「桃源郷」
深い深い渓谷の先か、剣山のような岩の群れた奥地に。
迷い人でもなければ入る事が叶わぬ仙郷があると言う。
「思想じゃな。カカカ、魂の奥にて誰しも持つ幻想を描いたものに過ぎんよ」
「しかしご老人、この地こそ桃源郷に相応しい地なのでは」
「さて、若者は夢見がちでいかん」
「そもそも、あなたこそ仙人なのではありませんか?」
迷い込んだ若者は面倒を見てくれた老人に問うた。
老人は煙管を片手に笑う。
白く長い髭に、胡坐をかいて動じないその姿に、若者は賢者の姿を見ていた。
「儂が仙人なら、腰痛で寝込んだり物忘れに煩わされたりする事もなさそうじゃな」
「そうやってはぐらかして!」
のらりくらりと益体もない会話に若者は立ち上がって外へ出る。
そして入口から方々を指差し、更に畳みかけた。
「ではあの仙女としか思えぬ美女は何者ですか!」
「恋は盲目と言う」
「あのような透き通った羽織もの、見たことがありません」
「それは物知らぬだけじゃな」
「では何故あの娘は駆けるように飛び、果樹の枝に降り立てるのですか」
「そのように見えるのは武の鍛錬が足りぬだけじゃよ」
若者は苛立ったように別の方向を指差す。
「あちらも見てください。常に虹がかかり、夕焼けに満たぬ空の色。夜の来ない地です」
「太陽の沈まぬ地はここだけではないぞ。白夜と呼ばれておる」
「そもそも、そのような博識。こんな場所で学を持っている事がおかしな話でしょう!?」
憤る若者に、老人は目を伏せて首を振る。
「見識の狭い若者よ。己の物差しばかり見てもつまらぬだろうに」
「ええ、ええ。私はまだまだ若い。あなたに比べれば赤子だ。賢者の如きあなたからすれば無知でしょうとも」
「何もそこまでは言っておらん。謙虚になれとはよく聞く話だが、卑屈になっても仕方あるまい」
道に迷い、死を覚悟しながらも迷い込み、一人桃源郷だと興奮し。
まるで道化のように空回りしていた男は家へと戻って項垂れた。
「良いかね。君は先に桃源郷という幻想を見たうえで、その型にはめるようにこの場所を裁定しておる」
「それは、否定できませんが。けれど」
「そのような見方では黒も白に、白も黒になりかねん」
「はぁ。おっしゃることはわかります」
老人は煙管を火鉢へと置き、脇にあった浅い籠を若者の方へと差し出す。
籠には瑞々しい桃の果実がいくつか乗っており、甘い香りを漂わせていた。
「ここがどのような場所か知りたければ食べなさい」
「これは……?」
「ただし。食べるのなら、もう二度と元の地へは帰れぬよ」
「ではやはりここは」
若者は生唾を飲み込み、桃の果実へ手を伸ばす。
仙郷やこの世ならざる地で食事をすると帰れぬという伝承は本当だったのか。
迷い疲れた若者は覚悟を決めた。
桃源郷と呼ばれる地は、目的を持った者では辿り着けぬ場所と言う。
奥底にある幻想。山奥で迷った末に見るそれは、甘美な夢物語かもしれない。
死の間際、安らかに眠るため若者が見た憧れの幻か。
それとも本物だったのか。
戻らぬ者から聞ける話はないのであった。
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