第16話 かつての子供達へ


 どちらかというと遊は朝が苦手だった。


 生まれついての低血圧だけが原因ではない。朝が来るということはとりもなおさず新しい一日が始まるということである。せっかく生き延びた今日を無情にも昨日という過去に変質させ、どんな残酷な出来事が大口を開けて待っているかもしれない明日が今日になる瞬間だ。元々生きるという行為にすら懐疑的だった遊がそんな瞬間を歓迎するはずもない。だから、遊はもっぱら朝の気分はほとんど最悪に近かった。


 ただ、最近二ヶ月程だけは薄荷が無遠慮に「おはよー、遊、元気?」と毎日のように尋ねてくるので表面上だけは笑うくらいのことはしていた。


 そして、その作り笑顔が本物になりつつあることに遊自身は気付いてはいなかった。


 が、クラスが変わり遊の隣の席に薄荷はもういない。


 だから、遊が本来のデフォルト設定である〝朝は不機嫌〟であっても仕方のないことだった。


 よって、



 ――東雲薄荷って気持ち悪いよな。頭だっていっちまってるしさ、南野、来週きっちりあんなの殺っちまってくれよ。



 登校しカバンを机に置いたばかりの遊が、わざわざ席までやって来てそんな台詞を吐いたクラスメイトを蹴り飛ばしても何の不思議もなかった。


 床に這いつくばったクラスメイトの男子は床に嘔吐しながら、表情を歪ませていた。周囲にいた他のクラスメイト達が雑談を止めて立ち上がった。


 やっちゃった、と遊は思いはした。


 でも、後悔はしていない。


 してやるものか。


「お前、何考えてんの?」遊の一番そばに立っている背の高い男子が怒気をはらんだ声を上げ、遊を見下ろす。


「この子、カウンタ三桁だからって勘違いしてね?」その男子の後ろで女子生徒が薄笑いを浮かべる。「あたしもこいつムカつくんだよね。東雲といっしょに死んじゃえばいいのに」女子生徒は遊に向けてトリガを引くジェスチャーをする。


 遊は教室全体を視界に捉える。


 全部で四人。そのうち一人は思い切り鳩尾にかかとを入れたからしばらくは立てないだろう。実質三人。背の高い男子と頭の弱そうな女子二人。昨日、いっしょに演習をしたのでどの程度の身体能力を持っているかはもうわかっていた。たぶん勝てる。


 いちいち言葉を交わすのも面倒だ。


 やっちゃうか。


 遊はそんなことを考えながら、もう男子生徒との距離をつめていた。遊が何も言わず攻撃を開始したのが意外だったのか、多勢であることに気が緩んでいたいたのか男子生徒は一瞬虚を突かれた形になる。遊は易々と自分の射程距離に入り、男子生徒の腹に拳を叩き込み、下がった顔面を刈り取るように放った蹴りで床に落とした。数秒の出来事だった。あっけに取られていた二人の女子生徒が、次は自分達だと認識した時にはもう勝敗はほとんど決していた。遊にトリガを引くジェスチャーをした女子は遊に顔面を容赦なく殴られ泣いて許しをこい、その様子を見ていた最後の一人は戦意を喪失した。


 一分経たずに三人の少年少女達が地に膝を折っていた。


 遊は「二度と薄荷を悪く言わないで」と言い残し、教室を出た。


 高ぶった感情を抱えて廊下を歩く。


 私、何をやってるんだろう。ダメだ。冷静にならないと。


 授業までまだ間があるせいか、廊下にはぽつぽつと他の生徒達の姿が見られた。遊は生徒達の不躾な視線を感じる。注目されているのだ。薄荷はこの学校ではたぶん知らぬ者はいない生徒だ。カウンタが300を越えているなんてゲームに参加する少年兵には考えられないことだし、事実薄荷は並外れた戦闘力を持っている。それにあの容姿。有名にならないほうがおかしい。


 そして、そんな薄荷と一週間後に戦う遊も同じように廊下を歩けば視線を集める程度の存在にはなっているのだ。


 うっとおしかった。


 他人のことなど放っておいてほしい。


 また攻撃的な気分に自分が染まっていくことに遊は気付き、大きく息を吐いた。


 足を止めて、窓の外に視線を移す。


 既視感。


 いつかこんな風にこの窓からあの山の稜線を眺めたことはなかったか。


 予鈴が鳴って廊下にいた生徒が教室の扉の中に吸い込まれて、遊だけが残った。廊下に落ちた自分の影を遊は見つめる。少し暑い。まだ太陽の光には夏の名残がある。顔にじんわりと浮かんできた汗の玉をハンカチで拭おうと制服のポケットに手をつっこんだ時、遊の影に誰かの影が重なった。


 また既視感。


「やあ、休み前以来だね」


 白衣の男が立っていた。


「そうですね」遊は男の影と足元に視線を向けたまま答えた。


「東雲薄荷と随分仲良くなっているようだけど」


「どうして、そう思うんですか?」


「ついさっき、君のクラスの子達が三人保健室に来たと言えば、わかってもらえるかい?」男の声には少しだけ疲れの色が感じられた。あの三人の治療を終えたばかりのようだ。


「処罰にきたんですか?」遊はようやく顔を上げる。


「それは君の担任の役目だろう。あいにく僕は給料分の仕事しかしない主義なんだ」男は肩をすくめて、微笑する。


「じゃあ、ここで私に会ったのは偶然ですか?」


「いや、さっきも言った通り給料分の仕事をしに来たんだ。僕は東雲薄荷の主治医だ。彼と彼に関わる人達に気を配らなければならない」


「なら、薄荷はずっとイジめられてましたよ。先生は給料分の仕事をしていませんね」


「勘違いしないでくれ。僕の仕事は三つだけだ。一つはこの学校の保険医。もう一つは東雲の生命を維持すること。そして最後は彼が誰かを傷つけないか監視していること。その逆、彼が誰かに傷つけられたとしてもそれは関知しない。ゲームに参加さえできれば軍は何も言わないからね」


「薄荷はレアキャラだからゲーム以外で死なせたくない。けど、異常者だから他の兵士の子を傷つけて失うのも困る――ということですか?」


「その通り。君は頭が良くて助かるよ」男が薄く笑った。「以前言った通り東雲薄荷の心はもう壊れている。そんな彼が周囲にどんなことをするかわからないからね。もっとも彼は放っておいても皆に敬遠されていたから僕は楽だったんだけど。君だけは何故か彼に好意を持っているようだから再度忠告しに来たというわけさ」


「心が壊れているのは、あなた達大人の方です」遊は言葉を吐き捨てて、その場を離れる。


「なるほど、確かにそうかもしれない。だけどね」


 遠ざかる遊に男が言う。


「それでも、君達は戦わないと生きていけない。そして、君達を戦わせないと僕達も生きていけない。善悪の問題じゃない。そういうシステムなんだ」


 遊は何も言わず、男を残して歩いていく。


「君も覚えておけ! システムには逆らうな! 生き延びたかったらそうするんだ! 他の子達と同じように! それが大人になるってことなんだ!」


 男の声は何故か感情的になっていた。


 かって子供だった大人が、必死になって叫んでいる。


 遊は一人廊下を歩く。



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