第5話 目覚まし
朝、遠くに女の人の声が聞こえた。美しい声だ、ここは夢の中なのか?
「ねえ、ねえ」と言っているようだが、舌足らずな可愛い感じの声だ。人の手が俺の頬に優しく触れる。温かくてなんだかプニプニしているぞ。その人の方に顔を向け目を開けると……あれ、鼻の頭が黒い。猫の顔? ナ、ナルじゃないか! そのナルの瞳がキラリと光る。
「イテッ!!」
頬に痛みを感じて飛び起きると、俺のすぐ横、布団の上には爪を出して片手を持ち上げているナルがいた。
「ニャ~オ~ン」
俺はナルに頬を引っ掛かれたようだ。まだ朝の六時前じゃないか。朝飯が欲しくて俺を起こしたのかよ。
「ナルよ~。もうちょっと優しく起こしてくれんか」
「ミャ~、ミャ~」
ナルに急かされてキッチンへと向かう。餌を小鉢に移してナルに与えると、余程腹が減っていたのかナルは夢中で餌を食べている。
「飯でも作るか」
いつも起きる時間より三十分以上早いじゃねえか。今日は会社だが七時半に家を出れば充分間に合う。まあ、たまには朝早く起きるのもいいか。
あくびをしながらも、トーストを焼く。
いつも見ない早朝のテレビ番組を見ながら朝食を食べていると何だか体がかゆいぞ。昨日ナルと布団で寝ていたが、もしかするとノミが移ったのか。
こりゃ困ったぞ。この部屋中ノミだらけになっちまう。急いで部屋中に殺虫剤を撒き、布団も広げて殺虫剤をかけるがまだ心配だな。
洗濯した方がいいな。俺は寝間着のスウェットを脱ぎ布団のシーツを外してベランダの洗濯機に放り込む。
ナルのシャンプーもしておくか。ノミの元凶はナルなんだから、ナルを洗わんとどうにもならん。
幸い昨日猫用のシャンプーも買って来ている。俺は下着のままナルの居るキッチンへと向かう。ナルは床に座って毛づくろいをしていたが抱き上げてバスルームに入る。
何だか訳が分からないと言うような顔で、俺に連れられて風呂場に来たナルだったが、シャワーから温かいお湯を出した途端急に嫌がって暴れる。
「すまんな。少し我慢してくれ」
足と手でナルを押さえながら猫用のシャンプーを使って全身を洗う。暴れるナルを何とか捕まえて体中を洗い流すと、黒い小さな丸い粒が水に流されている。死んだノミなんだろう。丹念に洗ってすすぎまですると、俺もビチャビチャに濡れてしまった。後でシャワーするから気にする事はない、まずはしっかりとナルを洗ってやらんとな。
先にナルを乾いたタオルで拭いて毛の水分を拭き取る。ナルを外に出してバスタオルで拭いてドライヤーで乾かす。これも嫌なのかナルは暴れてなかなか言う事を聞いてくれない。何とか体の水分を落としてある程度まで乾かす事ができた。バスタオルと普通のタオルを何枚か濡らしたがこれも洗濯機行きだな。
ナルは床で一生懸命自分の毛を舐めて毛づくろいしている。シャンプーが余程気に入らなかったかもしれんが、ちゃんと泡は洗い落としたし、口に入っても害になる事はないだろう。このまま放っておいても大丈夫だな。
「俺もシャワーを浴びるか」
会社に行く前にこんな事でシャワーを浴びるなど初めてのことだ。まあ、朝早かったし会社には間に合うだろう。
髭を剃ろうと鏡を見ると、朝ナルに引っ掻かれた頬に三本の傷跡があった。たいした傷じゃないだろうがちゃんと洗って薬を塗っておいたほうがいいな。
格好悪いが絆創膏も貼っておこう。朝からドタバタと騒がしくしたが、何とか支度を整えて入り口のドアを開ける。
「ナル。大人しくしてるんだぞ。夕方には帰って来るからな」
まだ毛づくろいをしているナルにそう言って玄関を出る。
駅まで歩いて三分、電車とモノレールを乗り継いで四十五分で職場に到着する。
「おはようございます。篠塚班長。あれ、頬、怪我されたんですか」
職場で女性社員から声をかけられた。
「ああ、ナル……いや、今朝、隣で寝ているかわいい子に引っ掻かれちまってな」
「まあ、まあ。朝からお盛んですね」
俺は職場では、独身でまったく女っ気が無いと認識されている。他愛もない冗談だと受け取られたようだ。やはり絆創膏は目立つか。もうしばらくしたら剥してもいいだろう。
始業のチャイムが鳴り席に着き仕事をしていると、係長から呼ばれた。
「お~い、篠塚君。ちょっと来てくれるか」
隣りの小さな会議屋に行くと、女性が一人係長の横に立っていた。
「今日から君の班で働いてもらう事になった、早瀬さんだ。よろしく頼むよ」
小柄で肩まで伸ばした茶色がかった髪。私服の紺のスカートに襟のあるブラウス、その上にまだ折り目のついた真新しい会社の上着を着た、いかにも新入社員と言った格好だ。
「
「ナル?」
「あっ、いえ。なるみです」
キョトンと大きな栗色の瞳でこちらを見てくる。最近はナルの事に掛かり切りだったから、ついつい聞き間違いをしてしまった。
「すまん、すまん。失礼した。飼っている猫がナルと言う名前なんで聞き間違えてしまったよ」
「えっ、班長も猫を飼っているんですか、私も一匹飼っているんですよ。まだ二歳にもなってないんですけど」
「ほう、そんな小さいのか」
「小さいと言っても、もう成猫ですよ。それでですね……」
隣りにいた係長がコホンと一つ咳払いをする。
「あ~、君たち。そういう話は昼休みにでもしてくれんかね」
「申し訳ありません、係長。早瀬さんも、すまなかったな。じゃあ、仕事の話をしようか」
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