第57話 どうして……?
イングリット嬢は支えられつつも意識はなんとか保っていました。ふらつきつつも立ち上がろうとしたところでリヒャルトが椅子を差し出したのでそれに座りました。御令嬢にしてはなかなか根性があるなとみんなが感心していました。
「今のアンジェリーク様は家で認められているということですか?」
「家族としてはやめろと言いたくはなるけど、ザクセンとしてはむしろ好都合になっているんだ。アンジェの魔力量のことは知っているだろう?」
「……なるほど」
イングリット嬢は合点がいったとばかりに頷きました。王族並みの魔力量を有し、完璧令嬢と言われるほどに洗練されていたアンジェリークを次期当主にと押す声は無視できないほどにあったのです。アンジェリークが散々暴れ回ったおかげで今ではほぼパトリック一本に纏まっています。イングリット嬢もその辺りの事情は知っていました。
「下手すればザクセン一門が割れかねませんでしたからね。私が昔のままやってたら今頃皇子の婚約者にされていたと思いますよ」
ゲームでそうなっていたというのもありますが、冷静に分析すれば
アンジェリークがそう言うと、皇子は凄まじく嫌そうに顔を顰めました。アンジェリークは投げナイフを鞘ごと皇子に向かって投げました。皇子は特に危なげなくそれを受け止めました。
「ナイフを人に向かって投げるんじゃない」
「投げナイフは人に向かって投げる物だから問題ありません」
皇子は受け止めたナイフを前腕のみで鋭く投げ返すとアンジェリークは危なげなくそれを受け止めました。
「問題しかないじゃないですか! 怪我したらどうするんですか!? 一体何を考えているんですか!」
イングリット嬢が悲鳴を上げながら立ち上がりました。さっきまで気を失いそうになっていた少女の急変に室内の皆が目を丸くしています。そして数瞬してアンジェリークに毒されていることに皆が気付きました。
「鞘に入ってるから刺さりませんよ」
「鞘に入っているとかいないとか関係ありません! そもそも堅い物を人に投げつけたら危ないでしょう! 目に当たったらどうするんですか!」
「ローザが治してくれますよ」
「治る治らないの問題じゃありません! 倫理の話をしているんです! 治るからって相手に怪我をさせても良いなんてことはありません!」
珍しいことにアンジェリークが口で押されていました。論点ずらしと勢いで誤魔化そうとするアンジェリークの論法は論議慣れして誤魔化しの効かないイングリット嬢のようなタイプにはかなり弱いのです。
アンジェリークは一瞬黙ると、スッと立ち上がって窓から外へと飛び出していきました。あまりにも唐突であまりにも自然な逃走に誰もすぐに反応できませんでした。ハッと気が付いたイングリット嬢が窓に駆け寄ると、ちょうどアンジェリークがチラチラと振り返りながら向かいの校舎へと逃げ込む所でした。
「逃がしません! 絶対に!」
「イングリット様!?」
イングリット嬢はとても侯爵令嬢とは思えない見事なフォルムで教室を飛び出し、お付きの令嬢はそれを慌てて追いかけて出て行きました。
「……帝国騎士とは思えない見事な逃げっぷりだ」
「あの人を一般的な帝国騎士と見るのは間違いだと思います」
信じられない物を見たといった様子のオリバーにマリアンネが引き攣った笑いで言いました。
「勝てないと思ったら逃げろとは私は帝国騎士団で後輩に教えてましたよ。仲間を連れてきて囲んで殴れと続きますけど」
その声にオリバーとマリアンネが悲鳴を上げました。そしてアンジェリークが窓から部屋へと戻ってきました。
「お前にしては随分とのんびり逃げるなと思ったらそういうことか……」
皇子はなるほどと頷きました。アンジェリークが本気で走ればイングリット嬢が窓際に来るまでの間に向かいの校舎へと逃げ込むことなど容易いでしょう。
「これで暫くは保つでしょう」
「まぁ、向こうまで逃げた人がすぐに戻ってくるとは思いませんよね」
「後でイングリット嬢になんて詫びよう……」
ローザが呆れたようにいい、アレクサンドラが頭を抱えました。身内は大変だなぁと皆が他人事のような感想を抱きました。実際他人事ではありますが。
「しかし、随分とまともに育ちましたねイングリット様は」
「幼い頃は違ったのですか?」
「いえ、小さい頃から真面目な子でしたよ。ただ、上級貴族やっててよくもまあ、あんなに真っ直ぐ育ったなと」
「ちょっと前までお前がアレよりも真っ当だと言われてたよ」
遠い目をしてアレクサンドラが言いました。
「イングリット様は私とは方向性が違ったとは思いますが……もう一度聞きますけどハットリ様としてはどう思いましたか?」
「……貴族としてはともかく、人間としてはかなり常識的な方だとは思いました」
本人に対して諫言と言って本当に諫めるのは貴族らしくないでしょう。むしろそれを隙として同級生の貴族筆頭であるアンジェリークを蹴落とし立場を奪う、つまりは己自身が主導権を握るというのが高位貴族の在り方でしょう。しかしながら彼女はそれをせずに真っ正面からアンジェリークを正そうとしました。彼女のそれは主人に対する忠臣の態度であり、同派閥内においてアンジェリークに並ぶ立場であるイングリット嬢がすることではありません。皇帝の縁戚である公爵家ではない貴族の最上位、侯爵家の令嬢たるイングリット嬢が主とするべきなのは皇帝、もしくは皇妃か皇女です。それでも直接諫言したのはそれだけかつてのアンジェリークがイングリット嬢にとって理想だったのでしょう。
そして諫言内容は極々普通というか当然というか、真っ当に貴族として過ごしてくれと言う常識的な内容ばかりでした。常識に両手で中指立てているアンジェリークに対しては当然と言える諫言ではありますが、そんなアンジェリークを見て常識を失わない辺りがかなり常識的な人物であると言えるでしょう。普通であればこの部屋のメンバーのように常識を破壊されます。
「そうですよね。皇子の婚約者にちょうど良いですよね」
「急にどうしたお前」
あまりにも唐突過ぎる話題転換に当事者である皇子がツッコミを入れました。
「なんというかですね、仲良いじゃないですか私と皇子は」
「まぁ、仲違いする理由も意味もないしなぁ……」
帝国の第一皇子と皇帝派のトップの娘、立場的に仲違いする理由はなく、そして帝国騎士団で共に鍛練を積んできたこともあり、お互いに友人と言えばコイツというぐらいの関係です。
「そして、私の家族はともかく親戚には阿呆がいるわけです」
「お前の言うとおりイングリット嬢は婚約者として素晴らしい女性だと私も思う」
全てを察した皇子は真面目な顔で頷き、それをアンジェリークはジト目で睨みます。
「何がそんなに不満なんだお前は」
「別に貴方と一緒になりたいとは毛ほども思いませんが、だからといって露骨に嫌がられるのは女として腹が立ちます」
「お前とは永く友人として付き合いたいとは思うが自分の女には絶対にしたくないな」
「なるほど、同意見ですね」
アンジェリークは腕を組んで何度も頷きました。皇子としてはあまりにも破天荒すぎるアンジェリークを見てきているおかげで女と思えず、アンジェリークとしては色々教えてきた皇子が自身の実力を超えつつあるのが気に入らないため異性として見られないのです。
「見つけました! やはり戻ってきていましたか!」
イングリット嬢が扉を勢い良く開けて現れました。怒りのあまりか顔が真っ赤に染まっています。
「おお、思ったよりも早く気付きましたね」
「ええ! 女の勘という奴ですね!」
わざとらしく驚くアンジェリークにイングリット嬢は笑顔でツカツカと近寄っていきます。
「ところでイングリット様は婚約者はいませんでしたよね?」
「……いませんがそれが?」
イングリット嬢は口を開こうとした所でアンジェリークに先制され、怒りを飲み込んで問いました。
最近の帝国貴族で学園前に婚約者がいないというのは珍しい話ではありません。学園内での恋愛等で揉める事案が多発した時期があり、現在では半々ぐらいの割合となっています。イングリット嬢は五人兄弟の四番目で、長女も次女も同派閥で家の足固めになるところにすでに嫁いでおり、長男は学園で郵趣な成績を保持しており将来を期待されている状況、イングリット嬢はかつてのアンジェリークに陶酔していた時期もあったため保留されているのです。その辺りの事情はアンジェリークも頭の片隅に入っていました。学園に来る前にメイドのクララに何度も教えられていたからです。
「ちょうど今、皇子の婚約者にイングリット様はどうかなと推していたところです」
「……何故ですか?」
「皇子の婚約者にふさわしいと思ったからです」
ニコニコと笑顔で答えるアンジェリークにイングリット嬢は混乱したように視線を彷徨わせます。怒りを飲み込んだことで皇子がいるところで声を荒げるのはマズいのではという自制心と冷静さが戻ってきたためアンジェリークの言葉を理解してしまったのです。
アンジェリークの台詞を否定する声はありません、いやマジかよお前という表情はいくつもありますが。そして皇子は興味深げにイングリット嬢を見つめています。つまりはガチだとイングリット嬢は理解し、頭の中で計算を組み立てていきます。
議会が中央行政を牛耳っている現在、皇帝の権力というのは帝都で屋敷が吹き飛ぶ大爆発が起きたなどの緊急時以外はほぼないと言えます。ゆえに貴族派は実権のない皇族に連なるよりも貴族同士での連なりを重視しており貴族派内で皇族の血を入れようという者はほぼいません。そもそも貴族派は魔力主義を嫌っているため魔力に大きな差のある婚姻は好まれないというのがありますが。
当然ですが皇帝派では事情が違ってきます。皇室を立てようというのが基本的な方針であるため皇室の血を入れることが派閥の求心に繋がったりするのです。ではイングリット嬢と皇子の婚約はオストフリースラント家の利益に繋がるかと言えば違います。皇帝派の主流派の長であるザクセン家に追いつかんとするオストフリースラント家ですが、その野心的な動きを警戒している家はもちろんいます。だからこそ政略結婚で足固めをしたわけで、ここでイングリット嬢を皇子の婚約者になどとなれば周囲から袋叩きにされることは間違いありません。オストフリースラント侯爵としてもあくまで発言力を増すことが目的であってザクセン家の立場を脅かすつもりは毛頭ないですし、勢力を伸ばすための足固めの最中に余計な揉め事など招きたくはありません。
ただし、アンジェリーク、というかザクセン家側から提案されたのであれば話が違ってきます。大家であるオストフリーラント侯爵家と比べてすら血筋も歴史も実力も立場も上のザクセン家からの提案であり、断る理由もないのに断るのは無礼とも言えます。ザクセン家の薦めという名分があればやっかみは生まれても攻撃されることはないでしょう。それは提案したザクセン家に対して攻撃するのと同じだからです。最も穏便にオストフリースラント家の力を引き上げる政略結婚でしょう。
そしてイングリット嬢個人としては皇子のことは外見がやたら大きくて怖いけど好ましい人間であるとは思っています。アンジェリーク主催の意味不明な集まりに参加しているものの、癖のある同級生を引き連れてダンジョン攻略に挑むなど面倒見がよかったり、何故かやたらとエルフに慕われていたり、身分関係なく誰とでも丁寧に接する姿が噂になったりと学園で皇子は高評価されているのです。学園史上最悪と言われるクソヤベえ奴と連んでいるから積極的に関わろうと思う人は殆どいませんが。
「急な話しで戸惑うだろう。ただ、恥ずかしい話だが、イングリット嬢のような素敵な女性を逃してしまうと私にはなかなかチャンスがないのだ。婚約はともかく、お互いをよく知るための機会を私に与えてくれるとありがたい」
皇子は必死でした。アンジェリークが婚約者になる、というのはザクセンの脚を引っ張りたい人間からすれば絶好の機会になり得るのです。阿呆が水面下で話を進めれば本当に事が動きかねません。
「私にそのような名誉をいただけるのであれば是非に。ただ、いきなり婚約というのは確かに少々戸惑いますので期間をいただけるのであれば私もありがたいです」
クソヤベえ奴とはどうせ関わるのだから皇子と契りを交わすのはアリ、イングリット嬢は冷静に判断しました。
噂以上にヤバイ令嬢を見てかつてないほどブチ切れて自身を置き去りにした主をようやく見つけたら何故か皇子と婚約を結んでいた、ララ子爵家令嬢ベティーナは状況を理解出来ずに固まっていました。
…………………………………………………………………………………………………
まさか自分自身の骨を直接見る事態に陥るとは思わなかったぜ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます