煌めく夢にその一声を

吹雪舞桜

煌めく夢にその一声を

 微睡んでいた意識が穏やかに浮上する。

 おもむろに開いた視界に映ったのは膝の上に置いた読み途中の本で。日が射し込む部屋はまるで橙色のフィルターがかかったように暖かい。ソファに座ったまま背中を伸ばしていたら部屋のドアが開いた。

「あ、起きたんですね」

 おはようございます、と続けて彼女は微笑みを浮かべた。

 彼女がテーブルの上に鍋を置いたので、読み途中だった本を閉じてテーブルにつく。

「ご飯にしましょう。今日は自信作なんです」

 上手く作れたのだろう、彼女の声は少し弾んでいる。

 彼女が作った料理は食べたことがないけれど、きっと美味しいに違いない。

「それは楽しみだな」

 そう言えば彼女は少しだけ照れたように笑った。その拍子にミルクティベージュ色の髪がふわりと揺れて、少し癖のある前髪を留めていた花のヘアピンが光を反射する。

 何だかそれが眩しくて、柄にもなく夢みたいだと思った。

 むず痒いような照れくささを誤魔化そうと蓋を持ち上げれば、隙間から美味しそうな匂いと大量の湯気が溢れて――。



 視界に飛び込んできたのは、大音量で鳴るスマホだった。

「…………」

 夢みたいではなく、正真正銘、夢だった。

 一瞬で現実に引き戻された頭は真っ白で、寝ぼけているのかショックなのか意識は呆然としている。それでも上体を起こしながらスマホを黙らせた。

 彼、清水しみず煌音こうとは寝癖のついた髪を掻きながら布団に顔を伏せる。

 二度寝をしたい。本音を言えば夢の続きが見たい。気になっている女の子が家にいて、しかも手料理を振る舞ってくれるのだ。嬉しくない男はいない。今寝ればきっと夢の続きが、……と、ここまで考えた煌音はゆっくりと顔を上げた。起きなければ遅刻してしまう。

 深いため息を吐いてベッドから降りた煌音は、部屋の電気とテレビを点けてからキッチンに出る。ケトルでお湯を沸かしオーブントースターの電源を回した。

 テレビの向こうではアナウンサーが朝早くからニュースを伝えている。

 それらを聞き流す煌音は朝早くから身支度をしていた。



   ・


 煌音が働いているのは駅ビル内の珈琲店である。

 開店時間は午前七時。コーヒーをはじめとしたドリンク各種と軽食を提供する、カフェテリア形態の飲食店。イートインとテイクアウトが選べるが、長居しやすい雰囲気だからか大半は店内で飲む。

「いらっしゃいませ」

「アイスコーヒー、Mで」

「かしこまりました。お持ち帰りですよね」

「うん、そう」

「お待たせしました、アイスコーヒーです。ありがとうございました」

 煌音が早朝から出勤するのは週二日、月曜と金曜。

 通勤ラッシュ時の客は何となく顔を覚える程度には常連だった。そう、だから。

「いらっしゃいませ。おはようございます」

「おはようございます」

 今朝の夢に出てきた、煌音が気になっている女の子もまた店の常連である。

「えっと、店内で。モーニングのBセットを、ドリンクはホットコーヒーでSサイズ。あと、このパウンドケーキもください」

「はい、かしこまりました」

 商品をお盆で受け取った彼女は、いつも入口近くの席に座る。

 柔らかそうなミルクティベージュ色の髪をポニーテールにして、少し癖のある前髪を花のヘアピンで留める彼女は、オフィスカジュアルな服装からデスクワークに勤しむ社会人ではないかと煌音は想像していた。

 彼女が座る席は煌音が顔を上げると視界に入る位置で。ジロジロ見るわけにはいかないが、入口を見る際につい視界に入ってしまうのは仕方ないだろう。ホットコーヒーを飲みながら時折ノートにメモをする姿は、煌音が勝手にイメージするキラキラした社会人そのものだった。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

 小さくはにかみつつ律義に一声かけてから店を出る彼女を見送る。

 たった三十分程度のことでも、煌音にとっては頑張って早起きをする価値がある時間で。今日も頑張れそう、と煌音は胸中で意気込んだ。



「――え、明日?」

 時刻はモーニングが終わりランチが始まる前。

 昼頃からシフトに入っている同期が、出勤するなり申し訳なさそうに頼み事をしてきた。

「ああ。急で悪いんだが代わってほしい。頼む」

「珍しいな。何で?」

「予定を入れられた」

 乱暴な説明だが、それなり付き合いのある煌音には十分だった。

 同期には幼馴染みがいる。あの言い方は確実に幼馴染み絡みだろう。明日は仕事は休みだが予定はないので、友人でもある同期の頼みを断る理由はない。それに馬に蹴られたくもないし。

「じゃあ、今週の金曜と交換な」

「わかった。助かったよ、ありがとう」

 それから。同期に貸していたゲームが返ってきて、代わりに煌音が前から気になっていた作家のお勧めの本を借りた。

 一週間の始まり。何となく、悪くない出だしだと思えた。



 翌日。午前七時過ぎ。

 基本的に煌音が休みである火曜も、朝の光景はそれほど変わらない。

「いらっしゃいませ」

「アイスコーヒー、Mで」

「かしこまりました。お持ち帰りですね」

「うん、そう」

「お待たせしました、アイスコーヒーです。ありがとうございました」

 今日も常連のサラリーマンが通勤のお供にアイスコーヒーを買った。

 しかし。いつもならあのサラリーマンの少し後に来店する彼女が来ない。

 そもそも来店しないのか、寝坊したのかはわからない。だからといって、火曜はあの子が来店するか、を他の従業員に聞く度胸もない煌音は一人悶々とするしかなく。

 もう今日は来ないのだと諦めた時だ。

 ミルクティベージュ色の髪の女性が来店した。

 一瞬テンションが上がったものの、目に映った彼女の姿に動揺した。今日は眼鏡をしている、いや眼鏡どころの話ではない。雰囲気がまったく違うのだ。目線は下がり気味でポニーテールの結ぶ位置は低く、服装も少し落ち着いた色合い。煌音の脳裏に他人の空似の言葉がよぎる。

 声をかける直前、前髪を留めている花のヘアピンが目に入った。

「いらっしゃいませ。おはようございます」

「あ、おはようございます」

 やっぱり彼女だった、と煌音は嬉しくなったが。

「えっと、持ち帰りで、ホットコーヒーのSサイズを。あと、このパウンドケーキもください」

「はい、かしこまりました」

 それでも今日の彼女は普段と違う。……だが雰囲気のことではない。来店時間が遅い理由が寝坊なら、雰囲気が違うのも持ち帰りなのも納得がいく。

 違うのは彼女の態度である。

 普段なら注文をする彼女と目が合うのだが、今日はメニューから視線を外さず会計時も手元を見たままで彼女は一切顔を上げなかった。しかし、勘違いでなければコーヒーを淹れている間は普段のように彼女の視線を感じて。

「お待たせしました、ホットコーヒーです。ありがとうございました」

「ありがとうございます」

 彼女は俯き気味のまま、そそくさとカップを受け取った。

 それでも律義にお礼を言うのだから、根は優しい人なのだろう。だからこそ彼女と一度も目が合わなかったことがショックだった。落ち込むようなことがあったのか気になって仕方なかったが、煌音では力になれないし、そもそも話を聞けるような間柄でもない。

 普段やらないことをやると碌なことが起きない、と落ち込んだ煌音はその日ため息を吐いてばかりで、夕方から入った学生バイトに辛気臭いと一蹴された。



   ・


 スマホが大音量で鳴っている。

「…………」

 煌音は寝ぼけ半分で上体を起こしてスマホを静かにさせた。のろのろとベッドから降り、部屋の電気とテレビを点けてキッチンに向かう。

 お湯を沸かしながら頭が重いと思った。ついでに体も怠いし節々も痛い。

 しかし、昨晩は同期から借りた本をキリが悪いところで止めて日付が変わる前に就寝したので寝不足はない。月曜、火曜と二日連続早朝からの仕事で疲れが溜まったのだろう。

 テレビの向こうではアナウンサーが今日も朝早くからニュースを伝えている。

 それらを聞き流す煌音もまた、今日も職場で買ったコーヒーを淹れる。

 ぼんやりとした頭が違和感を拾うも、着替えなければと思考を切り替えようとした時だ。

「っ、ああ!」

 本日は金曜日。珍しく頼んできた同期とシフトを交換して得た、特別な休みだ。

 深いため息を吐いた煌音は崩れ落ちるようにソファに座り込む。

 気が抜けたらどっと疲れた、と胸中で呟きながら煌音はソファに寝転んだ。横になると幾分か楽になる。二度寝をするならベッドに戻るべきだと頭ではわかっていたが、ソファから起き上がる気にならなかった。

 頭は重いし、体は怠いし、節々が痛い。袖を捲っても熱いのに体の芯から震えるほど寒い。考えすぎだと思う反面どうしても嫌な予感が拭えず、煌音は体温計を掴んだ。

 ややあって、体温計が気の抜けた電子音を鳴らす。

 結果、発熱である。

 熱があると理解した途端に体の怠さが一気に増した気がした。

 テレビで時間を確認すればそろそろ開店時間。ぼんやりとする頭で、シフトを交換してよかった、と思った。休みを体調不良で潰すとは運が悪いが、迷惑をかけなくてすむとを考えれば運がいい。煌音は立ち上がり、そのままベッドへ直行する。

 テレビの向こうではアナウンサーが今日の占い結果を伝えているのが聞こえる。

 眠る前の煌音の耳に届いたのは、星座占いで一位であることだった。



 夕方頃。

 煌音は外出していた。向かう先は駅前の薬局である。

 起きて熱を測ったら上がっていた。節々の痛さも体の怠さも頭の重さも最高潮で、寒気が増している。さすがにこのままではマズいと思った。

 残念なことに、家には病人が食べられるものも薬もない。こういう時に気兼ねなく連絡できる相手は煌音と代わって仕事中である。

 だから、腹を括った煌音は簡単な身支度をして家を出た。足にできる限り力を入れて、あとは気合いで耐える。外の空気を吸ったからか少しは意識がスッキリした気がした。

 金曜日の夕方。常々から思っていたが、この時間帯の駅前は人が多い。

 人混みを避けつつ煌音が薬局に入ろうとした時だ。

 ふいと向けた視線の先にミルクティベージュ色の髪の女性がいた。

「っ」

 煌音は視線を逸らすことで気恥ずかしさを誤魔化しつつ薬局へ入る。

 予想外の出来事に頭が妙にふわふわしていた。まさか彼女がいるとは思わなかったが、普段の見知った雰囲気で安堵した。この時間に駅前にいるなら仕事終わりだろう。今日もお洒落で可愛い服だったので、もしかしたら待ち合わせかもしれない。相手は彼氏じゃなければいいな、などと思いながら煌音は総合感冒薬を手に取った。

 薬と、ついでに栄養ドリンクも買っていく。

 ぼんやりとした頭で、彼女と会えてラッキーだと思いながら煌音は店を出た。

 気もそぞろだった煌音はつい油断してしまった。

 一歩踏み出した瞬間、体が大きく揺れる。

「……ぁ」

 煌音はその場に膝をついてへたり込んでしまう。

 頭が揺れている、足に力が入らない。意識が朦朧としていると理解した煌音が、さすがにヤバいかもしれない、と思った時だ。

「大丈夫ですか?」

 かけられた声に煌音は顔を上げた。

 ミルクティベージュ色の髪が揺れ、心配そうな表情が煌音の顔を覗き込んでいる。

 咄嗟に言葉が出てこなかった。

「あの、大丈夫ですか? 立てますか?」

「え……、あ、大丈夫です、すみません」

 花のヘアピンを見て我に返った煌音は、逃げるように視線を落とした。

 あまりにも予想外だからか、それとも熱があるせいか、真っ白になった頭には気の利いた言葉ひとつ浮かばない。彼女に話しかけられた、なのにカッコ悪いところを見られた。煌音の思考を占めるのはそれだけである。

 と、眉を八の字にした彼女の手が煌音の額に触れた。

「ひどい熱です。こんな状態で外出するなんて。何かあったらどうするんですか」

「すみません。でも家に薬がなくて。それに、友人も仕事中で頼れなくて」

 彼女の手は冷たくて心地いいが、そんなことを気にしている場合ではない。

 煌音は足にありったけの力を込めてよろよろと立ち上がる。これ以上カッコ悪いところを見せないための行為だったが、無理に立ち上がったせいで再びバランスを崩した。

 しかし、直後に伸びてきた手が煌音の体を支える。

 お礼を言おうとして煌音は、彼女が先程より近い位置にいることに気付いた。思わぬ至近距離に顔が一瞬で熱を持つ。嬉しさよりも恥ずかしさの方が勝っていた。

「すみません、ありがとうございます。オレは大丈夫なので」

「大丈夫じゃないです。体調が悪いのに無理しないでください」

「すみません……」

 くらくらする、と煌音は思った。

 ごちゃ混ぜの頭は通常通りに機能しそうもない。顔が真っ赤な自覚もある。これ以上迷惑をかける前に早急に帰るべきだろう。熱もあるし。

「ありがとうございました。オレはこれで――」

「送ります」

「――え?」

 一瞬、何と言われたのか理解できなかった。

「帰るんですよね? 一人じゃ危ないですから送ります」

「いや、これ以上は申し訳ないというか、一人でも大丈夫だから」

「でも、そんなふらふらな状態じゃ危ないですし、今にも倒れそうで私が心配なんです。ご迷惑じゃなければ送らせてください」

 そんなことを好きな子から言われて嬉しくないやつはいない。

 煌音は考えることを放棄した。情けなさより嬉しさが勝ったと言えるし、見栄より本音が勝ったとも言える。そして何より、弱っている時の好きな子からの優しさは反則級で。

「……じゃあ、お願いします」

 惚れた方が負けは真理である。あんな言い方をされたら断れない。



「一人暮らしですよね。食事は大丈夫ですか?」

 彼女にそう聞かれたのはアパートに辿り着いた時だ。

 気付けば買い物袋は彼女が持っていた。そのうえ、ここで大丈夫です、と言うタイミングを逃しに逃した結果、玄関まで送ってもらう始末である。

「栄養ドリンク以外で、ちゃんと食べるものはありますか?」

「え、っと」

 煌音が言葉に詰まったのは上手く言えなかったからだ。食欲がないから栄養ドリンクで済ませる、のだと胸中では答えられるのに口が動いてくれない。

「もしよければ私が何か作ります」

「いや、でもそれは」

「本当は家で作って持ってこようかと思ったんですけど、清水さんを玄関まで歩かせるよりも私がお邪魔して作った方がずっといいです。風邪の時はちゃんとご飯を食べて体力をつけないとですし、それに、何か食べないとせっかく買った薬も飲めないですよ」

 確かに正論である。

 栄養ドリンクではなくゼリー飲料かプリンを買うべきだった。

「こういう時は遠慮なく頼ってください。力になりたいんです」

 煌音は夢心地な気持ちで頷くと、玄関を解錠した。




 視界に飛び込んできたのは見慣れた天井だった。

 頭がぼんやりとする。状況が理解できない煌音は、部屋の明るさに目を細めながら上体を起こした。同時に薄桃色の布が軽い音を立てて布団の上に落ちる。

 煌音がまばたきをした時だ。

「あ、起きたんですね」

 おはようございます、と続けて彼女は微笑みを浮かべた。

 驚きで跳ねた心臓の鼓動が速い。煌音が呆然としている間にも彼女はベッドに寄り、その手が額に触れる。冷たい手が心地いい。

「体調はどうですか?」

「え、っと、だいぶマシになった、と思います」

「よかったです。あれから三時間経ちましたけど、食欲はありますか?」

「……少しなら」

 額に触れていた手が離れる。彼女は布団の上に落ちた布を掴んで立ち上がると、テーブルの上の本とスケッチブックを閉じてから部屋を出た。

 意識が呆然としているのは、嬉しさの過剰摂取で頭がショートしたのか、熱で朦朧とするせいなのかはわからない。だが体の怠さと節々の痛さからこれが現実だとわかる。

 すぐに戻ってきた彼女は、テーブルにあった鍋敷きの上に鍋を置いた。

 現実味は湧かないが、それでも聞きたいことがある。

「あの、オレが起きるまで待っててくれたんですか?」

「はい。清水さん、帰ってすぐに倒れるように寝ちゃったんです。ぐっすり眠ってたから起こすのが申し訳なくて、だからって黙って帰るのも失礼だと思って」

「すみません、気を遣わせちゃって」

「こちらこそすみません、いつまでもお邪魔してて」

 申し訳なさからか少し焦る様子の彼女に煌音は、謝らなくていいのに、と思った。責めているわけではなく、どちらかと言えば、嬉しさゆえの確認である。

「ご飯、作ってくれたんですね」

「はい。お粥を作りました」

 上手く作れたのだろう、彼女の声は少し弾んでいた。

 彼女が作った料理を食べるのは初めてだけれど、きっと美味しいに違いない。

「めちゃめちゃ嬉しいです」

 そう素直に言えば彼女は照れたように笑った。

 彼女が蓋を開けたのを見た煌音がのろのろとベッドから降りてテーブルにつけば、お粥を少なめに盛った茶碗を渡された。

「ありがとうございます。いただきます」

 一口食べたお粥は、ほのかに塩気があって、とても優しい味がした。

 食欲はあまりなかったが、ゆっくりながらも食べる手は止まらない。

「味はどうですか? 具があった方が食べやすいと思ったんですけど、好みがわからなくて」

「いや、これだけでじゅうぶん、すごく美味いです」

 ふと彼女を見れば、もうひとつの茶碗にお粥をよそっている。

 目が合うと、彼女は眉を八の字にしてはにかんだ。

「どれくらい食べられるのかわからなくて、少し多めに作ったんです。でも調べてみたらお粥って作り置きに向かないみたいで、捨てるのはもったいないから私も食べようと思って」

「オレ、仕事以外で誰かと一緒に食べるの久しぶりです」

 気付いたら煌音はそんなことを言っていた。

 目を丸くした彼女は、ややあって、ふわりと嬉しそうに微笑む。

「私もです」

 それから二人で食事をした。

 まるであの日見た夢の続きみたいだ、と煌音はお粥を噛みしめながら思った。

 少なめのお粥は病人の胃袋にちょうどいい量で、一杯完食したら満腹になった。ごちそうさまでした、と心の底からお礼を伝えて薬を飲む。

 ふと、煌音の視界にテーブルの隅に寄せられた本が映った。

「あれ、この本」

「そうなんです。私もさっき本棚で見つけて。お揃いですね」

 世界の幻想的な風景をまとめた風景写真集。

 煌音が本棚を見ればそこには確かに同じ本がある。改めて彼女の本を見れば、持ち歩いているのか端が少しよれていた。

「オレ、城とか遺跡とか廃墟とかそういうのが好きで、こういう本を見かけるとつい買っちゃうんです」

「だからたくさんあるんですね。私も、資料に使えると思ってこの本を買ったんですけど、すごくよかったから今度他のも買おうと思って」

「資料? 何か書いてるんですか? 」

「はい。実は……絵本を描いてるんです」

 はにかみながら彼女はスケッチブックのあるページを見せてくれた。

 そこに描かれた絵は、先程話題になった本に載っていた風景とよく似ている。そして、手前には手を繋いだ男の子と女の子の後姿がある。

 どんな話だろうか。この一ページで煌音はすでに惹きこまれていた。

「あの、迷惑じゃなければ、完成したら読んでもいいですか?」

「え、見てくれるんですか?」

「読んでみたいです」

「もちろんです。読んでください」

 彼女は一瞬驚いた後で、嬉しそうに微笑む。

 煌音も彼女が喜んでくれたことが夢みたいに思えるほど嬉しかった。

「すごいですね、趣味でここまで描けるなんて」

「私、絵本作家になりたいんです」

 それは独り言のようなボリュームで。

「……絵本作家ってハードルが高いんです。だから諦めて就職したんですけど、やっぱり諦めきれなくて仕事の合間に描いてるんです。いつか絵本作家になって私の描いた絵本が本屋に並んだら嬉しいなって、年甲斐もなく夢見てるんです」

 そして、少しだけ寂しげな声だった。

 誰かに夢を否定されたのだと容易に想像できた。夢を見て、現実を目の当たりにして、落ち込むことも諦めることもあるだろう。煌音にもそのくらいの経験はある。けれど、それは自分で決めることで、誰かに決めつけられることではないはずだ。

 いつだって、語る夢は眩しくて楽しいものであってほしい。だから。

「オレは素敵な夢だと思います」

 煌音の声は思っていたよりも力強かった。

「夢を持つのも持ち続けるのも、……もう一度拾い上げるのも簡単なことじゃないです。オレにはそういう夢がないから余計そう思うのかもしれないですけど、そのために頑張る人って尊敬するし、努力できることが正直羨ましいです」

「……」

「だからオレ、応援してます。……見ず知らずの病人が何言ってんだって感じですけど、でも、頑張ってほしいと思ったし、その夢を諦めないでほしいと思ったんです」

 熱に浮かされるまま恥ずかしいことを口走った自覚はある。それでも、病人の戯言だと流されても構わないから彼女に伝えたいと思ったのだ。

 煌音が好きになった彼女は、キラキラと前を向いていて笑顔の似合う女の子だから。

「ありがとうございます」

 向けられた言葉は、表情は、とても晴れやかで。

「応援してくれる、その言葉だけでとても励みになるんです。それが清水さんなら、なおさら。そう言ってもらえてとても嬉しいです」

 それは出会ってから初めて見た、花が咲くような満面の笑顔だった。



「本当に何から何まですみません」

「気にしないでください。押しかけたのは私ですから」

 あの後。煌音が熱を測っている間に彼女が食器を洗っていて。熱は相変わらずだったが、煌音の体調が落ち着いたことに安心した彼女は夜遅くなる前に帰ることになった。夜道は危険だから送る、と告げた煌音の提案は、そんなことより安静にしてください、と返した彼女の正論に一刀両断された。だから見送りは玄関まで。

「……あ、の!」

 煌音の声は少しだけ震えていた。

 口から心臓が出そうだが、この機会を逃したらもうチャンスはないだろう。顔が赤いのはわかっていたが、それでも精一杯声を絞り出す。

「っその、ご迷惑じゃなければ、連絡先を交換しませんか!」

「え、いいんですか?」

 だから、彼女からの返事に言葉が出てこなかった。

 彼女は目を丸くしていたが、ややあって。

「もちろんです。もし、また風邪を引いた時は頼ってください」

 微笑む彼女は照れつつも嬉しそうで。勇気を出してよかったと心の底から思った。

 連絡先を交換して、無事、煌音のスマホに彼女が登録された。

 結城ゆうき桃花ももか。初めて知った彼女の名前だ。

「えっと、清水煌音です。これで、こうと、って読みます。よろしくお願いします」

「結城桃花です。こちらこそよろしくお願いします」

 ドアノブに手をかけた彼女が振り返る。

「今朝、お店にいなかったから心配だったんです。だから駅前で会えて、こうして力になれて嬉しかったです」

「え」

「月曜日の朝、また会えるのを楽しみにしてます」

 お大事に、と言い残して彼女は逃げるように出て行った。

 扉が閉まる音を聞きながら煌音は玄関にしゃがみ込んだ。顔が熱い。今度は違う意味で意識が呆然としている。

「熱、治さなきゃ」

 思わず呟いた煌音は、今日が星座占いで一位だったことを思い出した。



   ・


 一週間の始まり、月曜日。午前七時過ぎ。

 今日も普段と同じ光景が広がっている。

「いらっしゃいませ」

「アイスコーヒー、Mで」

「かしこまりました。お持ち帰りですよね」

「うん、そう」

「お待たせしました、アイスコーヒーです。ありがとうございました。お仕事いってらっしゃいませ」

 煌音の言葉に驚いたのか、サラリーマンはアイスコーヒーを受け取る手を一瞬止めた。

「どうも。……いってきます」

 そして照れ隠しに早口で答えたサラリーマンは普段より足早に店を出て行く。一緒に早朝シフトに入っている店長が不思議そうな目で見てきたが、笑って追及を避けた。

 別に大層な信念を掲げたわけではない。ただ、普段のみ込む言葉を声に出してみただけで。心境にどんな変化があったのかと問われれば、少しだけ頑張ろうと思ったのだ。

「いらっしゃいませ。おはようございます」

「おはようございます」

 煌音が笑顔を向ければ、桃花も照れたような微笑みを返してくれた。

「えっと、店内で。モーニングのBセットを、ドリンクはホットコーヒーでSサイズ。あと、このパウンドケーキもください」

「はい、かしこまりました」

 商品を受け取った桃花は、定位置である入り口近くの席に座った。

 桃花としたやり取りは、翌日に完治しましたと報告して、よかったですと返事がきただけである。話したいことはたくさんあったが結局送信できなかった。これからどうすればいいかは同期に相談するつもりである。

 煌音が頑張ろうと思ったのは桃花のおかげだ。『応援してくれる、その言葉だけでとても励みになる』の言葉に見つけた気がした。やってみたいと思うことが、ひとつだけ。

「ごちそうさまでした」

 みんなじゃなくあなたに、なんてカッコいいことは言えない。けれど、みんなじゃなくていい。

 どこかの誰かに少しでも届けられたら、それだけで嬉しいから。だから。

「ありがとうございました。今日も元気にいってらっしゃい」

 今日を頑張るその背中を押したいんだ。

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