなに、簡単なことだったのですね」
侑はそんなひまりをあやすように、瞳には涙を浮かべながら、微笑む。
やがて、数分ほど時を要し、ひまりが侑の肩から顔を上げた。
「……お姉ちゃん、ごめん。服汚しちゃって」
「このくらい大丈夫ですよ。久しぶりに甘えてくれて嬉しかったです」
「わ、忘れて……! とは、言わないけど、泣いたことはお母さんには絶対言わないで! 日向も!」
「あ、ああ」
急に矛先が向けられ、晃晴がたじろぐと、侑がくすくすと笑う。
「……ひまりちゃん」
「……なに、お姉ちゃん」
大声を上げて泣いたことが恥ずかしいのか、ひまりがややぶっきらぼうに返事をする。
「これからは、たくさん話しましょう。これまでのことを埋めるくらい、この先のことを」
そんなことは気にしないと言わんばかりに、蒼い瞳に慈しみの色を宿した侑がそう告げると。
「……うん」
ひまりは素直に頷いてから、侑の方をちらりとうかがうように「あのさ」と口を開いた。
「わたし、お姉ちゃんと同じ学校に通ってもいい、かな?」
ひまりの問いかけに、侑は目を丸くしたものの、すぐに口元を綻ばせ、
「はい。待っていますね」
もう1度、抱き締めたのだった。
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