第3話 From Russia with Love

 教室の喧噪。昼休みの教室は、友人と駄弁りながら昼食をとる生徒でガヤガヤと騒がしい。特に二年生になってからは、クラス替えで離ればなれになった友人同士で落ち合うことも増えたためか他クラスからの流入も多い。普段見かけない顔もいくつも見受けられるが、そんなことは霧葉の脳内ストレージを圧迫すべき事柄ではない。

 霧葉の通うM高校には、食堂が存在しない代わりに購買が充実している。近くにあるコンビニから出張してくる購買がそのメインとなっていて、四限が終了して昼休みになると、購買はいつも多数の生徒でごった返す。

 霧葉はいわゆる購買組だ。対義語としては弁当組がいるが、霧葉は弁当を作ってきたことは一度もない。霧葉は都内で一人暮らしをしていて、普段の生活では自炊もしないわけではないが、毎日弁当を作るほど殊勝な心がけはしていなかった。普段の生活でも、出来合いのもので済ませることが多い。

 さて、霧葉は今日も購買で惣菜パンとコーヒーを買って教室に戻ってくる。ただし、今日は二人分だ。

「買ってきたよ。いやー一回やってみたかったんだよね、パシリ」

「変な言い方しないでください。頼んだのは霧葉の方なんですから」

「ごめんごめん。ほんとにやってみたかっただけなんだよ? パシリ」

「分かりましたから、それ以上そのワードを言わないでください」

 呆れた顔で花穂はため息をついた。一番後ろの席と、一つ手前の席に二人腰掛ける。前の席を百八十度回して、花穂の机に昼食を広げると、それは周りと同じ『友達同士のランチ』だ。

「……結構沢山食べるんですね」

「そうかな? まぁこれでも育ち盛りだからね」

「惣菜パン五個は育ち盛りにしても大分過剰な気がしますけど」

「そういう花穂も三個は女の子にしては多いんじゃない?」

「頭脳労働に消費するだけです。燃費がよくないので」

「なら私と一緒だ」

 パンの袋を開けて、コロッケパンを一口かじる。ふと霧葉が外を見ると、鈍色の空と濡れたアスファルトが梅雨のコントラストを彩っている。霧葉と花穂が知り合ってから二ヶ月、六月に入って二人も新しい環境と新しい関係に慣れつつある。

「……霧葉って」

「ん?」

「霧葉って、雨が好きだったりするんですか?」

「ふふっ、よく聞かれる。それ」

「つまらない質問でしたか」

「ううん。雨は……結構好きかな。雨を浴びていると、全てが洗い流されて何もかもなくなってしまうような気がするから」

 全て。罪も罰も、返り血も何もかも流されて、涙さえも必要なくなる気がするから。

「……素敵ですね」

 同じように外を眺め、霧葉の方を見ないまま花穂は応える。その横顔を見ながら霧葉は、目の前の少女の優しい感性を想って少し微笑んだ。

「そんな風に言ってくれたの、花穂が初めてかも」

「そうでしょうね。だってそんな質問への回答をしたの、初めてでしょう?」

「……嫌だった?」

「……少し、嬉しかったです」

「……そっか」

 ペットボトルのブラックコーヒーを一口。励起された甘い香りをかき消してから、霧葉は二口目に手をつけた。

 昼休み終了の予鈴までの間が、二人が教室で一番近くに居られる時間だ。食事を終えて霧葉が立ち上がると、花穂が最後に一言、声をかけた。

「……あの。次は、私が買いに行きます」

「ふふっ。それでおあいこ、ね」

 ぽん、と花穂の手を優しく叩いてから、霧葉は自分の席へ戻っていった。


 このように、霧葉と花穂は『普通の友達』であった。それは霧葉にとって幸福ではあったが、また一つの十字架でもあった。

 授業を終え、花穂にも別れを告げて霧葉は帰路につく。霧葉と花穂は家路が反対方向だ。霧葉は電車に揺られながら、花穂は家でどうしているだろうか、などと考えていた。安住の地であるはずの家を『牢獄』と評した彼女は、また自分とは別の苦しみを背負っているのだろうか、と。あるいはこんなことを考えるのは愚かなのだろうか? 人間は誰しも、ある種の苦しみを抱えながら生きているのだから。

 時速八十キロメートルの動く密室から解放されて、霧葉は傘を差す。ぱしゃり、ぱしゃりとかつて雨粒だったものを踏みしめて。湿気た空気を吸い込みながら歩いていると、雨は大抵煩わしさを喚起する。恵みの雨に抗う人間は少なくない。ならば雨の行くところはどこなのだろうか。

「こんなことばかり考えてるから、燃費が悪いのかな」

 傘を畳んでしずくを落とす。霧葉の自宅は、都内某所にあるマンションの一室だ。高校生の一人暮らしというと少し奇異だが、治安省のエージェントである霧葉にとっては隠れ家の一つ程度の認識でしかない。このマンションも、数ある拠点の一つに過ぎない。

 集合ポストの前にたどり着いて、中身を確認する。水道屋のマグネットが一つ、ピザ屋の広告が一枚。

「今夜はピザ、か」

 そのまま部屋まで行き、電子ロックに番号を入力して扉を開く。ローファーを揃えて家に入ると、そのまま手元のガラケーで番号を打ち込む。

「あぁすみません、ピザを注文したいんですが――」


 数十分後。霧葉の部屋のインターホンが鳴る。

「こんばんは、ホームランピザです!」

 ドアカメラの画面に出たのは、フルフェイスヘルメット姿の人影。声は若い女性のもので、ピザ用のバッグを手に持っている。

「はいはい、ご苦労様です……お会計は中で」

「かしこまりました!」

 カメラを切ると、霧葉はまず自室の金庫から拳銃を取り出した。手に馴染むワルサーPPKにマガジンを込め、スライドを引く。カチャリ、という音が静かな部屋に響く。霧葉の顔はもう、数時間前の女子高生としてのそれではない。引き金を引く意志は、その目に宿っている。

 半身を隠しながら、ドアを開く。後ろ手にしている左手に銃を持ちながら。

「毎度お世話になっております、お待たせしました!」

 威勢の良い声のまま、配達員はヘルメットのガードを上げる。そこにあった眼差しを確認して霧葉は、ふっと緊張を解いた。玄関に招き入れて、外を確認してからガチャンとドアを閉じる。

「このやり方は二回目ですけど、大分ピザ屋が板についてきたんじゃないですか? 坂上さん」

 靴を脱いでヘルメットを外すと、茶色の長髪がふわりと舞う。霧葉よりやや低い背丈は凜とした背筋に支えられていて、茶色の瞳の眼光は鋭いとはいかないまでも気品を感じさせる。

「とんでもない。今時こんな連絡手段をさせられるだけでも特別手当をせびりたいくらいよ」

 彼女は名前を坂上麻美(さかうえ あさみ)という。霧葉と同じ、治安省国家安全保障局所属の諜報員だ。霧葉の所属が国家安全保障局外事部第四課で、主にオーヴァード関連の事件の捜査やUGNとの連携など、いわゆる「足を使う」部署であるのに対し、麻美は国家安全保障局技術情報部所属の情報分析官だ。霧葉は元から日本の情報機関に所属していたわけではなく、治安省にのみ所属しているが、治安省の他の職員は大半が元々情報機関の所属で、治安省による統合運用のために二つ目の役職を得て活動している。実際、麻美も元は「警察庁警備局外事情報部外事課外事技術調査室」が本来の所属だ。

 二人とも諜報員という立場上、こうして直接面と向かって会う機会はそう多くない。前回会ったときも、こうして連絡役として霧葉を尋ねてきたのだった。

「で、どんなピザを持ってきてくれたんです?」

「相変わらず話が早くて助かるわ。今回のピザは……キャビア入りよ」

「キャビア? ……あぁ、ロシアですか」

「そう。さ、今回のピザよ。熱いうちに食べて頂戴」

 そう言うと麻美はピザ用のバッグから……と見せかけて腰のポーチから、USBメモリを取り出して霧葉に渡した。

「ピザじゃないんですか? これじゃナゲットにもなりゃしない」

「ディスクじゃ容量が足りないの。文句を言うなら洒落の分からない外事部長に言って」

「部長からのお声掛かりですか」

「ロシア外務省外務次官のエヴゲニー・ボリソヴィチ・ポリヤコフが三週間前、非公式に来日。しかも連邦軍中央軍管区の参謀連中を連れてね。外務省欧州局はてんやわんやだそうよ」

「中央軍管区? というと……ウラル地方の方ですか」

「どうもそうらしいわ。現状ウラル方面で目立った動きは確認されていないけれど、こんな性急な動きからして何かあったのは確かね」

「それで? それだけなら対ロシアの第二課の担当のはずですが」

「そこよ。その外務次官に同行した工作員の一人が……来週、貴女の学校に転校してくるそうよ」

「転校? 転校って……『転んで向かう』の方ではなく?」

「そんなベレンコ中尉じゃあるまいし。名前は割れてる。ユーリヤ・カレリ。データはそのUSBに入っているけれど、簡単に言うと――」

「その工作員がオーヴァード」

「正解」

 はぁ、と霧葉は一つため息をついた。

「わざわざ貴女の学校に転校してくるって位だから、狙いは間違いなく貴女との接触よ、霧葉」

「わざわざ学校にまで入り込んでくるということは、目的は私の無力化と言うより私への何らかのアピールである可能性が高い……協力?」

「相変わらず冴えているようで何よりだわ。外務省の方でも事態の把握と協力体制の構築という方向で進んでいるわ。今後の対ロシア外交の方向性が貴女にかかっている」

「良い迷惑ですね……UGNの方はなんと言ってるんですか?」

「何も。これは我が国とロシアの間の外交問題。UGNが首を突っ込んでくるとすれば、FHやらが絡んできてからよ」

「あくまで当事国だけで解決する、と……」

「そのための貴女でしょう? 『最強の手札』さん」


 やがて情報の受け渡しを終えた麻美は再びその長髪をヘルメットに隠し、霧葉の部屋を去って行った。霧葉は自室のデスクで資料を見ながらコーヒーを啜る。

 ユーリヤ・カレリ。年齢二十一歳。確認されているシンドロームはサラマンダー、その他は不明。出身、所属、本名、本人を示す評価なども一切が不明。ほかには容姿のみが分かっていて、銀髪のウルフカットに碧い瞳がギョロリと目立つ。鼻筋がすらりと伸びていて、少し男性的な印象も感じさせる。

「部長は貴女に現場の裁量を全て委ねると言っていたわ。信頼に応える仕事ぶりを期待しているわよ」

 去り際に麻美が言った言葉を反芻しながら、ぐいっとコーヒーを飲み干す。

 霧葉は、もはや自分一人の命ではないことを知っている。それは自分の任務に多くの無辜の民衆の命がかかっている、ということだ。その中には当然、花穂も入っている。霧葉は、自分が一般人に溶け込みすぎたのではないかというある種の危惧を覚えていた。もし仮に学校が戦場になったとすれば、霧葉は友情を捨てて国益を優先させなければならない。それは、彼女たちに嘘をついていることに対する罰なのだろうか。あるいは霧葉が今まで正義だと信じて、いや信じようとして行ってきた、数々の行為に対する罰なのだろうか。

「罪と罰、か……」

 感傷とも取れる霧葉の独白とは裏腹に、事態は着々と進んでいた。


 翌週月曜日、朝のホームルーム。教室は担任の唐戸教諭が来る前から、ざわめきに包まれていた。突然の転校生の噂は、その容姿を見た者の伝聞のみで瞬く間に広がっていた。見慣れぬ銀髪碧眼の少女が校門をくぐる姿は、普段外国人を直接見ることのない高校生たちにとっては好奇心をくすぐるものであったのだろう。

 やがて唐戸教諭がガラガラと教室の扉を開けると、教室は静まりかえった。固唾を呑むような空気の中、花穂は自分の後ろに新しく置かれた新品の机を気にしていた。二年三組で最後列に居た花穂の、さらに後ろに新たな来訪者が座るのだ。

「はい、皆さんおはようございます。皆さんそわそわしているようなので、早速今日からの転校生をご紹介しましょう。どうぞ」

 唐戸教諭の視線の先、教室の黒板側の扉。霧葉の目の前を、銀色の嵐が通り抜けた。皆が息を呑む。長い睫毛とそのうちに秘めた力強い視線が、一帯を支配する。

「皆さん初めまして。ロシアから来ました、ユーリヤ・カレリです。日本に来たのは初めてですけど、日本語は精一杯勉強したので、結構しゃべれます。名前はユーリャって呼んでくださいね。よろしくお願いします」

 皆が流暢な日本語と涼やかな声にあっけにとられている中、霧葉だけは頬杖をついてつまらなさそうに観察をしていた。

 日本語が得意なのは当たり前。おそらくは家族に関するカバーストーリーも用意しているが、自分からは必要以上に言わない。歩き方はわざとカツンカツンと足音を鳴らす歩き方。身長は霧葉より少し低い百七十センチメートル、足のサイズは二十六センチメートル。見えている範囲では首筋が張っていて背筋が少し仰け反り気味。

 そこから先は表情から読み取れる心理状態の観察になる――というところで、霧葉はそれ以上の観察をやめた。窓側最後方を案内されて席に向かいながら、観察対象が霧葉にウィンクをしてきたからである。

 つくづくスパイというのは救いがたい生き物だ。他人の嘘を探り、自分もまた嘘をつく。その繰り返し。それは同族嫌悪であり、自己嫌悪でもある。目前に現れたロシア人女スパイに、霧葉は客観に徹しながらも、ある種の嫌悪感を感じずにはいられなかった。

 ユーリヤが席につくと唐戸教諭は粛々と朝のホームルームを続行した。とはいえ教室中の視線はユーリヤにくぎ付けである。

「皆さんユーリヤさんと話したくてたまらないでしょうから、手短に済ませますね」

 連絡事項はおおむね急の転校生に関することだった。委員会・係活動は後期までそのままであること、出席番号は暫定的に憐城花穂に次ぐ三十七番とすることなどが連絡された。

「皆さん急な転校生で驚いたかもしれませんが、普段通り、仲良くやってくださいね」

 ホームルームが終わると、ユーリヤの席には我先にと生徒たちが殺到した。彼女の席まで行かない生徒たちも、遠巻きに彼女のことを興味ありげに見つめている。そんな生徒たちの中心に、半ば巻き込まれるようにして花穂もいる。いきなり自分の後ろに転校生がやってくる驚きもさることながら、ユーリヤは積極的に花穂に話しかけていくのだった。

「ねぇ貴女、お名前は?」

「……私ですか。名前は花穂。憐城花穂です」

「カホね。何かとお世話になるかもしれないけれど、よろしくね」

「……私などで良ければ」

「フフッ、厄介ごとだと思った?」

「そんな顔をしていましたか」

「うぅん、お世話を焼きたいって顔だったよ♪」

「……皮肉も達者なようで何よりです。構いませんよ、不慣れなことは私に聞いてください」

 花穂は誰かのために自身が身を捧げることを苦と思わない人間だ。それは霧葉に出逢うより前から、彼女の本質であった。それは花穂の心からの優しさであり、信念でもある。尤も、花穂自身はそれをただのエゴと評価していたが。

 ともあれ、突然現れた異邦からの転校生はその存在感を遺憾なく見せつけていた。専ら男子はその美貌を、女子はその気さくな態度を話題にしているようだ。他クラスからも様子を見に来ている生徒は数多くいたが、そんな彼らを遠巻きに見ながら霧葉は、これからのことを思って少々憂鬱な気分になっていた。

 その日の正午過ぎ。花穂の姿は、霧葉の後ろの席にあった。大きめのレジ袋を机の上に置くと、缶コーヒーのカコンという音が響いた。

「お疲れ。こんなに早くお返ししてくれるとは思わなかったよ」

「まぁ、今日は……私が自席にいては邪魔でしょうし」

「あぁ、アレか……」

 霧葉は顔を花穂に向けたままユーリヤの方を一瞥する。クラス外からも転校生をひと目見ようと沢山の生徒たちでごった返す中、人混みの隙間から――

「げ」

 ――サファイアブルーの瞳と、目が合った。

「どうしたんですか?」

「いや、なんでも――」

 ガラッ、と椅子を引く音がする。すっとユーリヤが立ち上がると、周りの女子と比べて頭一つ出ている。人波をかき分けて真っ直ぐに自分の方へ向かってくるのを確認して、霧葉は大きなため息を一つついた。

「カホ、昼休みになった途端にいなくなっちゃうから寂しかったよ?」

「あぁ、すみません……買い物に行っていたので」

「まだ名前を覚えているのがカホぐらいしかいないの。今日はあなたに集中したいわ。……そちらは、カホの友達?」

「あぁ、はい……そうですね。私の友達です」

「そうなの。お名前は?」

「……霧葉。雨野霧葉だよ」

「キリハ。あなたもこれから、よろしくね」

 ニコリと笑みを交わしてから、ユーリヤは霧葉の左隣の席に腰を下ろした。

「せっかくだから、一緒にランチを食べながら親交を深めましょう? お弁当を持ってきてあるの」

「構いませんよ」

「それはまた、殊勝なことで……」

 快諾する花穂を尻目に、霧葉は心底まずそうにコーヒーを啜った。周りからは視線が一身に注がれていて、いいなぁだの映える組み合わせだだのと野次が聞こえてくる。

「それにしても、カレリさんは日本語がお上手なんですね」

「ダーメ、ユーリャって呼んで?」

「う……人を愛称で呼び慣れていないもので」

「フフッ、カホは真面目さんなのね。日本語はパパが日本人だったから、ずっと子供の頃からロシア語と一緒に勉強していたの」

「すると、やっぱりロシア語も堪能なんですか?」

「もちろん。例えば……」

 顎に手を当てて少し考えるそぶりを見せてから――ユーリヤは、霧葉に向き直った。

「Поговорим о работе позже. Встретимся у школьных ворот после школы.Я здесь из-за тебя.」

「え……霧葉、もしかして分かったりします?」

「……まさか。ロシア語なんてサッパリだよ」

「フフッ♪ これ、案外楽しいわね」

「どうもろくでもないこと言われてるらしいんだけど、花穂は分かる?」

「愛の告白ではなさそうですね? ヤーティビャーリビリュー、でしたっけ」

「Я тебя люблю. ね。愛の言葉だけは覚えてるなんてロマンチックじゃない」

「まぁ、そんなロマンチックな映画だったか……ともあれ、ロシア語は私もほとんど分かりませんね」

「そりゃロシア文学専攻の大学生でもなければね。あんまりそれで悪さしないでよ、ユーリャ」

「フフッ、善処するわ♪」

 霧葉と花穂は見合うと、互いに肩をすくめて同じ言葉を放った。

「「日本語がお上手」」

 

 その日の放課後。夕日が差す校門前で、霧葉は柱にもたれかかりながら昼休みのユーリヤの言葉を思い出していた。霧葉の記憶の中のユーリヤは、あろうことか衆目の中で霧葉に堂々と接触を持ちかけていたのだった。

「『あとで仕事の話をしましょう。放課後に校門前で。貴女のために私はここにいるのだから』ねぇ……」

「約束通り来てくれたようね」

 背中を向けた柱の方から声がする。

「約束した覚えなんてないけど……まぁいいか。移動しよう」

「おっと、主導権を握るのは無しよ、キリハ。場所は私が案内する」

「はいはい、お招きに預かりますよ」

 二人が校門をくぐる姿は、生徒の目を引くようでいくつもの視線が二人に刺さっていた。だが、霧葉とユーリヤの醸し出す雰囲気は、そこに近づいて話しかけようという気は起こさせないらしい。二人のあとを追う生徒の姿はなく、二人は尾行の有無を気にすることなく――

「ねぇ。百五十メートル後方からつけてくる車があるけど」

「はぁ……私だってそんなに信用されてないってことね」

「ってことはそちらさんの?」

「たぶんね」

「お互い面倒な仕事してるもんだ……」

「そういうキリハは尾行はないの?」

「現場の私に裁量は一任するんだってさ。ことロシア問題は私の管轄外だけど、君がオーヴァードだからってね」

「それもそれで大変そうね」

「そういうこと」

 やがて二人と一台の車がたどり着いたのは、N市郊外の住宅地にある一見普通のバーだ。店の扉には「CLOSED」と札が下がっているが。ユーリヤは構わず扉を開いた。店内の雰囲気は、暗めの照明とダークオークで統一されたテーブルや椅子のおかげで落ち着いていて、ずらりと並ぶ酒瓶が霧葉とは分不相応な空間であることを感じさせる。

「女子高生をバーに連れ込むとはねぇ」

「あら、キリハなら似合っていると思うわよ? 奥の席に座って。資料を持ってくるわ」

「ん……」

 ユーリヤは左手のカウンターの方へ姿を消していった。案内された最奥の席に向かいながら、店内の様子を観察する。オレンジ色の照明に照らされてキラキラと輝くグラスたちの合間に、カメラの類いは見られない。人が一人通れるくらいしか客席のスペースはなく、塞がれると突破は難しいように見える。天井が低いわけではないから、大きくジャンプすればなんとかなるかもしれない。ただ、こちらには武器がない。上手く立ち回れるかは、敵とどれだけ距離を詰めるかによって変わる。

(敵、か……)

 霧葉はまだ探りかねているユーリヤの真意を、今はまだ敵と判断するには早いと思うことにした。

「お待たせ。さぁ、仕事の話を始めましょうか」

 再びカウンターの奥から現れたユーリヤは、片手に紙の資料、もう片方の手にPCを持って霧葉の隣のカウンター席に座る。と、いうところで落ち着く間もなく彼女はもう一度立ち上がった。

「あぁ、そうそう。何か飲む?」

「まさか、酒?」

「そりゃあここはバーだもの。あるのは酒ばかりよ。まさか飲めないの?」

「仕事なら飲むけど、プライベートでは飲まないの。これでも遵法精神の使徒でね」

「じゃあこれは仕事だから飲んで。それとも酔った上で私と対峙するのに警戒してる?」

「……そこまで言うなら」

「フフッ、本国から来てるのよ、美味しいヴォトカ……日本ではウォッカ、だっけ。まぁ飲んでみて」

 ユーリヤはカウンターの向こう側に行くと、ウォッカを一瓶とショットグラスを二個持って霧葉の前に戻り、資料の横に置いた。

「ウォッカ、ストレートで飲むんだ」

「日本ではどう飲むか知らないけど、ロシアでは皆ストレートで飲んでるのよ」

 ショットグラスに透き通った無色のアルコールが注がれる。キンキンに冷えているのか、グラスはあっという間に結露で真っ白になった。

「さ、本場のウォッカは冷えているうちに飲むものよ。乾杯♪」

「これも仕事のうち、か。乾杯」

 ぐい、と一気に流し込むと、ふんわりと甘いアルコールの香りが鼻を抜ける。とろりとした液体がまろやかなのどごしで喉を通り過ぎたかと思うと、赤熱するような熱さが食道を震わせた。思わず、ふぅ、と息を吐く。

「いい飲みっぷりじゃない。結構お酒は強いの?」

「酔わない程度にはね。で、酒を振る舞うためだけにここに連れてきたわけじゃないでしょ? 仕事の話」

「そうね、早速本題に入りましょう」

 そう言うとユーリヤはパソコンを開き、一本の動画を霧葉に見せ始めた。それはコンテナ置き場の監視カメラのようで、画面には積まれたコンテナが映っている。

「これは……どこかの港?」

「セヴァストポリよ。一ヶ月前、このセヴァストポリ発日本の横浜行きの民間コンテナ船に、現在ロシアで捜索中のあるオーヴァードが潜伏。国外脱出に成功したの。その紙の資料を見て」

「コードネーム『прототип Татьяна』?」

「そう、『プロタティープ・タチヤーナ』。ロシア、ひいては旧ソ連時代から研究されていた放射線による強化人間製造計画よ。時にキリハ、ウラル核惨事は知ってる?」

「キシュテム事故、だね。ウラル地方チェリャビンスクにあったマヤーク核技術施設で起きた爆発事故。液体放射性廃棄物の冷却装置が故障して、高温になった硝酸塩結晶と放射性廃棄物がもろとも爆発したんだっけ」

「表向きは、ね」

「実際の事情は?」

「元々マヤーク核技術施設は、その施設で発生した高濃度の放射性廃棄物を使って、地下で人体実験をしていたの。それが『プロタティープ・タチヤーナ』の一つ、『Татьяна Антоненко』、通称『A実体』と呼ばれていたタチヤーナ・アントネンコだった」

「その調子でいくと実体は三十三人くらい居そうなんだけど……」

「実際最新で二十五実体まで研究されているわ。最新で、ね」

「まさか、今も研究中?」

「この研究は、現在は放射線によるレネゲイドウィルスの変化によって、オーヴァードを通常の人間に戻す研究として極秘裏に続けられているわ」

「そんな軍事機密をわざわざ私に話すからには……日本に潜入したオーヴァードっていうのが、その『A実体』なの?」

「と、見られている。ほぼ間違いなくね」

「でも……キシュテム事故なんて、もう六十四年も前の話でしょ?」

「事故は起きた。でも研究は続いていたのよ。次のページをめくってみて」

「これは……『A実体』の基礎情報。レネゲイドウィルス拡散前に確認されていたオーヴァードだったんだ」

「当時はレネゲイドウィルスも発見されていなかったから、彼女はESPの一種として研究されていた。キシュテムの事故では彼女の能力が暴走して地下で小規模の核爆発に近いことが生じたの。事故後、彼女は回収されさらに当地で研究は進んだ。彼女は、核物質を生み出すモルフェウスピュアブリードのオーヴァードとして、さらに軍事転用を視野に研究され続けた」

「待って。その話だとA実体は六十歳以上のはずなのに、この映像だと二十歳そこそこの見た目をしてる」

「そう。なぜ彼女が今に至るまで研究され続けたか、わからない?」

「……まさか、不老不死?」

「彼女は年をとらないのよ。事故のあった当時からずっと、ね」

 ふぅっと、霧葉は大きくため息をついた。情報の奔流をかき分け、整理しながら中空を見つめ、考える。

「さて、導入はこんなところ。もう一杯飲む?」

「……はぁ。まぁ、美味しかったからもう一杯もらうよ」

先ほどより少しぬるいウォッカを胃に流し込んで、身体が芯から熱くなるのを感じながら、思考を研ぎ澄ませていく。

「ウラル地方を含む中央軍管区の参謀が君と一緒に来日したのは、そういういきさつだったんだ」

「そういうこと。なぜA実体が日本を目指したのかは不明。途中、コンテナ船はスエズを通ってイランのチャーバハールやスリランカのコロンボ、シンガポールを経由したけれど、どこでも降りた形跡はなかった」

「ロシアのUGNはこの件については?」

「計画から知らないはずよ。この件についてロシア国外で裏の事情を知っているのはキリハ、あなただけよ」

「で、ロシア政府としては私にこのオーヴァードへの対処に協力しろ、と」

「流石、話が早いわね。こちらとしては、日本は地理不案内な上にUGNの日本支部もある。UGNに属さず、なおかつオーヴァードで対オーヴァード戦に長けている協力者……ということで、あなたが選ばれたってこと」

「一応私はUGNのイリーガルとしても活動してるけど。それでも良いの? 私が口を堅くしていられるとは限らない」

「うーん……この際だから言ってしまいましょうか。うちの上はこの際、この秘密を共有するものとしてキリハ、あなたを日本内部のバックドアとして確保しておきたがっている節があるわ。緊急時の仲介役としてね」

「『いざというときのために、裏口は開けておけ』か」

「まさに。随分一目置かれているようね?」

「諜報員の名が知れ渡ってちゃ困るけどね。それで、もし私が断ったら?」

「さぁ? 外の車の連中が『なんとかする』んじゃないかしら」

「はぁ……分かった、乗るよ。そんなヤツが日本国内にいつまでも居るんじゃこっちも迷惑だしね」

「フフッ、交渉相手がノイマンなのはやっぱり便利ね。もう一杯飲む?」

「くれぐれも、酒の力で交渉が成立したとは思わないで欲しいね。もう良いから、水を頂戴」

「はいはい、あなたの冴えっぷりをけなすつもりはないわ」

 再びユーリヤは立ち上がり、カウンターの向こう側へ歩いて行く。ユーリヤを見送りながら、霧葉は手元の資料にある『A実体』ことタチヤーナ・アントネンコの写真に視線を移した。

 腰まで伸びた銀色の長髪と緋色の瞳はアルビノを思わせ、彼女が人間離れした手合いであることを直感的に感じさせる。

「つくづく、ロシアから来る美人は私を困らせる」

「聞こえてるよ、キリハ」

「聞こえるように言ったの」

 戻ってきたユーリヤは、両手に水の入ったペットボトルを持っていた。その片方を受け取ると、霧葉は半分ほど飲んでからボトルのキャップを閉めた。

「もう少し話を進めようか。ロシア当局は居場所を掴んでるの?」

「横浜で降りた、という以上はこちらでは掴めていないわ。日本国内で潜伏中だろうけれど……」

「そもそもどうして彼女は脱走するに至ったの? 誰かが脱走の手引きをしたなら、そこから辿れる」

「それは私の仕事じゃなさそうね……上に言っておくわ。ちなみに、どうして手引きがあると思ったの?」

「脱走先にわざわざ日本を選んだ理由だよ。日本なら、そこらに匿ってくれるFHの連中がいくらでもいる」

「誰かに匿われている、か……FHに匿われたとなると、UGNの介入が厄介ね」

「私にはUGN方面の権限はないからね。そっちでは私は知らん顔を決め込むよ」

「キリハは立場が難しいものね……その辺りはこちらで手を打っておくわ」

「しばらくは私のやることはないのかな?」

「そうね、実際に居場所がつかめるまでは情報収集はこっちでやることになるわ。流石にこんなことを日本の情報機関にまでは話せないから」

「とはいえ、日本の公安が嗅ぎつけないとも限らないわけでしょ?」

「そういうときのための外交チームが来ているの。キリハは『現場での機密情報です』って言えば良いわ」

「ロシア人にしては気が利いてて助かるよ」

「ふふっ、ロシア人が全員退屈な人間だと思わないことね♪」

 目の前で微笑む銀髪の少女は、国を揺るがすような秘密をもたらしておきながら可憐に笑う。その真意を霧葉は未だ探りかねていたが、あっけらかんと話す彼女に、一定の信頼を置くのがこの場では得策だろうと考えた。またユーリヤの表情や声色から分析した結果も、その信用を裏付けていた。

「ところで、キリハ?」

「何?」

「最近はあのカホって子と仲が良いそうね?」

「……どこで聞いたの、そんなの」

「『キリハと友達になってみたい』って言ったらカラト先生が」

「あのクソアマ……」

「まぁ酷い。良い人っぽそうだったわよ? あぁ、それとも――」

 ニヤリ、と笑ってから、ユーリヤは続けた。

「――キリハは、『良い人っぽそうな人』が嫌いなのかしら」

「……別に」

 見透かしたかのようなユーリヤの表情に、一気に霧葉の機嫌は悪くなっていく。

「まぁカホは『良い人っぽくない良い人』だものね、キリハが好きになるのも――」

「ユーリャ。知った風な口をきかないで」

 ギロリとキリハの瞳がユーリヤの顔をにらみつける。不機嫌を敢えて声に乗せても、霧葉はその感情を隠したくなかった。

「フフッ、そうね。ま、あんまり肩入れしすぎないことね。これは人生の先輩からの忠告」

「……話はもう終わり?」

「えぇ。もう仕事のお話は終わり。この次はまた学校で会いましょう」

 ガラッと椅子を引いて、霧葉は立ち上がる。どうにも霧葉には、この場所で学校の話をするのが居心地が悪くてたまらなかった。

「あぁキリハ、出る前にこれ。私の連絡先よ。何かあったら連絡して」

「じゃあこっちも渡しておくから、そっちもよろしく。ただ……今日みたいなのはもう勘弁して」

「あら、嫌だった?結構楽しいのに」

「うっかりそれでロシア語勉強しかねないでしょ、それこそ花穂とかは」

 手元のスマホをすいすいと操作し、連絡先を交換し終えると霧葉は出口の扉に手をかけた。

「それじゃ……お互い、良い仕事を」

「えぇ。キリハ、ありがとう」

 ユーリヤの言葉を背に、キリハはバーを出た。見上げる空は、雨色だった。

「しばらくは降り続きそうだな……」

 雨は、まだ降り出したばかり。前途遼遠なこの先を見据える目は、まだ確かな眼差しを持てずにいた。

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雨上がりに見たシリウス いかざこ @ikazako

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