第19話 ココデシカイキラレナイカラ


 月明かりに照らされた食器とトレイが遊の目に入った。


 遊は右頬を床に貼り付けたまま、目線を部屋の中に漂わせる。白かったはずの部屋が薄く青味がかった闇に染め上げられ、まるで海の中に沈んでいるかのような錯覚をもたらす。意識が少しずつ覚醒しだした。顔を動かして上を見た。高い窓から月がこっちをのぞいている。


 寒い。


 床にずっと倒れていたせいで身体が冷え切っていた。


 遊は何とか立ち上がろうとする。床に手をついた時、手首に包帯が巻かれていることに初めて気付いた。誰かが手当てしてくれたのか? それにもうすっかり冷め切ってはいるけど食事が用意されている。痛みで気を失っている間に誰かが入ってきて最低限のことをしていったのだろう。遊は特に空腹は感じなかったが、床に放置してあるトレイを手にベッドへと移動して腰掛けた。少しだけでも食べたほうがいいだろう。


 膝の上にトレイを載せて、とりあえず千切ったパンを口に運んだ。


 味はしなかった。パサパサとした不快な舌触りがする。


 さっさと飲み込みたくて、スプーンですくったコンソメスープを多目に口に含んだ。


 胃にパンの小さなカケラが落ちる。


 遊はスプーンをトレイに戻して、食べるのをやめた。


 美味しくない。


 一人のご飯は美味しくない。


 薄荷と寮で食べる夕食が懐かしかった。


 今夜、きっと薄荷も一人で夕食を食べたんだろう。


 その様子を想像するだけで、つらい気持ちになる。


「ごめんね」と自然に遊の口が動いた。


 遊はトレイを膝から下ろすと、背中をシーツに投げ出した。


 月明かりのぼんやりした光と青い闇が遊の視界を満たす。こうして自分が動くのをやめてしまえばみるみる静寂が空間を塗りつぶしていく。このまま朝が来なければいいのに。そうすればもう何も考えなくて済むのに。やっぱり私は光より闇が好きだ。何もないのが好きだ。何もなければ怖いことも起きない。光のある場所は怖いことばかりだ。システムに傷つけられ、利用されてばかりだ。


 もう傷つきたくない。


 やわらかい闇に包まれて、じっと息を殺していたい。


「朝なんて、来なければいいのに」遊はシーツの中でつぶやいた。


「でも、朝来るし。もう起きなよ遊」


 ベッドでぐずる遊の顔をのぞきこみながら薄荷が嘆息した。


「あ、おはよ。ごめん、あと五分だけ」遊は半開きの目で挨拶した後、再びシーツを被ろうとして、


「あんた、何勝手に私の部屋入ってるのよぉぉぉおおおおぉっ!」


 飛び跳ねるようにして起き上がった遊は薄荷のあごに蹴りを放つ。


「わぴっ」


 薄荷は謎の擬音を口で発しながらきっちり空中で五回転をきめた後、顔から床に落下した。あ、ヤバッ。さすがにコレは逝ったかもしれない。早く証拠を隠滅……じゃなくて、手当てしないと!


「は、薄荷ごめん! 大丈夫?」遊はベッドから飛び降りて薄荷のところに駆け寄った。


「えっと、う、うん」首をこきこき鳴らしながら薄荷が微笑する。


「よかった~。いくらアホみたいに丈夫なあんたでも今回はマズイかなって思ったけど……平気そうだね」


 薄荷の様子を見て、遊はやれやれと息をつく。


「うん。遊が三人くらいに分身して見えるけどすぐ慣れるよ!」


「……」


 あまり平気ではなかったようだ。


 でも、つっこむのは怖いのであえてスルーすることを遊は選択する。


「んじゃ薄荷、私はもう少し惰眠をむさぼるから私が自然に起きる頃を見計らって朝ごはん用意しておいてね。あ、今朝は和食がいいかな」


「……惰眠ってわかってるなら起きようよ。あと遊が自然に起きる時間なんてわかんないし、今日は遊が朝食当番なの完全に忘れて――っていうか遊ベッドに戻らないでよ! 僕の話を少しは聞こうよ!」


 薄荷は半泣きですでにノンレム睡眠に突入していた遊の肩を揺する。


「う、う~ん、もう食べられないわよ……」


「そんな前時代的なボケはいいからもう起きてよ!」


 ゆさゆさと薄荷は遊の身体を揺らし続ける。しかし、遊はごろんと寝返りを打って薄荷に背を向ける。


「だって、せっかくの夏休みじゃん。寝坊させてよ~」


「違うよ遊~、今日から新学期だよ~」


「うん、今日から新学期――って、それを早く言いなさいよ!」


 遊は薄荷の側頭部にチョップで強めのつっこみを入れた。


「はうっ」


 かっくんと薄荷の首がありえない角度で曲がったような気がしたがあえて遊は気にしないことを選択する。とりあえず枕元の目覚まし時計を確認した。始業開始まで後十分だと非情な通告を受ける。がっでむ!


「今から着替えて全速で走っても無理じゃん! く、優等生の私が初日早々遅刻なんて……!」遊は大仰に頭を抱えて、ぶんぶん振る。


「大丈夫だよ! 遊がだらしないのは皆知ってるから!」


 薄荷が明るい笑顔で遊を慰める。


「そんないい笑顔で言うな! あとフォローになってない! あ~もう、着替えの準備もしてないのに~っ! お母さんがもっと早く起こしてくれないからっ!」


「いや、僕、遊のお母さんじゃないし、ていうか遊、最近すっごい我がままだから気をつけたほうがいいよ。はい、これ」薄荷は綺麗に畳んだ制服を差し出した。「洗濯はしてあるから。ほら、早く着替えて学校行こう!」


「……ぶっちゃけ、学校行くのすっごいメンドーくさい……」遊は口をへの字に曲げた。


「今日は始業式だけだし我慢しようよ。あ、ちゃんと行ったら夕食、遊の好きなオカズにしてあげるから。キンピラごぼうとロールキャベツ!」


「私は子供かっ! はぁ……わかったわよ。部屋から着替えるから出て行って――」遊はぶつぶつ文句を言いながら制服の上着とスカート、それにその間に挟んであった下着をとりあえずベッドに置いて、


「ブラとパンツは触るなあぁぁああああっ!」


 気が利きすぎる幼馴染に本日二度目の蹴りを放つのだった。




 遊と薄荷はトーストをくわえつつ通学路を「遅刻、遅刻!」と爆走した。


 かなりアレな絵だなとは自分達も思ってはいたが、腹が減っていたのだから仕方ない。校門をくぐり抜けた時予鈴が鳴って、昇降口で上靴に履き替えていると予鈴が鳴り止んで、階段を駆け上がる時本鈴が鳴り始めた。遊と薄荷は口をもごもごと動かしながら足を加速させる。本鈴が鳴りやむ前に担任が教室にやってくる。そうしたら完全にアウトなのだ。


「うう~っ、ゆ、遊、僕もうダメ~っ」


 薄荷がふらふらと左右に蛇行しながら情けない声をあげた。


「あとちょっとじゃない! ほら、しっかり! あんた男なんだから根性出すのっ!」先行する遊は薄荷の手をしっかと握るとぐいぐいと引っ張っていく。


 遊の手に薄荷の手の感触が伝わってくる。


 薄荷の手はすべすべで触っていて気持ちいい。肌がきめ細かいのだ。


 やっぱり薄荷は女の子より女の子っぽい。


 それに肌だけじゃなくて髪はさらさらでキレイだし、芸能人が裸足で逃げ出すくらい美形だし、その上料理洗濯が得意なのであるこの男子は。


 遊は少しムカついてきた。


「あ、あんたなんか、本当は男の子なんだからねっ!」


 意味無くけん制してしまう。


「? そ、そうだけど?」


 薄荷はきょとんとして首をひねる。


 本鈴が鳴り止むと同時に、二人は教室に転がるように飛び込んだ。教卓の方を凝視する。まだ担任の姿はない。


「よし!」


「よ、よかったよ~」


 二人でとりあえずハイタッチをした。これがいつものお約束だ。


「じ、じゃあ、後でね~」


 薄荷は額にいっぱい汗をかきつつも、笑顔を浮かべて自分の席の方へと移動する。薄荷の姿を見ると周囲のクラスメイト達が、わっ! と集まってくる。薄荷は人気者だ。特に女子に受けがいい。彼女達は相手が男子なのにやたら薄荷の髪や身体をぺたぺたと触り、あまつさえ「薄荷くん、可愛い~」と抱きついたりする。薄荷も苦笑しつつも逃げたりはしない。だから最近クラスの女子の薄荷を愛でる行為はエスカレートする一方だ。


 正直、遊の心中は穏やかではない。


 いつも自分の席から尖った視線で、薄荷と女子達の様子を見ている。


 ――もう、あの子いっつも薄荷の髪いじって……変なクセでもついたらどうすんのよ?


 ――ああ! あの子薄荷の顔を自分のむ、胸に押し付けて! 薄荷嫌がってるでしょっ?


 ――ていうか、だいたい薄荷がちゃんと断らないから!


「おはよ、南野。ん? 何怖い顔してんの?」


 遊は目を三角に尖らしたまま、声がした方を振り向いた。真っ黒に日焼けした夏目がにぃと白い歯を見せて笑っていた。


「おはよ、夏目。あと怖いとか言うな」


「いや、怖いもんは怖いし」夏目はそう言って遊が見ていた方向に視線を移し、またにぃと笑う。「あー、東雲のせいかー。あいかわらず人気すげー。ハーレムじゃん」


「ハーレムって、あんなのただ遊ばれてるだけじゃん。ペットみたいなもんだよ」


「その認識は甘いよ南野さん。薄荷くんてさ、顔は女の子みたいに可愛いけどいざという時頼りになるし、それでいて優しいし、母性本能くすぐりまくりだし、そんなコ、女子はほっとかないでしょ。私だったら速攻ヨメにするね!」


 担任の泉野が腕組みをしつつ、うんうんと一人で頷いていた。


「……泉野先生、薄荷は男ですから。ていうか、ナチュラルに生徒の会話に混じらないでください」遊は突然音も無く自分の前に現れた女教師の顔を見上げる。


「全然気配とかなかったんですけど……」夏目も目を見開いて驚いていた。


「消してたからね!」


 消すなよ、と遊と夏目は心の中でつっこんだ。


「南野さん、このままだと薄荷くんとられちゃうよ~? いいの~?」泉野が人差し指で遊の頬をうりうりとつつく。


「いいも何も薄荷は私の所有物じゃありません」遊は泉野の攻撃を受けながらも至極まっとうな答えを返す。


「何、その模範解答。気に入らねー」しかし、夏目は「け、この根性なし」とやさぐれる。


「何よ夏目。本当のことでしょ」夏目の態度がカチンときた遊がじろりんと夏目をにらむ。


「いんや、南野は嘘をついてるね! 本当はお前だって、あの東雲ファンクラブに混じって『薄荷くんて、超イケてない?』とか言ってイチャつきたいんだろ! ていうかあたしがイチャつきたい」


「お前がかよ!」と遊と泉野が同時につっこんだ。


 遊は朝からつっこみ疲れがたまっていた。


「とにかく、私も薄荷くんとイチャつきたいからこっちに呼ぶね。おーい、薄荷くーん♪ 南野さんが、色々な意味で大事な話があるからこっち来て~」泉野が満面の笑みを浮かべて適当なことを言い出した。


 色々って何?


 あと、さりげなく私をダシにしている?


 遊が泉野につっこみを入れる前に、薄荷がくるっとこっちを向く。


 遊を見て微笑む。


 それがすごく嬉しい。


「あ……」


 遊は唐突に自分の薄荷に対する感情に気付いてしまった。


 とくん、と心臓が高鳴る。


 薄荷は周囲の女子達に「ちょっとごめんね」と謝って席を立つと、とことこと遊の所へと歩いてくる。


 ――とくんとくん。


 遊の心臓がますます早く鼓動する。


 あれ? 何?


 私、緊張してるの?


 ――とくんとくんとくん。


 顔が熱いよ。あ、あれ? 待って、待って薄荷。


 遊は思考がまとまらない。でも、そんなことはお構いなしに薄荷は近づいてくる。


 そして、



 遊!



 激しく扉を叩く音と自分を呼ぶ声で目が覚める。


 遊はシーツの中から顔を出した。ぼんやりとした意識と視界がじょじょにクリアーになっていく。窓から届く月の光に照らされて、薄暗い闇の向こうの景色が浮かんでくる。


 白い壁、


 コンクリートの床、


 点々と付着した血の跡、


 金網のついた扉。


 そして、金網の向こうの薄荷の顔。


 遊は気がついたらシーツを蹴り飛ばして駆け出していた。


「薄荷あああっ!」


 たった数メートルの距離が何とももどかしく感じる。


 時間にして一秒ない。


 が、遊は扉の向こう、夜の闇の中に立つ薄荷に――


 薄荷の姿が突然消えた。


「薄荷!」


 続いて遊の声を遮るように、大人の男達の怒声と何かを叩き、破壊するような音がした。遊は扉に顔をくっつけるようにして、金網の向こうを見る。三人の大人達が地面にうずくまった薄荷を傷つけていた。蹴りつけ、機銃の銃床で打ち据えている。何の武器も持たない薄荷は頭を庇うようにして身体をまるめ、いいように攻撃されている。


「やめて、やめて! 薄荷にひどいことしないでっ!」遊は扉を叩き、必死で大人達に声をぶつける。「薄荷は何も悪いことしてないじゃない! 罰なら私が受けるからもうやめて!」


「こいつに罪がない? 馬鹿を言うな」遊の言葉に一人の教師は薄荷を蹴りながら答えた。「〝再教育〟を受けているお前にこうして会いに来ただけで立派な軍規違反なんだよ。まったく、最近のガキはルールってもんを無視して困る。おいおい、腹はやめとけ。内蔵が破裂したらさすがにセレクションに出せねぇだろ?」


 青白い闇の中、大人達が楽しそうに子供を痛めつけている。


 その光景に、遊は背筋が凍った。


 ここは戦場以下だ。


 こんなヤツラを楽しませるために、たくさんの子達が死んだのか?


「東雲、お前カウンタ300オーバーの兵士なんだろう? ちったあ抵抗してみねぇか!」


 笑いながら大人達は薄荷を無理矢理立たせると、顔に何度も拳を入れた。両腕をだらりと垂らした薄荷は唇を切り、血を吐いた。言葉にならない声を発し、殴られ続ける。


 もう見ていられない。


 遊は金網を血が出るほど握り締めて、叫ぶ。


「薄荷! 逃げて! もうこんな所いなくていいよ! 逃げて!」


 遊がそう言うと、薄荷は傷つけられながらも首を何度も横に振った。


 どうして?


 薄荷は遊と目が合うと、微笑した。


 ぼろぼろの顔で微笑した。


 薄荷の口が言葉を紡ぐ。



 ボクモユウモ、ココデシカイキラレナイカラ


 ダカラ、ボクト


 ボクトタタカッテ、ユウ



「僕と戦って、遊」


 薄荷はそう言ったきり、口を閉ざした。遊は言葉を失い、金網をつかんだまま立ちつくす。扉の向こうでまだ薄荷への体罰が続いている。けど、遊は反応しなかった。何も考えられない。


 薄荷は私と戦うつもりなんだ。


 その事実が遊の全てを凍らせていた。


 やがて、薄荷を痛めつけるのに飽きた大人達は、遊に向かって「明後日だぞ」と念を押して、薄荷を連れて行った。遊はその様子をずっと眺めていた。


 薄荷は一度も遊を振り返らない。


 闇に薄荷の背中が飲み込まれると、遊はその場に膝を折る。


 涙が止まらない。


 ――夢の時間が終わった。


 遊は月明かりの中、ずっと泣き続ける。


 

 セレクションまで、後二日。


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