第7話 環境破壊
黒の森は複数の国家、領地を跨る巨大な森です。賊だけでなく強大な魔物が住まう森は何処の国の領地という解釈はなく、黒の森そのものが領域線として機能しています。聖カロリング帝国で最も広く黒の森と接しているのはザクセン公爵家です。黒の森からの敵対者の侵入を防ぐ最前線であり、黒の森周囲の豊かな土地を利用した大穀倉地帯を有する重要な領地です。ゆえに帝都から少々離れていようとも最も王家から信頼のあるザクセン公爵家が治めているのです。
そんなザクセン公爵領の黒の森近くを一台の馬車が数騎の護衛とともに走っています。馬車は全力疾走でもびくともしない実用性の高い実直な造りながら、帝都での流行を取り入れた配色や細部の飾りが洗練され、位の高い武家貴族をイメージさせます。実際にその通りで、馬車に描かれている家紋はブルヒアルト侯爵家のものです。
ブルヒアルト侯爵家はザクセン公爵家から独立した親戚筋の貴族であり、その関係は今でも強く、ザクセン公爵の派閥のナンバー2はブルヒアルト侯爵です。領地はすぐ隣で、黒の森に接しています。
「……本当に治安が良くなっているな」
馬車の中でブルヒアルト侯爵家当主、フリードリヒ・フォン・ブルヒアルトがぽつりと呟きました。
侯爵は最近黒の森近くの治安が急速に良くなっているという報告を聞いて近くの村々を視察をしていました。そして証言からザクセン領側から徐々に良くなってきているという結論を得たため早馬を出してザクセン家にアポを取り、話を聞きに向かっているのです。
「だからって黒の森がすぐ見える道を走る必要はないのでは?」
馬車に相席している妙齢の女性が窓の外を窺いながら言いました。侯爵夫人のヒルデ・フォン・ブルヒアルトです。問いただすような妻の視線にフリードリヒはニヤリと笑います。
「たまには体を動かさねば腕が鈍る。それに、愛する妻に戦う背中を見せて惚れ直させないとな」
「呆れた」
ヒルデは大きくため息をつきました。婚約する前は彼の熱烈なアピールは嬉しく思いましたが、結婚して二十年近く経ってなお毎日のように言われると流石に何の感慨も浮かびません。決して嫌というわけではないですが、もっとやり方を変えろよとは思います。
「黒の森に棲むとはいえ、賊如きに貴方や騎士達がどうこうされるとは思いませんが、危険な場所に妻を態々連れて来るのはありえません」
「黒の森周辺の視察だと言ったし、ザクセンに顔を出すのなら付いていくと言ったのはお前だろう?」
フリードリヒの指摘にヒルデは視線を逸らしました。
ヴィドキント公爵とフリードリヒ侯爵は歳がほぼ同じということもあって古くからの友人でもあります。それゆえに妻同士も仲がよく、特に公爵の妻であるアーデルハイドが亡くなった後は残された子供達をかわいがり、特に忘れ形見のアンジェリークを娘の如く可愛がっていました。そういうこともありザクセン家に行くのであれば是が非でも付いていこうとしたのです。
「ところで、公爵様はアンジェの婚約をどうするつもりなのか聞いてますか?」
「またそれか」
露骨に話を逸らしたヒルデに侯爵はつまらなそうに言いました。そんな侯爵の態度にヒルデはプリプリと怒ります。
「またそれかとはなんですか! アンジェにとって大切な事でしょう!」
「お前が干渉することじゃなかろうに」
「干渉はしません! 心配しているだけです! あの子も良い年なんですからそろそろ考えるべきでしょう!」
「アンジェよりもサンドラを心配してやった方がいいんじゃないか?」
「サンドラはどういう子が好みなのか分からなくて……」
アンジェリークの姉であるアレクサンドラは男装を着こなし男のような口調で剣を振るう既存の貴族令嬢とはかけ離れた存在です。公爵令嬢という立場もあり下手な婚約などさせられるはずも無く、一般的な令嬢から外れすぎて誰も手を出そうとせず、結果として人気はあるのに婚約者がいないという状況に陥っているのです。アレクサンドラが婚姻をどう思っているのか不明なためヒルデも候補を見繕うぐらいしかできません。
本来、そうなる前に公爵が対処すべきなのですが、可愛い娘を下手な男に、と拗れて延び延びになっているのが現状です。だからこそ、ヒルデはアンジェリークの婚約を心配しています。
「全く、公爵ならしっかりして頂きたいものです」
「ハイジが死んだ後、とにかく子供を可愛がってたからなぁ。利益優先でろくでなしと婚約させるよりかはいいだろう」
「だからといって婚約させないのはだめでしょう」
口をへの字にして怒るヒルデを侯爵はニコニコと見つめます。
「何を笑ってるんですか」
「友の忘れ形見とはいえ他人の子を我が子のように心配できる我が妻が誇らしくてね」
ヒルデは深くため息をついて窓の方へと顔を向けました。頬がやや赤くなり口元も緩み気味なあたり満更でもないのは丸わかりです。
外を見たヒルデは森から人が飛び出すのを目撃しました。薄汚れているようにも見える緑一色の服に身を包んだ人、少女は笑顔で馬車に向かって走ってきます。
「止まれ!」
即座に護衛が剣を向けて威嚇します。侯爵も同じように外を窺い、飛び出てきた人の正体にすぐに気付いたヒルデは慌てて馬車から飛び出しました。
「全員武器を降ろして!」
「奥様!?」
「その子はアンジェリーク・フォン・ザクセンです!」
一瞬、全員が理解出来ないという表情をし、言葉の意味に気がつくと慌てて剣を鞘に戻しました。
「お久しぶりです。ヒルデ小母様、ブルヒアルト侯爵様」
アンジェリークは周囲の動揺を一切気にせず、見事なカーテシーで挨拶をします。服装はともかくあまりにもいつも通り過ぎるアンジェリークの様子にヒルデと侯爵は戸惑うように顔を見合わせました。アンジェリークの惨事をしらない二人は、何らかの理由でアンジェリークが森から逃げ出してきたのだと思っていました。安堵して泣くとか抱きついてくるではなくごく普通に挨拶するのは逃げてきた者の態度ではありません。
「あの、どうかされましたか?」
二人の様子にアンジェリークは首を傾げました。服の胸ポケットでたかしが「黒の森から出てきた奴が普通に挨拶したら驚くに決まっとるわ!」と小声でツッコミを入れています。
「えっと、アンジェはなんで森の中にいたのかしら?」
「狩りをしていたからです」
護衛を含め全員が形容しがたい表情をしました。確かにアンジェリークの住む屋敷から最も近い森は黒の森ですが、他にもっと安全に狩りができる森や山が存在します。何故公爵令嬢がわざわざ黒の森で狩りをするのかが全く理解出来ませんでした。賊を狙ったマンハントをしているとは誰も思うはずがありません。
「最近治安が良くなってきているとはいえ黒の森は賊で危険だろう」
「そうですね。すっかりこの辺りで見なくなってしまいました」
アンジェリークは眉を曇らせます。狩りすぎて生態系を乱してしまったとアンジェリークは後悔しました。彼女の中では賊は動物と同じカテゴリーに分類されていました。
変に話の通じないアンジェリークに夫妻は少々怖さを覚えてきました。表情や仕草はよく知るアンジェリークのはずなのに二人の知るアンジェリークとは何かが違います。そもそもが格好からしておかしいのです。上下同色で、囚人服のように見えますが作りはしっかりとした見慣れない服を着て、背中には背嚢を背負い、腰には木刀、いや木の鞘に入った太刀と小さな太刀。そして見た目も仕草も同じなのに話が変に噛み合わない。目の前の彼女は本当にアンジェリークなのだろうか?
「お二人は父にご用件でしょうか?」
「あ、ああ。緊急で話したいことができてね」
「そうですか……では名残惜しいですがそろそろ失礼致します」
緊急の用件と知ってあまり引き留めるのはよくないと思ったアンジェリークは話を切り上げて狩りに戻ることにしました。
凄まじい勢いで森へと帰ったアンジェリークを見て、二人は公爵を問い詰めることにしました。
友人夫妻の為に出迎えの準備を整えて待っていた公爵は、現れた侯爵夫婦の危機感を孕む表情を見て焦りを覚えました。
「黒の森からアンジェリークによく似た娘がでてくるのを見たのですが」
挨拶もそこそこにヒルデが言い、公爵は見られてしまったと頭を抱えました。妻亡き後、子供達の事を気にかけていてくれた友人達にアンジェリークの惨状を知られたくはなかったのです。尤も、時間の問題ではありましたが。
公爵を見てヒルデの目がスッと細くなりました。
「その様子だとアンジェ本人のようですね」
「……教会に連絡はしたのか?」
侯爵夫妻もアンジェリークに悪魔が憑いたのではないかと思いました。知り合いが突如奇行に走ったらまず悪魔憑きを疑うのが常識です。
「もちろん、二度確認させたが何も憑いていなかった。あの子に何も憑いていないというのは断言できる」
「断言?」
「アンジェリークは妖精と契約している」
侯爵夫妻は困惑したように顔を見合わせます。真面目な話をしているときに誰も見たことがない幻の種族と契約するなどという夢物語を語られたら誰だって困惑するでしょう。公爵は特に冗談を言っているふうでもなく夫婦を見ています。
「……本気で言っているのか」
「ああ、しかもアンジェリークが上位の契約だ」
「なにがあったらそんなことになるんだよ」
公爵はアンジェリークとたかしから聞いていた成り行きを説明しました。賊をぶっ殺した後、たかしを見つけて罠だと疑い契約まで持って行った件です。公爵と侯爵は頭が痛そうに額を押さえます。
「……もしそれが本当の話だとしても、問題はあっても間違いじゃないな」
「人間同士ですら争う。場所も黒の森、罠の可能性は十分ある。ただ、冷静に行動しすぎじゃないかとは思うが」
侯爵は頭では理解出来ていても納得はできません。奇妙な姿のアンジェリークを見たとはいえ、侯爵の考えるアンジェリークは完璧すぎる程に完璧な公爵令嬢なのですから。
ヒルデが業を煮やしたように机を叩きました。二人が驚いたようにヒルデを見ます。
「そんなことはどうでもいいのです! 今はアンジェのこと!」
「いや、お前妖精」
「そんなものよりもアンジェの方が大切でしょう!」
バンバン机を叩いて怒りを噴出します。
「とにかく! 悪魔憑きでないのならばそれがアンジェの素と言うことでしょう!」
「……そうだな」
「あの子はいつの間に刀片手に黒の森を走り回るようになってしまったのですか! 誰のせいでそうなったと思っているのです!」
「……やはり後妻を迎え入れるべきだっただろうか?」
さらに食いかかろうとしたところでヒルデの勢いが止まります。
「だが、あの時私はハイジ以外の妻など考えられなかった。優秀な家人もいた。十分にやっていけると思った。あの子は、やはり寂しかったのだろうか。ちゃんとした後妻をとっていればあの子の母親になってくれただろうに……私は、私の感情だけで……あの子に母親を……」
あれがアンジェリークの素。黒の森で剣を振り回し賊を狩り生首を持ち帰るのがアンジェリークの素。無意識に気付かないようにしていた事実を突き付けられ、公爵の心は深く抉られました。
「い、いえ、貴方は間違っておりませんわ」
すっかり憔悴した公爵をヒルデが慌ててフォローします。アンジェリークの様子に怒りを感じてはいましたが公爵を追い詰める気はなく、結果的に追い詰めてしまった事に気づき罪悪感を覚えたのです。
「しかし「少し感情的になってしまっただけです! あの時後妻をなんて言っていたら私が怒っておりました」
ヒルデは誤魔化すように早口で言った後、空気を変えるようにコホンと咳払いをします。
「一度、アンジェと話をさせてくださいな。私達もあの子の為になにかしたいのです」
真剣なまなざしのヒルダに、公爵は怯むようにして目を逸らしました。
「ありがたい申し出だが……最近、あの子はいつ帰ってくるかわからなくてな……」
公爵は今までの会話で一度も生首は出していません。子供達の事を真に思ってくれている二人を、そんな狂気に巻き込みたく無かったからです。
二人は知らないのです。アンジェリークがギルドが閉まっていたからという理由で生首を持ち帰ってくる事案が発生したため、庭に生首一時保管箱が設置されたということを。そして今朝、アンジェリークは保管箱に入れた生首を忘れたまま黒の森に出かけたということを。
庭の生首一時保管箱に生首を入れたら翌日必ずギルドに提出しなさいという説教を娘にしなければならないという事実に、公爵はガリガリと正気が削られました。ゆえに友人夫妻を巻き込むのを躊躇いました。
だから、話題を逸らす為に別の話題を出すことにしました。
「ところで、アンジェリークが王都の騎士団に入団したいと言っているのだが、これはどうすればいいと思う?」
夫妻はお互いに見合った後、怪訝そうに公爵を見ました。
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