第35話 ただの友達なの?
「……おい」
「ん?」
「ん? じゃねえよ。どういうことだ、これは」
キャビンに戻って、キャンプ場内に設けられた銭湯で汗を流し。
さあそろそろ寝ようかとなった時、杏奈がリュックから出したのは寝袋だった。二つなら何の文句もないしむしろ頭を下げているが、リュックからは一つしか出てきていない。
「上手いことしてあるって言ったじゃん。この寝袋、二人用ですごく大きいんだよ?」
寝袋を広げてベッドに広げると、確かに大きかった。
……これはもう、仕方ないな。
薪ストーブで多少温かくはあるが、朝までには燃え尽きているだろう。寒くなるたびに起きて薪をくべるなんて邪魔臭いし、風邪を引いたら笑えない。
「絶対に変なことするなよ」
「あたしとずっと一緒にいたいから?」
「うん」
即答すると、杏奈は「うひゃー」と黄色い声をあげて寝袋の中でもだもだと手足をバタつかせた。
何だこの可愛い生き物。
「じゃあほら、入って入って!」
杏奈は自分の隣をぺしぺしと叩いて、僕を急かす。
ゆっくりと身体を滑り込ませると、まだ出したばかりなためひんやりとしていた。しかし風呂上がりの彼女はとても熱く、徐々にその温度は寝袋全体に溶けてゆく。
「何でそっち向いてるの?」
杏奈に背を向けて横になったのが気に食わなかったのか、僕の首筋に不機嫌そうな声をぶつけた。
無理を言うな。
今の杏奈は寝間着で、そっちを向けば色々と目のやり場に困る。大体、彼女の息を間近に感じながら落ち着いて寝られるわけがない。
「あたしのこと、嫌い?」
「……」
数秒思案して、杏奈の方へ身体を向けた。
彼女は「へへへー」と悪戯っぽく笑いながら、僕のすねを足先でくすぐる。「やめろよ」と注意するも耳に入れてくれないため、僕も負けないように応戦する。
「やったなー」
お互いの足を軽く蹴り合い、押し合い、擦り合い。
少し疲れて寝袋の中へ向けていた視線をあげると、杏奈と目が合った。
パチ、パチ、と不規則に焼けた薪が鳴る。
外は怖いくらいに静かで、風の音だけが窓のわずかな隙間から室内へ入り込む。
杏奈の吐息がやけに大きく聞こえて、薄闇に慣れた目が彼女の朱色の唇に吸い込まれる。
「もしかして、ちゅーしたくなっちゃった……?」
唐突にそう問われて、僕はハッと我に返った。
再び視線を伏せて、「い、いや」と否定する。
「ダメだよ。それは不純異性交遊だもん」
「……っ」
まさか、杏奈からその台詞を吐かれる日が来るとは思わなかった。
恥ずかしさに唇を噛んでいると、
「代わりに、いいことしてあげる」
身体をこちらに近づけて、またしても僕の首筋に顔をうずめた。
先ほどと近い場所に、ちゅーっと吸い付く。甘い痛みに声が漏れると、彼女は嬉しそうに鼻を鳴らして唇を離す。
「あたしと同じ匂いだ。何かいいね」
スンスンと髪の匂いを嗅いで、元の位置へ戻って行った。
同じ銭湯に行ったのだから、シャンプーの匂いが同じなのは当然だろう。しかし杏奈はそれが嬉しいらしく、自分の髪を嗅ぎながら微笑む。
「……お前、また痕つけただろ」
「一つ付けたら、二つも三つも変わらないでしょ」
「どうするんだよ。これで美墨がギャーギャー騒いだら」
「その時は、今の生活はなくなっちゃうけど……」
杏奈の手が、僕の頬を包んだ。
しなやかな親指の腹が、僕の唇を優しく撫でる。
「……その代わり、真白がしたいこと、全部してあげられるよ」
一瞬、僕の中の決意だとか理性だとかそういうものが、バキッと根本から折れた。
しかし、幸いなことにすぐさま修復され、「僕は今の方がいいんだよ」とその手を振り払う。杏奈は目を細めて、「あたしも」と普段見せない大人しい笑みを浮かべる。
「真白って、大学進んだら普通に一人暮らしさせてもらえるの?」
「たぶんな。てか、大学生になったら家賃も自分で払うし、細かいこと言わせない気ではいるけど」
「じゃあ、あと二年くらい我慢しなきゃいけないんだね。あたしたち」
そっと、僕の手の上に杏奈の手が重なった。
「長いなぁー……」
憂うような声を最後に、杏奈は瞼を完全に閉ざし、数分後には寝息を立て始めた。
そのあどけない寝顔は本当に可愛くて、眠気を吹き飛ばすほどに胸が熱くなる。こんな子が僕を好きでいてくれているという非日常に頬が緩む。
「……」
不意に嫌な想像が脳裏をよぎり、弛んでいた顔が引き締まった。
杏奈が僕を好きになったことがまず奇跡なのに、ずっと好きでい続けるなんて奇跡が起こるかわからない。卒業まで関係が進展しないとすれば、僕に飽きて離れて行くかもしれない。
『あたしが心底大好きになるくらい、真白っていいところの塊なんですけど?』
杏奈の言葉を思い出す。
いいところの塊なのは、彼女の方だ。
明るくて、賢くて、頑張り屋で。
ただそこにいるだけで元気をもらえて、今日も頑張ろうと思える。明日の自分に、程々にしとけよと背中を押せる。誇張でも何でもなく、今の僕の生活は杏奈抜きでは成立しない。
『これで真白はあたしのだって、みんなにわかっちゃうね』
首筋に押されたキスマークに軽く触れて、杏奈の首筋を見据えた。
……ぐっすりと眠っている。
ちょっとやそっとでは、起きないくらいに。
バカだな僕は、と自嘲しながら。
僕はゆっくりと身体を起こし、彼女に近づいた。
◆
あれから三日が経った。
二年生、三年生は受験で忙しいようだが、僕たち一年生は冬休みへと続く緩やかな時間を謳歌していた。年末年始の過ごし方を語り合いながら帰宅する同級生を尻目に、校門前で冷えた手のひらに息を吹きかけて、杏奈が教室へ忘れ物を取って戻って来るのを待つ。
「そいや真白、この前、天城とキャンプ行ったんだって?」
「……何で知ってるんだよ」
隣でスマホを弄っていた平太が、唐突にそんなことを言い出した。
あの日のことは誰にも喋っていないはず。なのにどうして、と眉をひそめる。
「天城が言いふらしてたぞ。……にしてもお前、流石にこりゃ実家送還案件だろ」
「い、いや、今回のは星を見るために仕方なくだから! 天体観測以外は何も――」
言いかけて、首筋を襲ったやわらかな感触を思い出した。
思わず、絆創膏で覆い隠したキスマークを手で覆う。
「……何も、うん、本当に何もしてないし」
「何だよ今の間は。てか、そのポーズもなんだ。首でも痛めたのか?」
呆れ顔の平太。
この話題はまずい。質問攻めされて、あれこれと隠し通せる自信がない。
「それより、お前、何でこんなところで油売ってるんだよ。部活はどうしたんだ?」
「今日は休みなんだよ。だから、バッティングセンター行こうと思って」
「……本当好きだよな、サッカー部のくせに」
平太は「別にいいだろ」とスマホをポケットにしまい、学校前の通りをキョロキョロと見回す。
「誰か待ってるのか?」
「みっちゃんと行くんだ。お前の妹、ほんと身体動かすの好きだよな。誘ったら二つ返事で来るし」
「……たまには、もっと他のとこにも連れてってやれよ」
「おう。だから今度は、一緒にボルダリングする予定だぜ」
「いや、そうじゃなくて……。まあ、これは美墨の問題だから別にいいんだけど」
美墨と平太がくっついて欲しいなんて毛ほども思わないが、うちの可愛い妹が女の子として扱われていない現実を目の当たりにすると、兄としてくるものがあった。
少しだけ何とかしてあげたいという気持ちに駆られるが、そんなことをしても余計なお世話になるだけだろう。
心の中で美墨の健闘を祈って、白いため息をこぼす。
「お兄ぃいいいいいいいいちゃああああああああああん――――ッ!!」
遠くからこちらに歩いて来ていた美墨と目が合った瞬間、彼女は切羽詰まった形相で僕を呼びながら走り寄ってきた。
「な、何だよ。デカい声出して」
ゼェゼェと肩で息をしながら、「これ見て!」とスマホの画面を見せつけてきた。
普段なら平太と対面するだけで挙動不審になる美墨が、想い人の存在にまったく気づいていない。これは余程の事態だぞ、と僕は身構えて目を凝らす。
それは、杏奈のインスタの投稿だった。
見るのは初めてだが、やっているのは知っていた。食べたものや着たものの写真をあげているらしい。
「これ! 天城先輩の首見て!!」
「……お、おう」
「おう、じゃなくてさ! キスマーク付いてるじゃん!?」
「……」
「お兄ちゃんにこんなことする度胸ないし……ってことは、他に男ができたってことだよね!! どうするの!? これでいいわけ!?」
物語のクライマックスかのような空気を出されても、僕にはどうしようもない。
早くこいつを連れて行ってくれ、と平太を見た。
彼は僕の首の絆創膏と美墨のスマホの画面を交互に見て、ほほぅと何か気づいたのか意味ありげな笑みを浮かべる。
「みっちゃん。真白のことはいいから早く行こうよ」
「た、たけひしぇんぱい!! い、いたんですか! 気づかなくて、ほ、本当にすみません!」
「いいよいいよ。それより俺、結構待っててもう寒さ限界だから。風邪ひきそうだから行くよ」
「ま、待って! わたしも行きますからー!」
僕の肩を軽く叩いて、平太はスタスタと歩いて行った。……何だ、あのイケメンは。
美墨はチラチラと後ろを振り返りつつも、平太について行く。
その背中に手を振っていると、「お待たせ!」と杏奈が戻ってきた。
「今、誰かと話してた?」
「平太と、ちょっとな」
杏奈は「ふーん」と興味なさげに言って、僕の手を取り歩き出した。
今の今まで暖かい校内にいたおかげか、じんわりと温かい。
「もうそろそろクリスマスだけど、今度はどこ行こっか」
「ごめん。バイト入ってる」
「えっ!? クリスマスなのに!?」
「仕方ないだろ、生活費稼がないといけないんだから」
「こうなったら、真白のバイト先でクリスマスパーティーするしかないか」
「やめてくれ」
クビになったらどうするんだ。
バイトを探すのって、結構面倒くさいんだぞ。
「……イブは無理だけど、一応、クリスマスの夜は空けてるから。あんまり持ち合わせもないし、家でケーキ作ろうかなって思ってたんだけど、それじゃダメか?」
そう言うと杏奈はパッと表情を明るくして、勢いよく何度も頷いた。
喜んでくれたようで、ほっと胸を撫で下ろす。
これくらいしかできなくて申し訳ない。来年はもう少し計画を練ろう。
「真白ってお正月はどうするの? バイト?」
「いや、流石に帰るよ。うち、親戚もかなり多くてさ。正月になったらあちこちから集まってきてとんでもないことになるから、帰って色々手伝わないと」
「へぇー。じゃあ、あたしが混ざってても違和感ないよね」
「……ちょ、ちょっと待て。うちに来るのか?」
「ダメ? ご両親に挨拶しときたいんだけど。おたくの息子さんをくださいって」
「どんな挨拶だよ!?」
杏奈は僕の反応を見て、「じょーだんじょーだん」と悪戯っぽく笑う。
「でも、会ってみたいのは本当だよ? 大家族って興味あるし」
「……まあ、勉強で世話になってるただの友達ってことなら、会わせてもいいけど」
「あたしたち、ただの友達なの?」
「えっ」
「ふーん。そっかそっか。真白はそう思ってたんだ」
僕を半眼で見つめて、これでもかと不安を煽る。
やめてくれ、その目は心に効く。
「た、対外的にはそういうことにしとかないと、色々面倒なことになるのはわかってるだろ!」
「わかってるよ。ちょっと真白をいじめたくなっただけ」
「……本当にやめてくれ」
「でもさ、モデルやってる女の子に傷つけといて、ただの友達って言い張ろうとするのすごいよね。尊敬しちゃうな」
ぶふぉっと噴き出した。
杏奈は髪を手櫛でときながら、首筋の赤い痕をさりげなく見せつける。
「あたしのこと、そんなに欲しかったんだ」
「……ま、まあ」
繋いだ手に力がこもり、ぐちょりと手汗がにじむ。
拭おうと手を離すもすぐさま彼女に捕捉され、お互いの湿っぽい熱を交換する。
「ねえ」
「ん?」
「好きだよ」
「う、うん」
「うん、じゃなくって?」
「……僕も好き」
「へへっ」
赤面する僕にぴたりと身体を寄せて、杏奈はいつもの笑みで唇を彩った。
(あとがき)
重要なお知らせです。
去年のカクヨムコンで特別賞を受賞した『日陰者でいたい僕が、陽キャな同級生からなつかれている件』が書籍化します。
タイトルは『陽キャなカノジョは距離感がバグっている 〜出会って即お持ち帰りしちゃダメなの?〜』に変更し、レーベルは富士見ファンタジア文庫、発売日は3月19日です。
まだ公開できないのですが、大変素晴らしいイラストが付いてエモさがマシマシになっておりますので、見かけた際は手に取っていただければ幸いです……!
また、本作と『陽キャなカノジョ』は世界観が同じで、天城に敗北感を与えたモデルさんが『陽キャなカノジョ』のメインヒロインだったりします。
気になった方は、ひとまずWEB版の方を手に取っていただけたら嬉しいです。
そして、本作はこれで一区切りとなります。
たくさんのレビュー、応援ありがとうございます。続きは未定ですが、新作を二月下旬か三月に投稿予定なので、またよろしくお願いします。
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