第14話 耳掃除2

 診察室に入ると、男性の医師と女性の看護師が一人いた。医師は俺の書いた受付票を見ながら言う。


「耳の中が汚れていると……。では、耳の奥を診てみましょう」

「こちらの台の上にナルちゃんを出してくれますか」


 看護師の人が、俺と一緒に洗濯ネットに包まれたナルをキャリーバッグから診察台へと移す。俺の手の引っ掻き傷を見たのだろう、看護師さんは猫が暴れるんじゃないかと心配顔だ。


「もし、暴れるようでしたら押さえつけますが、飼い主さんも協力していただけますか」


 この狭い診療室で暴れ回られたら大変だからな。少々力で押さえるのも致し方ないだろう。

 そう思っていたが、洗濯ネットから出したナルは借りてきた猫のように大人しくしてくれている。俺は落ち着かせるように背中を撫で続けた。

 医者はナルの耳に光を当てながら道具を使って耳の奥を覗いている。


「なるほど、相当汚れてますな。耳ダニかもしれませんし洗浄しておきましょう」


 ナルを少し押さえてくれと看護師さんに言われて、一緒にナルの体を押さえる。知らない場所に連れてこられて緊張しているのか、ナルは暴れる事もなく伏せてくれている。

 医者が乳白色のビニールボトルを手にして、先端のノズルから洗浄液だろうか液体をナルに耳に注ぐ。


 うおっ! そんなに液体を耳の中に入れてもいいのか? ドボドボと耳の中に洗浄液を入れて、耳を両手で持って揉むように動かす。

 ナルは嫌がって暴れようとするが、看護師さんと一緒に押さえつける。頭を傾けて耳から出てきた液体は真っ黒に汚れていた。

 なんだか大胆な治療をするんだな。2回同じ事をして耳の周りの汚れを綺麗に拭き取る。反対側の耳も同じように治療するが、医師は慣れているのだろう手早く治療して時間自体はそれ程かからなかった。


 薬をナルの耳に塗った後、首にはエリマキトカゲのような厚紙でできた保護具を取り付けて、キャリーバッグに入れる。

 ナルは、しきりに耳を後ろ足で掻こうとしたり首をブルンブルンと振る。そりゃ、あんなことされたら耳を掻きたくもなるだろう。


 家に帰ってナルをキャリーバッグから出すと、しきりに首を振って耳の中の水を出そうとする。床には黒い水しぶきが飛んでいるが、キッチンのクッションマットなら後で拭けば綺麗になる。ナルは気にする事ないぞ。

 それよりも、エリマキをしていて耳が自分で掻けないで、何度も後ろ足で掻く動作をしている。これは可哀想だな。耳周り飛んだ黒い洗浄液を綺麗に拭いて、俺が代わりに耳を手で掻いてやる。するとナルは目を細めて気持ち良さそうにしている。


 ナルも落ち着いてきて耳を掻く動作をしなくなった。耳の奥を覗いて見たが、汚れはまったく無く綺麗なピンク色だ。嫌な臭いも無くなっている。さすが医者がする耳掃除だな。料金も三千円程で済んだし、病院に行って正解だったな。

 ナルは首に付けたエリマキ……調べるとあれはエリザベスカラーという保護具だそうだ。ナルはそれを気にする事もなく、今は普段通りに部屋を歩いている。夜の餌の時間、エリザベスカラーを少し邪魔そうにしていたが、いつものように餌を食べていた。保護具を着けておくのは明日までだ、もう少し我慢してくれ。


 異変が起こったのは、次の日の朝だった。


「ナォ~ン、ナォ~ン」


 今まで聞いたこともない遠吠えのような大きな鳴き声がキッチンから聞こえてきた。ナルが俺を呼んでいる。

 急いでキッチンに行くと、ナルがトイレの中で倒れている。倒れたまま「ナォ~ン」と鳴き続けている。


「どうしたんだ! ナル」


 ナルを抱き起こすと、トイレをしたそうに後ろ足を折り曲げて立つような姿勢になるが一人では起き上がれないでいる。

 俺はそのままナルを支えてやると、糞をしたのか、後ろ足で砂を掛けようとするが、これも上手くいかず「ナォ~ン」と鳴く。


「分かった、分かった。俺がしてやるからな」


 ナルをトイレの外に出してスコップで砂をかけてやる。キッチンに出たナルがヨタヨタと千鳥足のような歩き方をして倒れ込む。

 一体どうしちまったんだ、ナル! ナルを抱きかかえたが、体に力が全然入っていない。まともに立こともできない。

 昨日の耳掃除が原因だと直感した。耳の奥には三半規管がある。体のバランスをとり、上下左右の回転や水平位置を知る大事な器官だ。それがおかしくなると極度のめまいが起きる。


 これはもう一度病院に行かないとダメだ。病院の診察券を見ると、日曜日の今日も午前中だけは開いているようだ。

 ナルをキャリーバッグに入れて、病院へと急ぐ。

 ナルの容体を受付で説明して、何十分かして診察室に呼ばれた。


「昨日の耳掃除の後、ナルがこんな風になってしまった」


 診察台の上に、上手く立つこともできないナルを支えて医者に見せる。


「耳掃除は安全なもので、それが原因とは一概に言えなくてですね……」

「昨日ここに来た時は、暴れるナルをそこの看護師さんと一緒になって押さえたじゃないか。そのナルがこんなになっているんだぞ」


 あんなに薬液を耳に入れたんだ、それが原因に違いないだろう。

 口ごもる医師。


「俺は一人暮らしだ、トイレもまともにできないこんな状態じゃ、明日から会社にも行くことができないじゃないか。ここの責任でナルを預かってくれ」


 この病院にもペットを入院させる設備はある。ここにひとまずナルを預かってもらいたい。

 医師は耳掃除が要因だとは認めたがらないが、ナルを預かる事は了承して数日間様子を見ると言った。


 これでナルが良くなってくれたらいいんだが。俺は不安を抱えたまま翌日からの仕事に就いた。帰宅してもナルの事が気になったが、昨日の今日で容態が変わる訳でもないだろう。俺は気を紛らわすようにテレビをつける。

 三日後の水曜日、会社帰りに動物病院に寄ってみた.


「ナルの様子はどうですか?」


 受付に聞いてみる。


「はい、ナルちゃんは段々良くなってますよ。見てみますか」


 病院の奥、狭いケージに入れられたナル。


「ミャーオ」


 俺に気がついてヨチヨチとこちらに近づいてくる。まだまともに歩けないようだが元気にしているようだ。

 ケージの隙間から指を入れてナルの頭を撫でる。週末には退院できるだろうと看護師の人が言う。もちろん料金はかからない。


 土曜日の午前中。キャリーバッグを持って病院に行くとナルはすっかり元気になっていた。ミャー、ミャーと俺に甘えてくる。キャリーバックにも大人しく入ってくれて、ナルを引き取り病院を後にする。


 ナルの事を心配して一人過ごした一週間。俺にとっては長い一週間だった。

 今日からはまたナルと一緒に暮らせる。いつもの俺の生活が返って来た。

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