第20話 弱い子供、弱い大人


 遊はベッドを背に膝を抱えて、床に直に座っていた。手足が冷たかったが何とかしようとは思わなかった。泣いているうちに窓から入り込む光量は増えていく。


 嫌いな朝がやって来たとぼんやりと頭の片隅で考えた。


 涙はもう出なくなってきている。


 頬を指先で擦る。痛い。


 どこかで鳴いている雀の声に混じって、扉がゆっくりと開く音がした。


「何だ、ひどい顔をしているな。遊」


 遊は懐かしい声に顔をあげた。


「久し振りだな」


「……ギー?」遊は膝を抱えたまま、扉の前に立つギーを目を細めて見た。扉から入る光が眩しいのだ。「……どうして?」


「わけはちゃんと話す。とりあえず入っていいか?」


 遊は小さく頷いた。


「やれやれ、またこんなトコに来るとは俺も思わなかったよ」ギーは扉を閉めると遊と並んで床に腰を下ろした。微かに漂う煙草の匂い。ギーはあまり人が吸わないキツ目の銘柄が好きだ。そのせいか匂いも他の煙草と少し違っていた。ギーの衣服に染み付いた匂いを嗅いで遊は少しだけ落ち着いたような気がした。


「手、貸してみろ」ギーはそう言うと遊の手首を取った。


「何?」


「はずしてやる」ギーは太い指でにぎった鍵を遊のはめている手錠の鍵穴に挿して回す。カチリと涼しい音を立てて手錠はあっさりと遊の手首を開放した。


「いいの?」遊は軽くなった手首を撫でながらギーに尋ねた。


「いいさ。俺がここの教師達に頼んだんだ。俺だってゲームを生き抜いた兵士で大人だ。大人同士なら色々と融通も利く」


「……そうだね。ギーは大人だもんね」


「不服か?」


「そんなことないよ。ありがとう」


「手首の包帯も後で替えて貰えるように言っておく。あと、他にも傷があるな。それも手当てしてもらおう。早くしないと傷跡が残る」


「もう娼婦じゃないから、残ってもいいんだよ」


「馬鹿、そういう問題じゃないだろう」


 ギーの口調は少しだけ強かった。言い返す言葉はいくらでも思い浮かんだが、遊は何も言わなかった。

 しばらく二人の間に沈黙が横たわった。いつもこうだった、と遊は以前の自分を思い返す。ギーの部屋に遊びに行ってもほとんど会話らしい会話はなかった。遊が適当に本を読んだり、菓子を食べたりするだけ。ただ時間を過ぎるのを待つために行くような。それでも娼館や学校に居るよりはまだマシだった。いや、マシだと思いたかっただけかもしれない。


「遊」


 沈黙を先に破ったのはギーだった。遊を見ないまま口を開く。


「何?」


「退役したら、俺と暮らそう」


「え……」


「お前も二十歳まで生き延びれば、ゲームから抜け出せる。それにわずかだが政府から年金ももらえる。俺とお前、二人分の年金を合わせればそれなりに暮らしていける」


 遊は何も言わない。


「お前のこれまでのスコアを見た。お前には才能がある。お前ならきっと生き残れるはずだ」


「……それって、私にセレクションに出ろって言ってるんだよ。ギー」


「そうだ」


「仲間を殺せって言ってるんだよ?」


「こんな場所に本当の仲間などいやしない」


「――軍に頼まれたの? ギー」


 遊はギーの横顔を見上げる。ギーは遊を見ない。


「私がセレクションに出ないと軍が困るから、説得しろって頼まれたんだ。だから、わざわざここまで来たんだね」


「……否定はしない。確かに軍からお前を説得するように依頼された。しかし、誤解するな。俺はたとえ軍に頼まれなくてもお前を説得しただろう」


「どうして?」


 遊はずっとギーの横顔を見つめている。しかし、ギーは遊を決して見ない。


「言っただろ? 俺はお前と暮らすつもりだ」


「一度見捨てたのに、どうして急にそんな気になったの? おかしいよ」


「見捨ててなんかいない」


「……娼館に私を売ったじゃない」


 遊はギーから視線を外すと、うつむいて膝を抱えた。


 暗闇に逃げ込む。視界を遮断し、嫌な現実から何とか自分を守る。


 そうしないともう壊れてしまいそうだ。


「……頼む遊、戦ってくれ」


 ギーの声は震えていた。こんな弱々しいギーの声は初めて聞く。


 そんな声聞きたくなかった。


「……そっか、わかったよ、ギー。ギーは軍に脅されたんだね。説得しないと殺されるとか、年金止めるとか」膝に額を押し付けたまま、遊は独り言のようにつぶやいた。


 ギーは何も言わなかった。


 が、その沈黙が答えだと遊は思った。


 何て弱いんだろう。大人なのになんて弱いんだろう。


 子供は弱い。そして、大人になっても弱いままなんだ。


 じゃあ、いったいどうすればいい?


「……いいよ」遊は姿勢を崩さず、声をしぼり出した。


「――本当か?」


 ギーの声が明るさを取り戻した。それが何だか滑稽でおかしい。


「私がギーを守ってあげるよ」


 遊は顔を上げて、笑んでみせた。


 目尻には新しい涙が浮かんでいた。


 遊の言葉を聞くと、ギーは遊の手を握り何度もありがとう、と礼を言った。そして、また会いに来るからと勝手に約束をして白い部屋を出た。遊は朝の陽光がしだいに床の上の影を侵食していく様子をぼんやりと見つめていた。部屋にはギーの残り香が漂っている。その匂いももうすぐ消えてしまうだろう。

 遊はギーの出て行った扉を見て言った。



「さよなら、お父さん」


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