第8話 キール

 翌朝、厨房から食事を運んできてアラムに渡す係が、呼びに来た。


「キール隊長、アラムがいません!」


 係が直接呼びに来たのは、地下室はイリーナが入って以来、特別に私の監視下に置かれているからだ。何かあったら、直接私に連絡が来るようになっている。


 扉の前で深呼吸をして、イリーナの部屋の扉を叩くと、ゆっくりと扉が開いた。泣き腫らした目をしたイリーナが立っていた。真っ白な寝巻きには、赤黒い血が花模様のようについている。


「……兄様……私……」


イリーナは震えながら、足元に視線を落とした。肉が申し訳程度ついている骨が散らばっていた。真っ白なイリーナの愛らしい口元は血まみれだ。


「ごめんなさい……鍵をかけ忘れてしまって……」


イリーナは泣いている。サイラスの死因は失血死で、イリーナは自分が殺してしまったという記憶も朧げだった。だが、アラムについては、部屋に入ってこられた記憶と、足元の骨等から推測して、自覚してしまったのだろう。

私はすぐに、タオルを濡らし、イリーナの顔をそっと拭って、血まみれの服を着替えさせている間に、後始末をした。イリーナの中の魔物はとうとう人を食い殺してしまった。けれど、こんなにあどけない顔をした魔物がいるのだろうか? 


「どうしよう……人が……そんなつもりはなかったのに……アラムが、アラムが近寄ってきて……」


「アラムに何かされた?」


イリーナは首を横に振った。その前に、魔物になったのだろう。アラムの死よりも、イリーナの無事にホッとしている自分がいた。


「鍵が開いていたとしても、扉を開けない様にと、伝えておいたのだから、アラムの自業自得だ」


「……そんな、それでも、殺していいわけは無いはず……」


「最初にイリーナに襲いかかって来たのはアラムだろう? イリーナ、これは正当防衛だ。だから、そんなに罪の意識を持たなくてもいいんだよ」


 そんな事を言ったとしてもイリーナは自分で自分を責め続けてしまうのはわかっていたが、少しでも気持ちを楽にさせたかった。正当防衛にしても、意識がなかったにしても骨だけを残して肉を喰らってしまったなど、自分がやったと思いたくないだろうし、やったのであれば、罪の意識に襲われてしまう。ましてや、はっきり自覚してしまったのだ。


「私、アラムを食べてしまった……」


イリーナはショックで吐いてしまった。


 人を喰ってしまった後のイリーナは、元気も食欲も無かった。その日は一日、そばについていることにした。

 夜眠っている間に、うなされながらイリーナは魔物に変わった。魔物になった彼女。彼女の祖母である前女王と同じ姿をした魔物。

そっと、触れると、イリーナは人の姿に戻る。人の姿に戻ると、何も着ていないという事も聞いていた為、すぐに横に落ちた寝巻きを頭から被せた。

イリーナはショックからか、熱を出していた。一晩中、看病し、明け方やっと熱が下がった。熱が下がった後も、イリーナは私を離そうとはしなかった。


「兄様、お願い怖いの、もふもふで一緒に寝て」


 久しぶりのお願いに迷ったが、泣き出しそうなイリーナをこのまま放っておくなんて出来なかった。明日は朝一でフェオドラ様やバーベリ侯爵と狩猟をする事になっている。


 時折、悪夢を見るのか、ビクッとしたり、啜り泣くイリーナの隣で眠っていた為、明け方まで眠れなかった。目覚めると、昼を過ぎている事に気づいた。

寝坊した理由は、眠れなかったからだけではなかった。イリーナに触れていると、多幸感に包まれるのだ。小さい時も多少は感じたが、成長した彼女から得る多幸感は眩暈がするほどだった。うっとりした気分でうとうとしていたら、昼になっていた。

完全に遅刻だ。


 バーベリ侯爵に謝ったが、ひどく嫌味を言われた。フェオドラ様から、こっそり「イリーナに何かあったのですか?」と聞かれた為、頷くと取りなしてくれた。自分が頼んだ用事の為に遅れたのだと、フェオドラ様は言ってくれたのだ。



 狩猟の後、落ち込んでいるだろうから様子を見にいくのだ、と自分に言い訳し予定をキャンセルし、イリーナを訪れた。


「イリーナ少しは落ち着いた?」


イリーナは首を横に振った。


「兄様、今日もできれば一緒にいて……」


夕食後、すぐにイリーナはうとうとし、眠ってしまった。着替えさせて寝台に運び、見守っているうちに、つられて眠ってしまった。


イリーナの起きた気配で目を覚ました。


「起こしてしまってごめんなさい。兄様、ずっと手を繋いでいてくれたの? そういえば、魔物になっていない。もしかして、もう魔物にならないの?」


「私が触れている間は、魔物にならないんだよ。それと、私が近くにいれば、魔物になっても人としての意識を保つことが出来る。本当なら、この話は十四の誕生日の舞踏会の後に、フェオドラ様がするはずだったんだ」


「じゃあ、兄様がずっと、側にいれば外に出られるの?」


「日没後はちょっとでも離れたら、魔物になってしまうから、指輪が見つかるまでは昼間しか出られない。昼間であっても、感情が負の方向に大きく揺れ動くと、魔物になってしまうことがあるとイリーナのおばあさまが言っていた。指輪があっても、訓練は必要なのだそうだ」


「指輪は出てこない。もう、ずっと、外に出られないかもしれない……それに、兄様は来てくれるのに、なぜ、お母様は会いに来てくれないの?」


 イリーナはフェオドラ様が恋しいのだろう、シクシクと泣き出した。

フェオドラ様は指輪がないせいで、魔物になってしまう娘を恐れるあまり、来ないのだと分かっていたが口には出さなかった。

 フェオドラ様の母である前女王は、イリーナと同じ黒い羽を持って生まれた魔物だったから、魔物がどんな物かよく分かっているのだ。魔物は人としての意思がなければ、近くにいる人を襲ってしまう。だから、指輪が見つかるまで、会いに来ないであろう事も。


 慰めの言葉の代わりに、イリーナをそっと抱きしめ、その背を優しく撫でた。昔から、よく泣くイリーナにそうしてあげたものだ。しかし、相変わらず細っそりしてはいるものの、昔と違い、その体は少しずつ凹凸がつき始め柔らかくなってきている事に気がついた。そして、他のどの令嬢を抱きしめている時よりも、イリーナ触れている時が、一番心地よい事に改めて気がついた。


「我々は、魔物が生まれた時から魔物の虜なのだよ。だから、生涯魔物から離れられない」


イリーナの祖父であるイヴァン様の言う通りだった。魔物は成長するにつれて、魔力を発揮するのだ。今からこれでは、この先どんどん成長して行くイリーナに、いつか溺れてしまうのではないかと、戸惑った。

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